コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史

ドイツの軍事史家による独軍の将校教育の方が米軍より優れてるという分析。
そうなると「人格」を有する将校教育で、不法な命令には従わないという伝統もあったドイツ軍がなぜナチ体制に従ったのか、という疑問も出てくるわけで、その回答は、上級将校の腐敗欠陥etcというもの、うーん。

陸軍士官学校ウェスト・ポイントでのしごき

新しい校長マッカーサーは(略)ウェスト・ポイントを大幅に改善した。とくに、「マッカーサーの最下級生徒システム」を導入し、最下級生徒の扱いを変えたことが顕著である。それによると、たとえば「しごき」に積極的に反対する行動を取らなかったものには、いかなる名誉も与えられない。単に「しごき」をやらない、もしくは見て見ぬふりをするというのでは、もはや不充分だったのだ。
(略)
彼は、1899年に最下級生として、こうした拘束やしごきを経験している。「鷲にされる」、つまり担架から吊り下げられ、それから22分間「シャワーを浴びる」ことを強いられた。(略)マッカーサー疲労困憊し、意識を失った。生徒間に共有されている、誤てる名誉規範に従い、マッカーサーは最初、議会の聴聞会で彼を痛めつけた男に不利な証言をするのを拒否した。軍法会議で、真に正しい名誉ある行動について論されて、マッカーサーはようやく彼をしごいたサディストの名を告げたのである。(略)
 ウェスト・ポイントの教育は四年制であるが、そのうち第一年がもっとも脱落率が高かった。「平民(プリーブス)」と呼ばれる新入生は、それぞれ、「二歳馬」、「乳牛」、「一号(ファースティーズ)」と称される二年生から四年生までの上級生に、好き勝手に弄ばれたからだ。(略)
 入校後最初の数週間には、「けだもの兵舎(ビースト・バラックス)」という、実にふさわしい俗称が付けられている。その間、プリーブスは、情け容赦のない嫌がらせ、侮辱、健康上とても推奨できないような激しい肉体訓練を耐えねばならないのだ。
(略)
 ウェスト・ポイントで本格的にしごきがはじまったのはいつなのか、いまだにあきらかではない。おそらく、南北戦争よりあとのことと思われるが、あるいは士官学校創設以来存在していて、単に残忍さが増しただけなのかもしれない。
(略)
「平民(プリーブス)」の身体の下にガラスの破片を置き、容赦なく腕立て伏せを強いるといったふうに、より厳しいものにすることができた。プリーブスの髪を糖蜜で固め、アリ塚近くの地面に縛りつけたり、何時間もロッカーに閉じ込めるというようなこともなされた。大量の飲食を強いられることもある。互いに反吐をかけ合うために、だ。普通の食事でさえも、「狙いすました拷問の実行」になり得た。ときに、プリーブスは食物や水を奪われて身体運動をやらされ、栄養障害や脱水症状で参ってしまった。「シャワー」というしごきは、こうだ。プリーブスは、毛織物製の制服、いわゆる「最下級生の肌」と重いレインコートを着て、壁を背にして、後頭部と壁のあいだにグラスを挟んで、立たされる。心身ともにストレスがかかり、また通風が欠けていることから、あっという間に汗が噴き出て、彼らはびしょ濡れになる。これが「シャワー」で、すぐに脱水症状を引き起こす。グラスを地面に落とすと、ひどいことにその代金を支払わされる。だが、通常は、卒倒するまで立たされっぱなしなのだ。(略)上級生が小便をかけることさえある。
(略)
[陸軍最良将校の一人]ジョージ・C・マーシャルは、「ネズミ(新入生)」のときに、残酷なしごきを受けて、重傷を負った。(略)直立させた銃剣の上にしゃがみこむことを強制され、ややあって力尽きた彼が倒れるとともに、臀部がひどく切り裂かれたのである。

傲慢

士官学校出の少尉たちが遭遇する、もしくは自ら使うことになるであろう武器や戦術についての実践的な軍事知識はまったく足りない(工兵科に配属された場合は別だ)。その結果、士官学校で四年間過ごしたのち、すぐに配置される軍の職務をこなす力がまったくないし、自分でもそう感じていたのである。彼らは往々にして、おのれが能力不足だという認識を、傲慢に振る舞うことで糊塗する。多くの場合、傲慢は、ウェスト・ポイント卒と同義語なのだ。また一方で、ウェスト・ポイントの平民制を乗り越えてきたのだから、自分は特別な存在なのだと考える者もある。だが、こうした自惚れ者のうち、何人かは戦闘の試練によって尊大さを失い、ウェスト・ポイントに入ったときの友人たちに忠告するはめになった。「実際、われわれウェスト・ポイント卒の最大の欠陥は、他人を見下すことだ」と。

一方、ドイツのシステムは

 ドイツのシステムは、その不公平な予備選抜、つまり「下層」に生まれると、他の階級の者よりも将校団に入るのに多大な困難があるということにより、不利益を被った。が、それはまた、幼年学校に入れた者に対しては、よくできた選抜システムを提供していたのである。ドイツの生徒は、ほんのティーンエイジャーにすぎないころから、将来の指揮官としての能力があることを証明しなければならない。ごく早くから、生徒は、生徒隊もしくは将校団での地位は、年功序列によって決められているわけではないことを悟る。ふさわしい業績さえあげれば、年少の生徒が上級生を追い越して、彼らの上官になることもあり得るのだ。これこそ、ドイツのシステムにおける最大の利点だった。ウェスト・ポイントでは、四年制の秩序が抜きがたく存在する。そこで生き残るには、リーダーシップよりも規則遵守のほうが助けになった。だが、陸軍幼年学校では、指揮統率能力が最高に評価された。また、ドイツの幼年学校では、しごきがはっきりと禁じられているばかりか、進級と指揮官率先垂範のシステムが抑止となるため、それが続く可能性はなかった。上級生もおのずから新入生に優しく接するようになる。一、二年のうちに、その新入生の部下になるかもしれないからだ。日常生活においても、権限を与えられた将校が常に生徒たちとともにいて、前年に上級生のなすがままになって苦しんだ者が、順送りだとばかりに後輩の教育に口を挟んだりしないようにしている。
(略)
将校は尊敬される存在でありながら、気軽に近寄って話しかけることができた。元生徒の多くが、幼年学校の校長と親しく会話したことを綴っている。
(略)
 四年間やり抜けば、アメリカの生徒は将校に任官する。だが、彼らが最初に指揮を執ったときから、自信が持てずに苦しむことになる。軍事やリーダーシップについて、適切な教育を受けていないからだ。数学や「平民」を怒鳴りつけたことなど、本当の軍隊での日常生活にあっては、まったく無意味だったことがわかる。多くの者が、古参下士官やもののわかった大佐に助けられる始末だった。
 ドイツの幼年学校を卒業した者は、アメリカの卒業生より何歳も年少であるにもかかわらず、ずっと進んでいた。民間学校で定められているのと同等の教育を受けている上に、中隊を指揮するのに必要な戦術やリーダーシップに関する知識を得ているのだ。とはいえ、彼の階級は少尉候補生にすぎず、自らに能力があることを繰り返し証明しなければ、将校には任官できない。連隊で二期、軍事学校で一期過ごしたのちに、将校になれるかどうかが決まるのである。士官学校のお定まりの生活ではなく、人生の現実こそが決定的なファクターなのだ。

第一次世界大戦後のドイツ軍の武装解除

 ヨーロッパに対する脅威とみなされたドイツ大参謀本部ヴェルサイユ条約によって解体され、参謀将校の教育も禁じられた。しかし、ドイツ軍は、大参謀本部を「兵務局」と改称しただけで、そのT4課が参謀将校教育を扱うことになった。参謀も、同様に「指揮官補佐」と名前を変えただけだった。これによって、連合国合同監視委員会を数年間あざむいたのである。(略)
訪独した米軍将校もまた、その全体像はつかんでいなかったとしても、衆人環視のもとにありながら、ヴェルサイユ条約が侵犯されていることを知っていた。(略)
多くの観測筋が、ドイツ人は「全陸軍を、一つの高度に効率的な学校に改編している」と特記している。
(略)
1928年、駐独アメリカ陸軍武官のアーサー・L・コンガー大佐は、どこかの将校学校に入校させろとやかましく求め、ドイツ陸軍の指導層を悩ませたあげくに、当時、兵務局T4の業務を分掌していた第三師団の学校参観を許された。コンガーは、「留保なし、無条件であらゆること」を視察する許可を得たが、「彼がその学校を参観したことを誰にも語らない」、さらには「そのような学校が存在することを認めない」ようにと、要求された。この米軍将校の参観は、おそらくドイツ軍がコンガーを「偏見がなく、率直で正直なドイツの友人」と考えだからこそ、実現したのである。また偶然ではあるものの、二十年近く前にコンガーはハンス・デルブリュックの学生だった。デルブリュックは今やベルリン大学で教鞭を執っており、近代軍事史ディシプリンを確立した人物とみなされていたのだ。
(略)
[だがコンガーは]ドイツ将校の信頼を裏切り、ワシントンの陸軍省宛に詳細な報告書を書いた。
(略)
ドイツのシステムは、アメリカよりもずっと優れていた。陸軍は広い範囲からの選抜を実行したし、青年将校も、まったく直属上官の思うままというわけではなかったからである。採点の際、受験者の名前は秘されていて、優れた得点が出た場合にのみ、軍管区司令部に当該の番号が付されたファイルが送り返される。それに基づき、問題の将校の能力についての報告書が連隊長から提出されることになっていた。
 軍管区試験では、高度な教養や難解な知識ではなく、軍事に関する堅実な理解が求められた。論理的に思考をまとめ、それを表現する能力は、才気を表すものとして評価された。軍管区試験は、ドイツの上級将校が下級将校を試すのみならず、現今の軍事について若い世代の意見を聴取する手段としても使われていたのである。
(略)
ドイツ将校にあっては、能力の欠如や予習不足は、戦友や講師もしくは学校の責任者にすぐ気づかれてしまう。ドイツ将校は、アメリカ軍のそれのごとく、何年も「繭」のような状態にとどまってはいられない。後者は、「往々にして、勉強する習慣をほとんどなくしていて」、ギヤがオーバードライブに入るのは、指揮幕僚大学校入校を命じられたときだけなのである。(略)
 合衆国とドイツのきわだった差異は、学校の教官や監事の選抜にある。軍学校や陸軍大学校に配属されるのは、戦争で多彩な経験をしたベテランのみで、しかも彼らは教育者の素質があることを示さなければならなかった。
(略)
 アメリカの軍学校では、実施部隊で異なるノウハウを得るチャンスを与えぬまま、元学生だけを教官とするため、「経験の地平が狭隘になる」ことは避けられない。そのことは、ドイツ将校が何度も特記している。
(略)
高度な能力が期待され、しかも厳しい選抜がなされていたにもかかわらず、上級軍学校に至るまで、ドイツ軍が優れた教官に不自由することはなかった。ドイツの青年将校たちは、エルヴィン・ロンメルに戦術を、ハインツ・グデーリアンに自動車輸送の実際を教えられることになったのである。両者ともに、それぞれの分野での専門家そのものだった。

委任戦術

 こうしたドイツの専門軍事教育システム全体が、有名な委任戦術に道を拓いた。この概念の総体は、アメリカ英語で「任務指定命令」と訳されているが、適切ではない。イギリス英語のそれも「訓令統制」と、こちらも良いものではない。(略)
 委任戦術は、往々にして命令の出し方のテクニックだと誤解されている。だが、本当のところ、それは指揮統制の哲学なのである。委任戦術の土台となっている理念は、上官による方針指示はあるものの、けっして事細かな統制はやらないということなのだ。(略)
ベストの訳語は「任務指向指揮システム」であろう。(略)
 アメリカの中隊長が、とある村を攻撃し、占領せよとの命令を受けたと仮定する。彼は、第一中隊を村の側面に向かわせ、第三中隊を正面突撃させよというふうに言われるはずだ。戦車四両が中隊に配属され、正面突撃支援を行うから、こちらが主攻になる。数時間ののち、中隊の攻撃は成功、中隊長は後方に無線報告を行い、つぎの命令を求める。
 一方、ドイツの中隊長が与えられるのは、「一六〇〇までにこの村を確保せよ、終わり」といった命令だ。攻撃前に、この中隊長は「一介の擲弾兵にまでも、攻撃中、何をなすよう求められているかを徹底」しておく。もし、小隊長や下士官が斃れたら、徴集兵が指揮を執らなければならないのだ。アメリカの兵隊たちは、こうした情報を切望したが、それが得られることはなかった。「命令が『なぜ出されたか、その理由』をほとんど知り得ないこと」が、GIにとって、もっとも深刻な問題の一つだったと、陸軍当局によって確認されている。
 ドイツ軍の中隊長は、配属された戦車を村に隣接した高地に配して援護射撃させるかもしれないし、集落の周囲に展開させて、村の守備隊の逃走を封じるかもしれない。村の攻撃方法に関しては、正面突撃、浸透、両翼攻撃と、中隊長が状況に鑑みてベストとみなしたものなら、どれを使ってもよい。村が占領されたなら、防御側の残兵追撃と、ただちに必要とされるわけではない部隊がさらに推進せしめられる。ドィツ軍の中隊長は、委任戦術の理念により、上官の攻撃構想をすべて理解しているし、彼が取るべき行動はすべて、一六〇〇時までに村を奪取せよという単純な命令に包含されている。訓練の結果、ドイツ将校は、「詳細な指令など必要としない」のだ。
 最良の例の一つが、当時大佐でクライスト装甲集団の参謀長だったタルト・ツァィツラーの言葉であろう。1940年のフランス戦直前、隷下快速部隊の指揮官と参謀将校たちに、彼は言った。
 「諸君、私は貴官らの師団が、完璧にドイツ国境を越え、完璧にベルギー国境を越え、完璧にムーズ川を越えることを要求する。どうやるかということには頓着していない。それは、完全に貴官たちにゆだねる」。対照的に、北アフリカ上陸作戦に関して米軍部隊に出された命令書は、シアーズ・ローバックのカタログほどの厚さがあった。
 クライスト装甲集団所属の第19自動車化軍団長ハインツ・グデーリアン中将は、委任戦術の精神にのっとり、指揮下の部隊にもっと有名な命令を下した。彼らは全員「終着駅までの切符を持っている」としたのである。この終着駅とは、それぞれに指定された、英仏海峡沿いの都市を意味していた。これらをどうやって奪取するかは、すべて部下に任されたのだ。