渋谷系 若杉実 マンハッタンレコード、カジヒデキ

渋谷系

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平川雅夫(「マンハッタンレコード」創業者)

[詳しい経歴はこのインタビュー記事に→KEYPERSON|渋谷文化プロジェクト]

[平川が発起した]全日本レコード祭りも最初は入場料の話があった。
 「でもさ、そんなめんどうなことやめようってみんなに言ったんだよ」
 くり返すが平川には音楽文化の普及という大きな目標があった。この世界の敷居をみずから上げるようなことはしたくなかったのだ。
 91年になって現在も店を構える宇田川町にいよいよ進出する。その理由もすべては音楽文化への貢献にほかならない。
 「かっこつけた言い方になるけど、お金儲けに飽きちゃったんだよ。いまとはちがいアメリカのむかしのレコードなんて当時の日本人はほとんど見たことないからほったらかしても売れたんだよ。でも、それをつづけたところで面白味なんてない。レコード好きってようするにマニアだろ。マニアってことはたくさんの量を集めたいんだよ。集めるってことは単価が安くなくちゃできない。だからさ……」
 そこで平川、マンハッタンレコードは勝負に出る。新たに商品ラインナップに迎えたのはヒップホップとR&B。いずれもこれまで扱ったことのない新譜だった。
 そもそもブラック・ホークが音楽リスナーとしての原点だった平川がヒップホップをすぐ理解できるようなことがあるだろうか。
(略)
シュガーヒル・ギャングっているよな。あれをリリースしていたのがシュガーヒル・レーベル。でもそのまえはエンジョイって名前だった。もともとハーレムのレコード屋だ。ボビー・ロビンソンってオトコがやってた。ボビーっていえば50年代にエルモア・ジェームスなんかをプロデュースしていたけど、それからはパッタリになってしまう。でも、そうやって70年代に復活するんだ。
 たとえば『ビッチェズ・ブリュー』なんて当時はチンプンカンプンだった。かといってプレスティッジのジャズファンクなんか当時の日本でだれも見向きもしないカスさ。でも、『ビッチェズ・ブリュー』はチャートに入ってる。向こうの黒人に支持されてるわけだよ。ああ、ジャズもブルースもゴスペルもファンクもヒップホップもおなじじゃないかとおもえてきた。どの音楽にもスネアとバスドラが入ってるしな(笑)。
 オレはそのときもう40になってたからさ、10〜20代とおなじノリってわけにはいかない。でも、周りにヒップホップ好きが増えてきたから勝負に出ようとおもったわけさ」
(略)
 「階段の上から降りて来たひとが“安いな”、下から上って行ったひとが“高いな”とわかってくれる場所。つまりライバルが近くなきゃビジネスじゃないからね。若者は小遣いそんなにないんだから、じゃあライバル店が12インチシングルに1280円をつけるならウチは780円で売りましょうってことにした」
(略)
[90年代の円高基調が追い風に]
ライバル店の粗利率が6割だったのに対し、マンハッタンは4割ほどのマージンしか取っていなかったのだ。地方の小売店への卸にいたっては1割に留めた。(略)
[薄利多売で年間売上36億円に。ラキム新譜初回発注6000枚が一週間で完売]

93年『クーリン・グルーヴィン』ツアーをプロデュース

[メンバーはチャック・レイニーソニー・フィリップス、ルー・ドナルドソン、そしてコーネル・デュプリーだったが、ドタキャン]
 「10日まえのドタキャンだよ(苦笑)。ほんとにまいったな。フライヤーも(修正が)まにあわなかった。ほかにも候補がいたんだけど、デヴィッド・T・ウォーカーがいちばんマジメな音を出す人間だとおもったから彼にやってもらおうって決めたんだよ。事実、ほかの連中とはまるでちがってたね。唯一スーツ姿でステージに立つんだよ。“なんでだい?”と聞くと、“これがミュージシャンのトラディション”って言うのさ」
 マンハッタンの親会社レキシントンがプレスティッジ・レーベルの再発企画『ジャズ・グルーヴ・プレスティッジ・コレクション』と連動しておこなったライブで、企画にも参加した小林径がオープニングDJも務めている。
 往年のミュージシャンが近年の再評価で世代の異なる聴衆のまえに担ぎ出される。(略)
 たしかにミュージシャンにしてみれば寝耳に水、老体に鞭打ち、20年まえにちょっとした弾みでやってしまったジャズファンクだかソウルジャズだかいう時代のあだ花を日本の渋谷という街で再演させられる、というなかば強制的なものだったのかもしれない。
 事実、彼らは主催者側のリクエストに対して聞く耳などまるで持っていなかった。
 「まずライヴやるまえに個別に家を訪ねたんだから。テキサスからニューヨークまで行ってさ。そこでこちらの条件をていねいに説明していく。“みなさんはすばらしいミュージシャンです。これまで録音されてきたレコードはわたしたちの宝です”という前置きは忘れないようにした。で、そのつぎにこう念を押すんだよ。“しかし今回のステージにバンマスはいません、わたしがバンマスです。曲も指定したものだけでお願いします。この条件でよろしいでしょうか?”』
(略)
やはり不安が的中する。事前の忠告にもかかわらず、彼らはジャズファンクをやろうとしない。初日の福岡ではほぼ音合わせのような演奏となり、大阪でもスワンプやブルースがセットリストの大半を占めた。業を煮やした観客からヤジが出る始末だった。(略)
小林径もジャズファンクマスターたちに渋々ダメ出しをしたほどだった。そのかいあってか、名古屋公演にてコツをつかみ出した彼らは東京にてようやく本調子を取り戻す。
 おもえば仕方のない話でもある。何十年ぶりかの顔合わせになった彼らは、すでに別々の世界の住人になっていたのだから。代役のデヴィッド・T・ウォーカーにかぎって言えばルー・ロウルズらのバッキングを担ってきたような人間で、一連のプレスティッジ・レーベルとは無縁だったのだ。ソニー・フィリップスにしても来日したとき、アラバマの田舎で学校の先生をしているとかいう話だったが、その理由にしても体調不良で現役を退いているということだった。

フリーソウル』でも人気のボズ・スキャッグス『スローダンサー』について平川は

ブラック・ホーク(百軒店)はさ、あの1枚が出てきたときに認めなかったんだよ。地に根づいたものじゃないってことでね。黒人音楽が好きじゃなかったんじゃないかな。あれはジョニー・ブリストルがプロデュースだろ。でも、オレにとってシンガーソングライターだろうとなんだろうと琴線に触れれば良質なポップスだよ。そこだよ、肝心なのは。カントリーだってみんなが歌えるものはポップスじゃないか。そういう意味ではノーティー・バイ・ネイチャーだってデ・ラ・ソウルだってポップスさ」

福富幸宏

ネタへの依存が露骨になる渋谷系福富幸宏が異色なのは早い時期にNYハウスシーンを体験したからと、著者。

[福富幸宏談]
 「やっぱり現場を見てみたいとおもって最初に行ったのが88年。ワールドという大箱に行くとプレイしてたのが、フランキー・ナックルズとデヴィッド・ピッチオーニ。翌年もういちど行ったときはレッド・ゾーンというハコでデヴィッド・モラレスを見て、ようするにNYハウス全盛だったんだけど、じつは平日なにげに入ったトラックスというクラブの黒人のゲイパーティがすごい衝撃でね。ひとはポツリポツリくらいなんだけど、音楽が音楽じゃない、ほんとにレコードかけてるの? その場で打ち込んでるような感覚だった。ドンドンドンって鳴ってて途中で“ピッ”ていう、それが何時間もその状態。音がすごく良くて、その周期的に入るヘンな音“ピッ”というのがね、なんかこうすごくクル(笑)。うまくことばにできないんだけど、とにかくショックだった。NYハウスは終わりの時間に近づくとクラシックが流れるというパターンでしょ。でも、そこのトラックスはシカゴ寄りで、ぼくが好きなシカゴハウスの現場はこうなんだろうというのが体感できて良かった」

カジヒデキ

高校卒業してまもなくニューロティック・ドールというポジティヴパンクのバンドに“フルール・ド・ヴィオレッタ”という名前で参加し、それも顔を白塗りにしてベースを弾いていたのだ。(略)もともとソドムの大ファンで、トミー(福富幸宏)が加入しハウスに鞍替えする直前まで都内のギグはほぼ制覇していたほど、ゴス系〜ポジパン狂だった。
 「とくにソドムのヴォーカル、ザジさんが大好きで、ほぼぜんぶのライヴに行ってました。でも最後のハウスになる直前まで。福富さんがドクロのTシャツを着てステージに立ってたのを2回観たあたりで、もういいかなとおもったんです(笑)」
(略)
 「ゴス以降ハマったのがエレポップ。大阪に独特なシーンがあって、なかでも大好きだったのがペーターズ。彼らが出演するライヴに大阪まで行ったりしてたんですけど、そんな彼らがこんど東京でライブをやるという。もううれしくてしょうがなかったんですよ。だから客席のいちばんまえに座って待ってたら、そこでいきなり前座[ピーウィー'60s]にガツンとやられて!」
 (略)
小山田くんと井上さんのふたりだけが出てきて、そこで“きょうからロリポップ・ソニックという名前になりました!”と言うなり4曲やったんです。それがどれもこれもすごく良すぎて!
(略)
 ロリポップ・ソニックにすっかり首ったけとなってしまったカジは、彼らと軌を一にするべく、ここでもライヴに足しげく通う。(略)
[シャイでなかなか話しかけらなかったが]
88年1月にクロコダイルでおこなわれたステージ終了後、意を決して井上に声をかけると難なく意気投合し、念願だったメンバーとの交流を図る。
 甘酸っぱい想い出は尽きることを知らない。この年の夏のある夜、カジの姿は東京駅のホームにあった。奈良の“ぼうし”レーベルが主催する『アッコちゃんズアノラックパーティー』に出演するロリポップ・ソニックとともに、青春18きっぷを握りしめ、総勢20名ほどの仲間たちといっしょに夜行列車に飛び乗ったのだ。
 「あの一夜はぼくにとって忘れられないできごとなんですよ。いまでも鮮明に覚えているくらいキラキラ輝くようなパーティだったなあ。流れてたBGMもかっこ良くて、出演者もみんなかわいい洋服を着て演奏してたんです。ああいう美意識を忘れたくないとおもう」
(略)
 「ぼくがソロデビューするまえのころ、時代の空気はまったくちがっていました。ネオアコ、インディーポップ、マッドチェスターの影はほとんどなく、流れは完全にソウル寄りでした。売れてるアーティストと言えばオリジナル・ラブラヴ・タンバリンズ、それに『フリー・ソウル』……。“ぼくのような青臭いものなんてだれも聴いてくれないんじゃないかな”って(苦笑)」
(略)
[だがそこにスウェディッシュポップブーム]
 「ブリッジの後半は、みんながただのネオアコバンドじゃない可能性を探し求めたんです。ソウルっぽいこともやってみたしソフトロックにも手を染めたけど、なんだか借り物の衣裳でも着ているような気分。でも、彼らのおかげもあって、ぼくはソロになっても力強く踏み込めたんですよ」