現代思想 菅原文太特集 中島貞夫インタビュー

中島貞夫インタビュー

中島 文ちゃんは主役になるまでだいぶ苦労をして、時間もかけているんですよ。最初に入った新東宝でうまくいきそうだった矢先に会社が潰れて、松竹に行ったら今度はあまり相手にされなかった。それは文ちゃんと松竹とが体質的には合わなかったんでしょう。(略)
[東映に来て]はじめのうちは若山富三郎さんの『極道』シリーズの下っ端をやったりしていたね。
 僕と文ちゃんを引きあわせたのは則文(鈴木則文)なんですよ。(略)あるとき則文が僕に、「東映にいる下積み役者とはちょっと違うのがいるぞ」と言ってきた。(略)彼が僕に会いたがっている、と。それで三人で会ったんです。
(略)
それまで僕が付き合ってきた東映の連中とは全然違ったんですよ。というのは、変な言い方だけど、今まではあまりインテリジェンスが感じられなかったんだけど(笑)、文ちゃんにはそれがあった。さらに印象的だったのは、仕事に飢えていたから、とてもギラギラした目をしていたんです。(略)
しかも僕と同年代だから育ってきたこれまでの体験も近い。それでググッと接近感を感じたんです。
(略)
 則文さんのほうが先に文ちゃんでいろいろな作品を撮っていたんだけど(略)
[『戦後秘話 宝石強奪』で組み、海外ロケ]
向こうに行ったら雨季だった。それでもなんとかマカオは撮ったんだけど、香港に行ったらワンカットも撮れないで、宿に閉じ込められちゃった。それで、ロケ先で閉じ込められると、話をするしかしようがないんだ。
 結局、香港ではワンカットも撮れませんでした。しようがないから、香港の映画会社にいた剣友会の役者のなかから文ちゃんに一番体型が近い奴を頼んで、衣装を全部渡して、チーフ助監督とキャメラを残してね。とにかく後ろ向きでいいから、走りだけを撮っておいてくれ、と。
(略)
[香港で]これから撮っていく映画のこととか、いろいろな話をした記憶があります。文ちゃんは任侠映画にはまるタイプじゃなかったし、僕もそうだったから、同じやくざ映画でももっと面白いものがやれるんじゃないかとか、そんな話をしていた。

『懲役太郎 まむしの兄弟』

文ちゃん自身は初めからあんなに踊るつもりじゃなかったんです。彼の強面の印象がポロッと外れてしまうときにすごい落差があって、これを強調しようということになった。意図的に笑いをとるのではなくて、強面がずっこける瞬間があるでしょう。それだけでやっていこうと思ったのが、だんだんと意図的なずっこけになってしまったんです。それから、僕は最初は文ちゃんと恒さん(渡瀬恒彦)のコンビでやろうと思っていました。ところがそれを後藤さんに言ったら当たり前すぎるということで、川ちゃん(川地民夫)になったんです。最初は「えーっ」と言ったんだけど、やっぱり後藤さんの見立てというものがあって、使ってみたらあの軽薄さがまた何とも言えずよかったね。川ちゃんは日活青春スターの名残があったんだけど、それがどんどん剥げていくのが面白くて。
 二人のキャラクターも、高田宏治の脚本には書いていなかったんだけど、マザコンにすることにしてね、川ちゃんに「雨しょぼ」(満鉄小唄)を歌わせたりなんかした。その辺を膨らませていったんです。(略)
僕自身がマザコンなところがあるからね(笑)。
(略)
文ちゃんは僕のことを年下だという扱いを一切しなかったんですよ。彼が東映に来たときに僕が監督で、しかも理屈っぽかったせいかもしれませんが。だから僕が提案したことには、ちょっと考えるけれども、ほとんど尊重してくれました。むしろ則文のほうが、文ちゃんと馴れあっているような面があって、二人の間では文ちゃんが兄貴分でした。
(略)
 助けてくれたこともいろいろあります。僕がATGで『鉄砲玉の美学』を作ったときは、製作費の受け皿になる会社を作る必要があったから、文ちゃんと則文に名前を貸してもらったりもしました。
 それから『家畜人ヤプー』を映画化しようということになったときにも、原作の権利を押さえるための資金を用意してくれました。200万くらいだったと思いますが、僕の周りはみんな金がなくてね。だから彼が出る映画でも何でもないんだけど、友達ということで出してくれたんです。
(略)
文ちゃんに、『ヤプー』のような性的なマゾヒズムの話は演じられませんよね。しかし花形敬のマゾヒズムはよくわかるから『安藤組外伝 人斬り舎弟』は演じられたんです。あの作品では、花形を完全にマゾヒストとしていましたから。

『極道vsまむし』

[若山の『極道』シリーズと文太の『まむし』シリーズを合体させるという『極道vsまむし』]
「ひでえ企画だな」と言いながら作っていたんだけど(笑)(略)
脚本の第一稿を若山さんが見て、「お前はまむしの味方か?」と(笑)。(略)
いや、これは客観的に対立状況を描いているだけだと説明したんですが、かえってカーツとなってしまって。ところが僕も若山さんに一発殴ってもらえば企画が飛ぶと思っていて、それでいいやと覚悟していた(笑)。でも結局、手は出なかったんですが。
 そういう経緯があったから、若山さんは現場でも僕が『まむし』に肩入れしていると思っていて、悪いことにそれがだんだんと文ちゃんが生意気だという見方になってしまった。確かに文ちゃんも遅刻をすることがありましたからね。ある日とうとう、ロケ地で若山さんから「貞夫よ、今日は何があっても口を出すなよ」と。でもそれは事と場合によりますがな、と押し問答をしているところに文ちゃんが遅れてきてね。若山さんはパーツと走っていって、「お前もやくざができんような顔にしてやろうか!」と始めてしまったんですよ。しようがないから僕も飛んで行って、ともかくロケが終わってからにしようと仲裁しました。結局、撮影が終わる頃には若山さんの怒りも消えていましたけどね。(略)
[文太は]しょうがないから、じっとこらえていましたよ。後になって「お互いに酷い目にあったな」なんて愚痴りあいましたけど(笑)。
 若山さんは役の上で親分をやってしまうと、人間関係でも親分になってしまうひとだからね。文ちゃんが東映に入った頃はそういう感じだったから、奴は俺の格下の子分だという意識があったんでしょうね。
――――上の世代のスターと文太さんの違いはどこにあるのでしょうか。
文ちゃんは主演でなくても、あるいは格好のよくない役でもやってくれました。それは大きかったね。(略)
『総長の首』なんて文ちゃんが一番目立たないくらいでね。文ちゃん以外の若い奴が次から次へと自滅していくなかで、狂言回しのような役です。でもそういう話にしたいと言うと、彼はわかってくれたから。
(略)
『仁義』が大ヒットしているのを見ながら、これからどうなるんだろうという気持ちはありました。一つには、やくざ映画としてあんな素材はそう転がっていないということです。その予感は正しくて、それから二年もすると行き詰ってしまった。必死になって実録を探すんだけど、映画になるものなんて滅多にないんですよ。だから僕は僕で、『鉄砲玉』とか『狂った野獣』とかをゲリラ的に撮っていましたね。そっちの方が面白かった。
(略)
[『トラック野郎』シリーズ]
あれは則文の映画だなと思いましたよ。岡田さんも最初から則文の喜劇の才能を見抜いていました。(略)
 ただ、文ちゃんのほうに喜劇的なものに対する気持ちがどこまであったのか。やっぱり地ではなかったと思います。むしろ『総長の首』のほうが、文ちゃんそのもので、地に近かった。どうしても彼のイメージというのは、目が暗いんですよ。それはいつも感じていました。
(略)
 例えば『紋次郎』だと、結構気障な台詞がありますよね。そういうところは「文ちゃん、これ素直に出る?」なんて聞くと、「うーん……、やってみるわ」と。こういう感じですよ。それでサラッとやってくれる。
 だから、文ちゃんは芝居がうまいタイプじゃないと思うんです。喜劇をやるとどうしても小芝居をいれなきゃいけないんだけど、そのときにはどうしてもやっている感じがしてしまう。

文ちゃんの内面にあったのは、アナーキーですよ。

テレビはあんまり乗り気じゃなかったんじゃないかな。自分の存在感でやろうとすると、テレビには向いていないと感じていたのだと思います。一方で、映画のために死ぬというような突っ込みかたもしなかった。僕も則文も一緒だけど、ある意味では醍めていたところがあった。それは戦前から戦後にかけての経験が大きかったのかもしれませんね。文ちゃん、則文、僕の三人に共通していたのは、そういうところだったから。
 文ちゃんより下の世代だと、弘樹(松方弘樹)や千葉(真一)がいますが、彼らのようにバタバタしたくなかったんだと思います。弘樹たちはこれからも死ぬまでバタバタと映画にこだわっていくだろうけど、今ではその場がなくなっていってしまいました。
(略)
[文太が映画から距離を取ったのは]
主役になる前の苦しかった時期のことが、文ちゃんのなかではずっと尾を引いていたんだと思います。みんな苦労したと言うけど、他のスターとは苦労の度合いが違いますよね。健さんにしても、役柄の上でしっくりこなかった時期があったけど、それでも飯は食えていた。文ちゃんの場合は、飯を食うこと自体に困ってた。
(略)
 飢えていましたね。あの飢えかたは素晴らしい飢えかたでした。出会った時期の文ちゃんというのは、とにかく目の光り方が全然違っていましたね。それも輝いているというより、飢えてギラギラしているという感じ。それがよかったんです。
 だから、やれるところまでやるという気持ちでいて、実際にあの70年代の10年間、やれるところまでやりきった。俳優がスクリーンの上で活躍できる時期って、実はそんなに長くないんです。文ちゃんはそこで全開になっていた。
 70年代の東映京都撮影所は、とにかくいろいろなものがギューツと詰まっちゃった感じで。とても整理しきれないくらいのものが詰め込まれていました。自分たちでもすげえよなって言い合っていましたよ。やくざを食い物にしているのは俺たちだけだ、なんて。作品として撮影所から映画館に出ていってしまうと、それなりにまとまっているんだけど、出ていく前はもう、ほんとにグチャグチャなんですよ。映画ってそんな行儀のいいもんじゃないからね。
 文ちゃんの内面にあったのは、アナーキーですよ。だから、僕の目から見れば、後になって政治に口を出したのは、どこまで本気だったのか。本気じゃなかったような気もするけど……。

  • 藤山顕一郎インタビュー(聞き手:伊藤彰彦

作さんも京都のなかでは異質の人でした。とにかく現場においては徹底的に死力を尽くして撮っていましたよ。深作組の歩いたあとにはペンペン草も生えないと言われたくらいです。私たち助監督としても、そこで精いっぱい頑張っていたのです。作さんのために何でもやろうという気持ちでね。『仁義なき戦い』のころ、私は東制労闘争の京都派として、比嘉一郎、南光、荒井美三雄らと共に戦っていました。そんな私に対しても、文ちゃんはいつも温かい眼差しを注いでくれました。(略)
何度もカンパに応じてくれましたよ。いつも快く応じてくれていたと思います。
 これは余談ですが、京都撮影所の大スターのなかにも、そうしたことに関心を持ってくれる人とそうでない人は分かれました。意外だったのは若山富三郎さんで、とても興味など持ってくれそうにもなかったのですが、控室に行くと気前よくカンパしてくれるんですね。そうすると、同じ部屋にいた千葉真一もお金を出さざるを得ないという(笑)。
(略)
――以前にあるインタビューを読んでいたら、『現代やくざ人斬り与太』は当時起きていた連合赤軍あさま山荘事件を意識して作ったという言及がありました。深作監督と文太さんは、なんとかあの事件に拮抗できるような作品を作ろうと話し合って、それが最後のシーン、つまりビルに立てこもった文太さん演じる与太を官憲が取り囲む場面につながった、と。この作品に限らず、『仁義なき戦い』までの深作監督は、エンツェンスベルガーの『政治と犯罪』といった本を常に傍らに抱え、社会科学の議論や思想への目配りを絶やさなかった、と東映東京時代に深作組の助監督を務めた内藤誠監督が書いておられます。
藤山 その通りです。私が深作さんから重宝がられたのも、彼のそういう指向に合っていたからではないかと思います。ただ、あさま山荘事件のときも深作組が撮影を続けていたのには驚かされますね。
(略)
 『新仁義なき戦い』シリーズがひと段落ついた後に、『北陸代理戦争』への出演を断りますよね。それは実録ヤクザ映画の全盛期における自分の役割が終わったことを感じていたのだろうし、モデルとなったやくざたちの実像も知っていたからでしょう。僕自身、文ちゃんと京都を歩いていたときに、代紋をはった人から「一席設けますんでお立ち寄りください」と酒席に誘われたことが何度かあります。下手に断るわけにもいきませんから、一、二度はついていきましたよ。でも、そういうところでは文ちゃんは何も喋らなかったですね。
(略)
僕と文ちゃんとが飲んでいたのは75〜6年あたりで、『県警対組織暴力』や『新仁義なき戦い 組長の首』といった作品を撮っていたころです。
(略)
[ストライキや集会で東京に出た時に]
新宿ゴールデン街の「桂」という店でよく待ち合わせていましたね。
 いまでもよく覚えている情景があって、それは沢田研二の「時の過ぎゆくままに」に合わせて二人で激しく踊ったことです。二坪も無い薄暗いカウンターだけの店だったのですが、そこで二人、ディスコの様に両手を上に挙げてひたすら踊った。
――『太陽を盗んだ男』につながっていくような話ですね。
藤山 そうですね。そして時が経って、文ちゃんと同じく沢田研二も反原発運動へと入ってきました。そういうことにも、因縁のようなものを感じてしまいます。
(略)
[『仁義〜』の狂言回しのような]
役回りへの不満は当然感じていたでしょうね。それは現場でも伝わってきました、作さんには何も言いませんでしたが、シーンを説明されたときの彼の目の感じで、わかってしまう。ただ、その後の『新仁義なき戦い』シリーズになると、ストーリーも実録から創作へと変わり、それにともなって芝居の深さを出すことができるようになっていった。文ちゃんの機嫌ももよくなっていましたね。
(略)
[『組長最後の日』以降、深作と疎遠になったが]
それは二人の間になにかがあって袂を分かったというより、二人ともヤクザ映画はもういい、という思いだったと思います。
(略)
ロスに渡ることを決意して、それを伝えに文ちゃんの自宅に行ったときには、激励されることを期待していたのが、逆に「なんだ、逃亡するのか」と憮然とされました。(略)
日本映画界の状況を見ていたから、ここでもう少し頑張れよということだったのでしょう。
(略)
[最後に言葉を交わしたのは]
作さんの葬儀の時でした。妻であった中原早苗の隣に立った文ちゃんの複雑な目線を鮮明に覚えています。そのときは、早苗さんから「来てくれたのね」と涙ながらに声をかけられ、その後に文ちゃんからは「戻ったのか」と言われました。
(略)
[沖縄県知事選応援演説]
冒頭の「政治の役割は二つあります。国民を飢えさせないこと、安全な食べ物を用意すること。そして絶対に戦争をしないこと」という言葉ですね。誰にでもわかる言葉で、見事に物事の本質をついていた。ああいう言葉を最後に残したというのは、本当に役者冥利に尽きた人生だったのかなと思います。
 訃報を聞いたときには、本当に悲しかったですよ。去年の五月には則文さんも亡くなってしまった。二人から僕は「いつまで何をしているんだ」と言われている気分がします。