永山則夫 封印された鑑定記録 堀川惠子

連続射殺犯永山則夫の精神鑑定に使われた100時間に及ぶ聞き取りテープが存在した。最初の取材から二年半後、著者は石川医師からすべてのテープを託される。

永山則夫 封印された鑑定記録

永山則夫 封印された鑑定記録

二度と裁判の精神鑑定はやらない

一切、公開するつもりもないし、私が死んでから捨ててもらうつもりです」(略)
 心を患う人たちに日々、向き合ってきた経験がさせることなのか、どんな質問にも穏やかな表情と語り口を変えることのない石川医師が、この時ばかりは表情を曇らせ口が重くなった。(略)
 「私は永山の精神鑑定を担当したのを最後に、もう二度と、裁判の精神鑑定はしないと決めたんです。もう絶対にやるまい、意味がないと思ってね。(略)」
 先に読み込んでいた医師の書籍や論文が、途中からまったく様子が変わった理由が少し理解できた。石川医師は何らかの理由で犯罪精神医学の道を諦め、患者の治療にあたる臨床医になったのだ。静かに語る表情はやはり穏やかなものだったが、その瞳の奥に見え隠れする哀しみの気配に、何らかの深い事情があることを予感した。

そんな石川の経歴

[小木貞孝(のちの加賀乙彦)に出会い]犯罪精神医学の研究に没頭(略)石川も小木と共に少年院や拘置所、刑務所に出向いては受刑者に面接を重ね(略)何度も犯罪を繰り返す累犯受刑者の行動を類型化することを試みた。
 この研究は小木との共同執筆の形で発表され、大きな反響をよんだ。(略)東大の医局で失望を深めていた彼は一躍、犯罪精神医学界の将来をになうホープとして、その存在を知られるようになる。(略)
石川はさらに統計学の立場に特化した研究を進めていく。(略)非行少年と非行のない少年とを比較し、統計学的に有為な差を導き出して非行の原因を突き止めようというもので、いわば多元的原因論を探る試みであった。
 しかし、その実験はやがて、完敗を喫することになる。いくらそれらの差を並べ組み合わせたとしても、非行の原因や過程を知るには無効であることが明らかになったからだ。
(略)
[土居健郎に出会い、「臨床こそ医学の目的」と諭され、「非行少年から学ぶ」ことを心がけ、患者との対話を深め信頼関係を築くようになる。それから45年間「土居ゼミ」に通い、最後まで師事した。]

石川の人生の分岐点となった、ある非行少女

怒りっぽく、爆発的な興奮があり、ガラスを叩き割ったり、ドアを蹴破る。性格は未熟で自己中心的、平気で嘘をつき、やけになりやすいという特徴もあり、職員からも「この子は矯正教育の対象にはならないから早く精神病院に送ったほうがいい」という諦めの声があがるほど見放されていた。
 石川は土居ゼミで学んだことを実践することにした。ただひたすらにA子の話を「聴く」ことから始めたのである。
 面接は毎回一時間と決まっていた。A子は最初、他人の悪口を言っては泣きわめき、面接の部屋は怒号に包まれるばかりだった。ところが、石川がひたすら聴く作業に徹してから二ヶ月くらいすると、A子の興奮は次第に影をひそめた。そのうち、彼女は石川との面接時間を楽しみにするようになり、自分自身のこと、両親のことを少しずつ打ち明け始めた。時には甘えるような態度もとるようになり、周囲の職員を驚かせた。
 そして石川が、少女の人格が発進していく可能性を楽観し始めた頃、二度目の試練が起きる。(略)
[石川が仕事で面接に遅刻]
するとA子は、「今日はもう石川に診てもらえない」という不安にかられ、興奮して暴れだした。職員から知らせを受けて慌てて駆けつけると、A子は「今まで男に裏切られてきたから、先生にも裏切られたのかと思った」とすぐに落ち着きを取り戻した。ところが、面接が終わろうとすると再び興奮し、怒りを拡大させ、初めて石川への憤懣を爆発させた。A子の心には、石川に対する独占欲で他の少女患者に対する嫉妬が渦巻き、怒りと同時にドロドロとした甘えが絡みあっているように見えた。
 石川が懸命に対応すればするほどに激しく興奮し、ついには、自分がかけていた眼鏡を放り投げた。その眼鏡は彼女にとって特別なものだった。視力の悪い彼女に石川が貸し与えたもので、石川の分身であるかのようにとても大事にしていた。彼女は自らの手でそれを壊してしまったのである。A子はますます絶望的な混乱を示し、三時間以上にわたって泣きわめき、ついには向精神薬を大量に注射して鎮静させる事態になった。
 石川は他の教官らから厳しく突き上げられた。「先生が甘やかしすぎるからだ、もっと厳しい治療方針にすべきだ」と批判にさらされた。(略)
[院長のとりなしで、治療は続行]
 石川は、A子は面接時間では話し足りないのだと判断し、日記を活用することにした。大学ノートを二冊用意し、A子が書いてきた一冊を石川が読んでコメントし、次回に交換するという方法である。
 するとA子は、大学ノート一冊を一週間で使い切ってしまうほどの分量で書き始め、コミュニケーションは一気に深まった。自分の思いを文字にすることで興奮することも暴れたりすることも減っていった。「行動化」が「言語化」に変わったのである。
(略)
 そして、A子への治療を通して確信したという。非行というものの多くは、親の仕打ちに、これ以上、我慢できなくなった子どもが止むに止まれず行動で示すことなのだと。
(略)
 A子はその後、紆余曲折を経ながらも、無事に退院していった。それ以降、社会で一度も非行や犯罪はしていない。のちに結婚し、自立した生活を営んでいる。
(略)
 「あの時、私を見捨てなかった先生に、悪いことをして迷惑かけることはできないもの」
 A子の「先生に迷惑をかけられない」は、それから少しずつ「家族に迷惑をかけられない」「社会に迷惑をかけたくない」という思考に繋がっていった。
 精神科医の中には、患者にすぐに診断を下したり、薬を渡しただけで治療した気になったり、症状を分析して終わりという者もいる。しかし、ひとりの患者と真剣に向き合うには時間が必要だ。逆に時間をかけないと、本当に治療の効果があったのか簡単には分からない。A子との出来事は、精神科医としての若き日の石川に貴重な教訓を与えてくれた。石川医師は2013年、78歳になる今もA子との交流を続けている。

第二次精神鑑定

 鑑定を引き受ける条件として石川医師は弁護団に、永山を自分が勤務する八王子医療刑務所に移し、鑑定を集中して行えるようにしたいと求めた。いわゆる「鑑定留置」である。新井鑑定では鑑定留置はわずか八日間だったが、石川は二ヶ月は確保してほしいと願い出た。(略)
[東京地方裁判所が第二次精神鑑定を行うことを認める]
すでに検察の主張に沿った精神鑑定が存在するにもかかわらず、弁護側の申請が認められるのは異例のことだ。しかも鑑定留置の期間も希望どおり二ヶ月間、許可された。その間、裁判は中断されることになった。(略)
[この異例の決定を下した海老原震一裁判長は裁判開始直前異動に]
この時期の東京地方裁判所全共闘事件や赤軍事件といった審理が続いており、法廷は荒れに荒れ混乱を極めていた。審理の迅速化は裁判所の至上命題になっていた。
 海老原裁判長は、重大事件の審理には慎重にも慎重を期す姿勢で知られた人だった。しかし、裁判の進行を止めてまで二度目の精神鑑定を認めた海老原裁判長の采配が、上層部の意向に叶ったものでないことは明らかだ。それで、わずか二年での転籍となったのか。

中央公論社を辞めた井出孫六39歳

(後に直木賞作家)はふと永山の法廷をのぞき興味を抱く。弁護士に会うと、ノートを見せられた

「ノートをまとめて本にして出版して被害者遺族に金を送るんだと、本人は言っているんですけど、どの出版社も前向きじゃないんですよね」
(略)
 鬱、縊、締、噛、霊、怨……。暗い雰囲気の漢字を、物凄い勢いで何回も何十回も、繰り返し練習している。あまりに強い筆圧で、紙の裏までボコボコだった。(略)さらに頁をめくると、詩や短い小説が出てきた。
 「それはもう、本当にびっくりしましたよ。いやもう、すごいと。啄木調の詩が出てくるんですけど、彼は石川啄木を読み込んでいるんです。恐らく中学時代から読んでたんじゃないかという感じで、稚拙だし技術はないけど、ちゃんと韻もふんでいる。幼い頃に家の中から見た風景を、ちょっとした散文風にして書いてみたりもしている。(略)かなり高度なものを読んでいる形跡があるんです。ドストエフスキーなんか読んでるんだ。そういうことが次々と分かりましてね、あの時は興奮しました」
 元編集者の直感として、これはすぐにでも、このままでも本に出来ると確信した。
 「ものすごい宝石みたいなものが一杯あるという感じ、あのノートの中に。考えられないような可能性を秘めているような気がしたんです。彼が書いていたのは、自分が殺した四人が一生、自分の中にいて、自分は五人を生きている、だから自分を書きたいのではない、書くことで四人を殺した罪を償うんだという言い方をしてるわけ。自分は弱い人間で、自殺するにも四人殺さないといけなかった、そういう罪を背負った人間なんだと。
(略)
[出版され大ベストセラーに]
永山が出版社と結んだ契約書には、印税を遺族に送ることが明記されていた。印税はまず函館の遺族に届けられ、増刷分から京都の遺族にも届けられるようになる。

母代わりの優しい長女セツ

 母は永山に愛情を注がなかったが、長女は立派に母代わりを果していた。しかし、永山が四歳になる前に、長女は突然、永山の前から姿を消してしまう。(略)
セツは、母の看病を終えた後は恋人の実家の助けを得て大学へ進学する夢を抱いていた。毎夜、そのための勉強も怠らなかった。(略)
[だが母子10人の家事育児に追われ]
 セツは家からまったく出られなくなってしまった。やがて恋人にも結婚の約束を破棄される。その時、セツは身ごもっていた。母に厳しく言われ、その子は泣く泣く堕ろした。博打に狂った父が家に帰って来てはセツを殴りつけたのも、この頃のことである。それからのセツはすっかり様子が変わってしまったと母は語る。(略)
 そのうちセツは、「下つき一丁、上半身は裸のまま」家を飛び出して、別れた恋人の家に無断で上がりこむ“事件”を起こす。その出来事を機に、網走市内の丘の上にある精神病院に入院させられることになった。精神分裂病の診断が下され、以後五年間、その病院で過ごすことになる。
 セツが入院したその日のことを永山はぼんやり覚えていた。
永山 覚えているのはね、こうやってセツ姉さんにおぶさってね、山の方に、坂の上にある病院にね、おんぶしてもらって、あれ精神病院かな、病院……。白い看護婦さんがいたのを覚えているけど(略)それっきり、どうやって帰ってきたかも分かんない……。
長女セツの献身により辛うじて家族の形を保っていた永山家だったが、その歯車は一気に狂い始める。
(略)
 母が三人の女の子を連れて網走を発つ時、網走駅のホームでとり行われた“別れの儀式”は(略)貧困がもたらした悲劇的な別離のワンシーンとして、映画にもなった。しかし、それは現実からほど遠い。確かに網走に残されることになった四人の子どもたち[一番年上が13歳の三女]は、母について網走駅まで行っている。それは見送りというよりもむしろ、母の荷物を運ぶという役割を伴うものであった。
[残された子供たちは屑拾いをやったり残飯を漁って生き延びた]
(略)
[当時4歳の]永山は、母に捨てられたことを覚えていない。
 姉が病院に行った日のことも、捨てられてからの辛い体験も覚えているのに、永山の記憶からは母に捨てられた事実だけが完全に欠落していた。
(略)
[母ヨシへの聞き取り]
 石川医師の口調は極めて慎重で、子を捨てたことを責めていると受け止められないよう、言葉を選んで質問を重ねている。母ヨシが罪の意識に苛まれて対話を拒否することを心配したからだ。しかし、当のヨシは特に気にする風もなく淡々と語っている。網走を去る際、青森から仕送りするという次男への約束も、自分の生活が大変だったので一度もしなかったと言い切った。則夫を「捨てた」のではなく「置いた」と表現し、その時はばつが悪そうに軽く笑ってすらいた。(略)
網走に残してきた子どもたちのことが心配だったというような言葉は、水を向けられても一言もも出なかった。母のあっさりとした語り口は奇妙な違和感すら覚えさせるものだ。(略)
[石川がヨシの生い立ちを調べると]
義理の父による虐待、母に捨てられたことによる放浪、そして子守――。それがヨシの半生だった。(略)
[異父妹が生まれ居場所がなくなり、町のリンゴ栽培の技師、永山武男と結婚。夫は高収入だったが博打に狂い失踪]
肉親からの愛情を知らないまま育ち(略)自分がかつて実母からされたのと同じことをしたにすぎない。むしろ実母は樺太に自分を置き去りにしたが、自分は子どもたちのために一週間分の食料を置いてやった。そこには夫だっていた。実母のように捨てたのではない、「ただ置いただけ」と思ったとしても不思議はない。
(略)
 厳寒の網走に捨てられた四人の兄弟は、一冬を奇跡的に生き延びた。春になって、やっと動いた福祉事務所が母親の居場所を探し出し、四人を板柳町へと送った。三女の靴下の中には、福祉事務所の人がこっそり入れてくれた五千円札が入っていたという。(略)
蒸気機関車旭川を経由して札幌まで十数時間、さらに青函連絡船津軽海峡を渡り、青森駅から奥羽本線川部駅まで来てそこから五所川原行きの五能線に乗り継ぐ。当時、四歳だった永山に道中の記憶はほとんどない。
 母ヨシは、当時43歳。板柳町役場の人に促され、川部駅まで子どもたちを迎えに行っている。(略)
長女セツ(23歳)は、網走の精神病院に入院したままだ。(略)五年後、病院が板柳の実家を探し出して連絡してくるまで、母は病院に一度も連絡を入れていない。(略)
 幼い二人の女の子の育児係として母親と一緒に青森に連れて帰られた次女(18歳)は、逃げるようにして家を出た。(略)長女セツが家族の犠牲になって人生を狂わされていく様子をつぶさに見ていた。とにかく家から、母から離れるしかなかった。住み込みで働ける場所を探し、青森市内で看護婦の仕事に就いた。そのうちに同じ病院に勤める調理師と結婚して名古屋に引っ越し、あっという間に住民票だけでなく本籍まで変えてしまい、永山家から完全に籍を抜いた。母親が後に、「次女はちゃっかりものだ」と非難するのは、このあたりの事情があるようだ。(略)
[三女も]中学校で成績上位に名を連ね、勉強を続けるため自分で働いて高校に進学しようと考えたこともあった。だが、そんな願いはもう昔の夢でしかなかった。[住み込みで町内の]S美容室に勤めながら通信教育で美容師の資格をとり、二年後には東京・四谷の美容院に勤めることが決まった。上京して以降、三女は生涯を通して青森の実家に戻ってきたことも手紙や電話をよこしたことも、ただの一度もない。母のことを「あの人」と呼んだ三女は後に、「故郷は捨てた」と話している。(略)
 こうして板柳の家に残されたのは母ヨシと、子どもたち五人。次男(11歳)、三男(5歳)、四男の則夫(4歳)、そして四女と孫(ともに2歳)である。(略)
[次男の則夫への暴力が始まる]
 その次男に対する近所の評判は思いのほか芳しい。次男は愛想がよく、誰とでも親しく話した。成績も例によってずば抜けていた。(略)学年で常にトップを争い、野球も上手。(略)
 同級生は続けて推測した。
 「あれだけ頭が良かったのにさ、結局、集団就職だったでしょ。自分よりも成績が悪いのが沢山、高校なんかに行ったりするから、まあ、そういう時代だったけど、悔しかったんじゃないかね」
 外では優等生だった次男の鬱憤が、家庭という密室で一番幼い弟に向かったとしても不思議はない。(略)
三男は、次男のように永山に暴力を振るうことはなかったが、徹底的に無視をしたという。そうでない時は口でいじめた。「だから、三男とおふくろは同じなんだ」と永山は語っている。(略)
[近所の人から次男の暴力を知らされた母は]意に介さなかった。泣いている永山を「また泣いて、この!」と理由も聞かず殴った。そのような母の態度は次男の暴力をますます増長させた。母は永山を殴る時、決して自分の手で殴らなかった。無意識かもしれないが、四男の則夫に肌をふれないことだけは徹底していた。だから、永山には母に直にふれられた記憶が一度もない。
(略)
[なぜ母ヨシは則夫にだけ冷たかったか。それは失踪中の憎い夫に性格や仕草が似ていたから]

家出

 この若夫婦に限らず、永山は家出をする度、見も知らぬ大人たちから沢山の食べ物を恵んでもらった。機関車に乗っていると、家に居る時よりずっとお腹がいっぱいになった。幼い頃の写真に見る永山の顔は丸くて大きな瞳が目を引き、長いまつ毛は女の子と見違うほどた。その容貌で、町の子どもたちからは「オカマ」と呼ばれさんざん馬鹿にされたが、大人から見れば愛らしい顔つきだったのだろう。
 機関車の隅っこの席にちょこんと座り、窓の外を見ながら貰ったばかりの食べ物を食べていると、いつも決まって車掌がやって来た。食べ物をくれた大人たちが密かに通報していたのだろう。「君はどこからやって来たの?」とやさしく問われてうれしくなってついてゆき、いつしか板柳町へと送り返された。
 一番遠くまで行ったのは小学校三年の時。九歳の逃避行は津軽海峡を越え、北海道・函館へと渡り、その先の「森」の駅まで辿り着いた。
(略)
たまに登校した小学校の作文の授業で、女の先生から将来の夢を書きなさいと言われたことがある。永山は、「雀になりたい」と書いた。
 「鳥になって、どこかへ行きたい、ずっと行きたい」
(略)
「もしかしたら、おふくろに心配してもらいたくて、俺(家出を)やってたのかもしれないね」と永山は語っているが、この家出は彼にもうひとつ、大きな成果をもたらした。永山を迎えに行くために[時間をとられ]仕事が出来なくなって困り果てた母親が、次男に暴力を止めるよう注意したのである。以降、次男のリンチはぴたりと止まった。永山は「家出した俺の勝利だ」と思った。
 “逃避行”は、やられっぱなしの少年の心に、物事を解決する有効な手段として刻まれた。

次回に続く。