ビーチ・ボーイズとカリフォルニア・その4

前回の続き。

ビーチ・ボーイズとカリフォルニア文化 はるかな場所の一番近いところ (P‐Vine BOOKs)

ビーチ・ボーイズとカリフォルニア文化 はるかな場所の一番近いところ (P‐Vine BOOKs)

スケートボード

[64年ジャン&ディーンの〈サイドウォーク・サーフィン〉がチャート25位に]
サウス・ベイのとある高校で工作の時間に生まれ、1958年のホーソーンシチズン紙で初めてその存在が報じられた板つきローラー・スケート、すなわちスケボーの人気拡大に、このシンギング・デュオも一役買うことになった。
(略)
 サンタモニカのベイエリアは、スケートボードの流行発信地だった。中西部では1939年から金属製のホイールがついた奇妙な三輪のスクーター・スケートなるものが売られていたが、スケートボードを商業製品として最初に売り出したのは、サンタモニカに在住のライフガードでサーファーのラリー・スティーヴンソンだった。発売後一ケ月はわずか八台しか売れなかったが、二年もしないうちに一日二千台を売り上げるまでに成長
(略)
映画『エンドレス・サマー』で一躍有名になった22歳のマイク・ヒンソンのインタビューも掲載され、それによれば、ホビーが主催したサーフィンのプロモーション・ツアーで東海岸まで遠征したとき、暇に任せてサーファー仲間のジョーイ・キャンベルと一緒に、自分たちのビーチ・サンダルを目印に使ってスケートボードの滑降コースを作ったのだという。「スキーをやっていたジョーイのアイデアさ。変わったのは、ビーサンが缶になったってことぐらいだね」。
(略)
[“ナイト・ラリー”]
ヒドゥン・ヴァレー・ロードの砂漠に延々と長い距離にわたって車を並べ、そのヘッドライトで照らし出されたコースを滑るこの大会(略)
警察が駆けつけ、当局の許可なしにおこなったという理由で、大会自体は無効となった。
 当時の写真からもわかるように、もともとスケートボードはライドに全神経を集中させるために靴は履かずにおこなう競技で、正式な大会でも防護用のヘッドギアをつけるのみだった。クォータリー・スケートボーダー誌を見ても、すでにホイッティアやサンディエゴ、メンロ・パークなどでは、雨水管やスイミング・プールの配水管を使って、スケートボードがひんぱんにおこなわれていたようである。
(略)
1965年の国内売り上げ台数五千万台という推定はまったくもって大当たりで、全国のオモチャ・メーカーは狂喜した。だがこのスポーツの最初の波はまもなく終わろうとしていた。なぜなら、スケートボードをオモチャととらえるスケートボーダーは、ほぼ皆無だったからだ。
(略)
[彼らは]サスペンションにおいてもデザインにおいても摩擦の耐久性においても優れた高性能のボードを要求した。当時、ほとんどのスケートボードはサスペンションがもろく、金属製のローラーは衝撃を吸収することもできなければ、トリック・ライディングのための安定性を供給することもままならなかった。陶製ホイールは多使用による摩擦でオーバーヒートしがちで、ちょっと小石にあたっただけで破損した。また強化プラスチック製のものは石や砂利と接触したとたんにブレーキがかかり、ライダーたちはあやうくボードからまっさかさまに落ちそうになり、慌てふためいた。

Sidewalk Surfin'

Sidewalk Surfin'

  • ジャン & ディーン
  • ポップ
  • ¥250

65年、〈ヘルプ・ミー・ロンダ〉リハーサルにマリーが酔って乱入

セッションは一気に盛り下がった。(略)
 「ブライアンよ。わしが言ってやりたいことは3000もある。キーキー叫んでばかりいないで、心の底から歌ってみたらどうなんだ?おまえは大スターだ。だが気合いを入れていけ。成功を勝ちとるためにな。よし。リラックスして。楽しそうにな。ではガッツのあるところを聞かせてもらおうじゃないか」。
 ブライアン(以下、B)「父さん、今のたったの82文字だよ」
 マリー(以下、M)「3000だ。さあ始めろ」
 デニス「95だ」
 M「きさまたち何様のつもりだ?」
 B(うめきながら)「クソッ。もう頭にきた。片方しか聞こえないのに、父さんの大声のせいで良いほうまでどうにかなりそうだ!」
(略)
 M「カール、おまえのパートはどうした? 全然聞こえないぞ。こっちに来て歌ってみろ。もう二時間もおとなしいじゃないか」。
 B「こっちに入ってこい、カール」
 M「どうした? もう金儲けはたくさんか?」
 B「やめてくれよ」
 M「心をこめて歌え。わしはそんなふうに教えた憶えはないぞ。わしはおまえたちの父親だ。腹を割って話し合おうじゃないか」
 B「〈409〉みたいなサウンドにしたいのかい? この〈ヘルプ・ミー・ロンダ〉を?」
 M「ちょっと儲かるとなんでもかんでもヒットすると思うようになる。だがいいか、ようく聞け。いい気になってちゃんと心の底から歌わないと、すぐ落ち目になるぞ」
 B「落ち目」
 M(怒って)「落ち目だ! 可哀想だが。わしはおまえを22年間守ってきた。だがあまりにも物わかりが悪いようだ。おまえたちをもう敵から守ってやれん」。
 B「出ていくのかい」
 M「わしは……いや……これじゃあまりにもひどいじゃないか」
 B「出ていくの? それともこのままいるの?どっちなのさ」
(略)
 M「わしはもちろん酔っぱらってなんかいない。ちょっと成功したと思って(ブライアンを指しながら)、自分がすべてを仕切っていると思っている。まったくかわいそうに。おまえらじゃどうせ敵に太刀打ちできそうにないから、せめてキャピトルが気に入るようにしてもらいたかったんだが。だがこれだけは覚えておいてくれ……いや、もういい。心の底でしか勝負できないのに、おまえたちはそれを忘れている」。(ブライアンに)「おまえはいい。だがほかのやつらがな」。
 B「デニスに言ってくれよ。誰がなんだって?」
 M「チャックとわしは昔、30分もあれば(パチンと指をならして)次々とヒット曲を作ったものさ。なのにおまえたちときたら5時間もこんなことをやっている。なぜだかわかるか?」
 B「時代が変わっているのさ。時代が。時代が変わっているのさ。時代は変わっている」
 M「自分でそういうイメージを作っているからだ。だが忘れちゃいけない。正直こそ一番のポリシーだ。わかったか、マイク?」
 マイク「了解!」
 M「おまえはわかっているようだな。わしらはいろいろ違うところもあるが、おまえはわかっているらしい。オーケー、それだけだ」
 B「時代は変わっている、時代は変わっている」
 M「(ブライアンに)プロデューサーのイメージなんか捨てろ。立派になったら200年たったって名前が残るんだから」
 B(ためいきついて)「まったくわけわかんないよ」

マリーの営業力

音楽出版に乗り出した彼は、そんな自己イメージに似合う家を作るべく、ホイッティアの自宅を改装し始めた。増築したおよそ3716平方メートルもの広さのミュージック・ルームには、作りつけのステレオ・システムや立派なピアノがしつらえられ、天井といったらまるで大聖堂を思わせるような荘厳さだった。ビーチ・ボーイズ関連の記念品がそこかしこに置かれた室内の遥か向うに見える壁には、シー・オブ・チューンズのロゴである、海の上を音符が流れるデザインを模したステンドグラスの窓がはめこまれ、屋外にはクライアントをもてなすためのパティオとプールがあった。
 一目置かれたり、持ち上げられるのが大好きなマリーが一番気分良くいられるのは、そんな欲望を喜んで受け入れてくれる、自分と同じようにあか抜けなくて激情家の大げさな人々と一緒にいるときだった。そんな彼の性格は、ラジオ局や小売店、出版業界の中堅どころにせっせと出向いては、おべっかを言ったり役得感を味あわせて、何かしら情報を引き出すという役回りにぴったりだった。
(略)
彼と進んで友好関係を持ちたがった人々は“ビーチ・ボーイズの父”という強いオーラに魅力を感じ、中には数十年にわたって好意を寄せつづけた者もいたほどだった。
 自分の第一の使命はビーチ・ボーイズのカタログを常に切らすことなく人々の目に触れさせることだと、マリーは考えていた。そこでチェーン店や夫婦で経営しているような小売店に対しては、既発のアルバムやシングルが十分にストックされているかどうか目を光らせ、ラジオ局にはビーチ・ボーイズの全作品が一作も欠けることなくきちんと備わっているかどうかを確認し、さらに担当者が常に品題性のある新しいアイデアを取り入れているかどうかもチェックした。マリーは仕事やプライベートで海外を訪れるたびに、行った先々でちょっとした小物や多目的のギフトをトランクに何個分も大量に買いこんでは、のちのち感謝のしるしとして使うために貯めこんでいた。
 出版関係者と会うために訪れたフランスでは、見栄えは良いが決して高級でない香水を何ケースも買いこみ、極東を旅行した際には何十枚もの着物を持ち帰ってきた。それらはどちらもあとで番組編成ディレクターや、地方のディストリビューター(略)かねてから熱心にビーチ・ボーイズを応援してくれている町のレコード店に配るためのものだった。
(略)
「この仕事をしていると、人間関係や家庭生活を犠牲にしてしまうことがよくあります。例えばです。長い時間働いてやっと家に帰ったとき、奥さんや恋人に向かって“愛しているよ”なんて気の利いたことを言ったのはいつが最後だったでしょう?」。
 「そこでです」。彼はフランスでまとめ買いした香水をひとつひとつギフト用に包装したものを取り出すと、さらに続けた。「今夜、彼女にこれをプレゼントしてください。息子たちと私からどうぞよろしくと」。(略)
マリーが出会った人々はこんなホロリとさせるはからいに、老いも若きもイチコロだった。さらにそれがビーチ・ボーイズの親からのメッセージやプレゼントとなれば、たとえ何であれ、それはビーチ・ボーイズ本人たちからのメッセージや記念品だと解釈されてもしかたなかった。
(略)
 ビーチ・ボーイズのマネージャーを解雇されたところで、自分の財産や名声にはなんの支障もきたさないとわかったとき、マリーは愛想のないスタジオ・ワークから解放されて自由に仕事ができることを、かえって喜んだ。
 ビートルズの快進撃に押されたキャピトルが、ついついビーチ・ボーイズにまで目が届かなくなりがちだったとき、もしマリーが会社に噛みついていなければ、ビーチ・ボーイズの既発作品はぞんざいに扱われていただろう。(略)
キャピトルの重要関係者の部屋の前で何時間も粘ることで、ビートルズの巨大セールスのおかげでほかのアーティストがまるで落伍者の烙印を押されたような雰囲気になるのを食い止めていた。
 ビーチ・ボーイズの初期のコンサートをプロモートし、彼らのツアー収入を四倍にした経験を持つフレッド・ヴェイルは、63年から65年にかけて、マリーと最も親密に仕事をしたひとりである。ヴェイルはマリーの父親としての欠点や、その愚かなプライドによる強硬手段に対しては手厳しかったが、彼が65年までに果たした役割を高く評価していた。「キャピトルがビーチ・ボーイズを優先扱いしたのは、マリーのおかげだ」。これはビーチ・ボーイズと親密な関係にあったロジャー・クリスチャンだけでなく、一時は絶頂期をともにしながらも仲違いに終わったゲイリー・アッシャーまでもが、同様の見方をしていた。
(略)
「マリーは昔かたぎの練兵隊の軍曹みたいな男だった。子供思いで彼らを守ろうとする気持ちが強いと同時に、ぶっきらぼうでそのうえとんでもなく独断的だった。妙にへりくだったと思えば急に横柄になったりした。時に誇り高き父親であり、時に怒鳴りまくるマネージャーだった。荒っぽくて、いきなりぎゅっと手をつかんで握手してきたり、背中をバンッと叩いたりした。彼は常に公平で、やった分の仕事にはちゃんとお金を払ってくれたし、コンサートの売り上げによってはボーナスまでくれた。だが父親、叔父、マネージャー、現場監督の四役をこなすのは、彼には難しすぎた」。

新しいリーダー

《トゥデイ!》のレコーディングとマスクリングが最終段階に入ったころ、ブライアンがバンドのミーティングで、今後はグループと一緒にツアーや演奏をしないと宣言したのだ。家にいて、ヘッド・コンポーザーとして、またスタジオ・コンセプチュアリストとして活動していくつもりだと彼は述べた。
 グループの未来は明るい、ブライアンはそう語った。だがそこに到達するためには「僕は僕の、君たちは君たちの仕事をするしかない」と。マイクの目に涙がこみ上げた。アルは泣きじゃくり、胃がけいれんした。デニスは灰皿をひっつかむと、今すぐ部屋を出ていかないとこれを投げつけると周りの人を脅した。カールだけが落ち着いていた。ブライアンの論理を受け入れ、これからは自分がステージ・バンドとしてのグループを引っ張っていくことになるだろうと思った。ようやく涙がおさまったころ、カールはメンバーひとりひとりのところに行き、この新しいプランをどうやって展開していくかを説明した。すっかり力が抜けたメンバーたちも、カールの説明に元気づけられ、うなずいた。カールはもはや末っ子ではなかった。彼が新しいリーダーだった。

ドラッグ、バーズ

 ブライアンが最初に薬物に手を染めたのは1965年の春(略)
あとでそれを知って心配する新妻に、まるで神様とのスピリチュアルな邂逅のようだったとブライアンは陽気に語り、すでに心ここにあらずといった様子だった。ブライアンはもうもとの姿に戻ることがないように彼女には思えた。
(略)
[ドラッグを巡って喧嘩が絶えず、ついにマリリンが家を出ると]
残されたブライアンの新しいドラッグ仲間となったのが[デヴィッド・クロスビー]
(略)
 ブライアン・ウィルソンビートルズにヒントを得ていた。ビートルズはバーズにヒントを得ていた。そしてバーズのヒントの源は、ビーチ・ボーイズであり、ビートルズであり、ボブ・ディランだった。
(略)
11月17日、ウエスタン・スタジオでホルンとリヴァーブ・ギターを使って、モヤッとした感じのインストゥルメンタル曲を録音したブライアン・ウィルソンは、最初これに〈ラン・ジェイムス・ラン〉というタイトルをつけ、のちに〈ペット・サウンズ〉に変更した。(略)
どしゃ降りの雨がフロント・ガラスを叩きつける中、ひとり車を走らせる真夜中のドライブのイメージだ。タンバリン、トライアングル、ギロの音で豪雨と格闘するワイパーを演出する一方、ブライアンはサウンドブースの中でコカコーラの空き缶二つをカチャカチャ鳴らして、暗闇にじっと見入る所在ない心を表現した。
(略)
 バーズの初期の二枚のアルバムにおいて、作品のどこか浮世離れした空想的色合いの演出に貢献したのがテリー・メルチャーだ。マッギンもメルチャーに対して、こう認めている。「ビーチ・ボーイズやジャン&ディーンと仲間だったし、リップ・コーズにいた経験を活かして、当時僕らがやっていた荒削りなフォーク・ロックに、まろやかなカリフォルニア・サウンドを加えてくれた。自分たちでは決して出せないような光沢をね」。(略)
[しかしバンドはメルチャーを解雇]
ハリウッド時代はトップ・クラスのライヴ・バンドだったバーズだが、メルチャーは彼らがアルバムで演奏することを許さなかったのだ。
 同じく1965年11月には、マリリン・ウィルソンとよりを戻したブライアンが、ビバリーヒルズのローレル・ウェイに大邸宅を購入した。その新居でブライアンは《ラバー・ソウル》をかけながら堂々とマリファナを吸い、訪れた友人たちに向かってこう言うのだった。「このアルバムには参ったよ。なんてったって全部いい曲なんだから! 僕もまるごと一枚スゴいやつを作ってみようと思うんだ……《ラバー・ソウル》は完全なるステートメントさ。ああ、僕もあんなのを作ってみたいなあ!」

次回に続く。