HOSONO百景 細野晴臣

HOSONO百景

HOSONO百景

 

50、60年代のアメリカのイージーリスニング

今さらながらまとめて聴いてみたら、この世の音楽じゃないようだったよ。とりわけ、スリー・サンズやローレンス・ウェルク、エセル・スミス、デヴィッド・ローズ・オーケストラあたりが良いね。ドイツだけど、ベルト・ケンプフェルト・オーケストラも合うよ。
(略)
日本の歌謡曲は、かつてこういった音楽と濃密な関係があったんだよ。戦後、アメリカに占領されて、ジャズがどっと入ってきた流れから、国内の音楽家は外国文化であるカントリーやロカビリーやジャズに取り組んだわけだ。現在の芸能界のルーツも全部そこにある。それが時が経つにつれて、良く言えば日本のミュージンャンは国民性を取り戻したというか……。悪く言えば、ルーツの意識が薄らいでいる。無意識的に外国の音楽を受け取って、自分のものと錯覚しつつ活動しているだけでしょう。意識的に外国文化を研究して取り入れる時代は終わっちゃったんだよね。だから最近の日本の音楽と自分自身との関係は、すごく希薄に感じる。孤独だよ。日本にいながら外国にいるような気持ちにすらなっている。まあ、僕は今、カントリーやイージー・リスニングをカヴァーしたりするのが楽しくて仕方がないから、それで構わないんだけどね。

LAの立体的な曲作り

“さよならアメリカさよならニッポン”という曲をプロデュースしてくれたヴァン・ダイク・パークスについて、当時はそれほど知識を持っていなかったんだ。『ソング・サイクル』はスゴいと思ったけど、難解すぎて好きなアルバムと言えるまでではなかった。初対面の際も、彼は会うなり意味不明な演説を長々として、とても不安にさせられたよ。でも、とりあえずメンバーみんなで現地で練ったその曲を、ヴァン・ダイクに聴かせたんだ。
 翌日スタジ才に入ると、彼は高いチェアに座り、それぞれのポジションについたメンバー一人ひとりに指示していった。まず、ドラムの松本にハイハットを16ビートで鳴らしてキックを「ドーン、ドン」と入れろと。そんな感じで、ひとつずつレイヤーを重ねるようにセッションが始まった。スタジオでリズムから曲を作ったことがなかったから、それは未知の体験だった。かなり3D的な体験というか、今まで僕らは平面的に音楽をつくっていたんだと実感したよ。
(略)
鈴木茂の目の前に座ったローウェル・ジョージは、目をまん丸にして英語で「スゲー!」みたいなことを大声で言っていたよ。実はリトル・フィートに関しても無知だったんだけど、別のスタジオでレコーディングをしていた彼らに「見に来なよ」って誘われたんだ。そこで、何日か後に見学しに行ったら、誰も僕らが来たことに気づかないくらい演奏に熱中していた。スタジオの脇に座って、そーっと見ていたよ。ちょうど“トゥー・トレインズ”って曲を演奏している最中で、たぶん録音の最終段階だったようで、レコードの音源と変わらないモノが完成していた印象がある。ローウェル・ジョージ自身は楽器を持たずに、ビートの管理というか、全体の指揮をしていた。そのテンションが凄まじくてね。あれは見ていて興奮したな。今聴いても素晴らしいけれど、そのときにもスゴい曲だと思った。そんな現場に立ち会えたなんて奇遇だよね。

ソング・サイクル

ソング・サイクル

 

矢野顕子

矢野顕子は16歳の頃から知っているけれど、いつもミニスカートかホットパンツ姿。すごく綺麗な脚だったから、ついつい見とれてしまって、だから、当時の顔はあんまり覚えていない(笑)。

Personality

Personality

  • ロイド・プライス
  • ロック
  • ¥150
  • provided courtesy of iTunes
マザー・イン・ロー

マザー・イン・ロー

  • provided courtesy of iTunes
Working In a Coalmine

Working In a Coalmine

  • リー・ドーシー
  • ロック
  • ¥200
  • provided courtesy of iTunes

ニューオリンズ

 細野晴臣は、ヴァン・ダイク・パークス『ディスカヴァー・アメリカ』の興奮も冷めやらぬ数か月後に、ドクター・ジョンの『ガンボ』を聴く。
 「大瀧くんから『スゴいのが出た!ニューオリンズサウンドのすべてがわかる!』と言われるままに聴いたら、たしかにそうだった(笑)」
 細野や大瀧らはっぴいえんどのメンバーだけでなく、世界中の音楽ファンにとって『ガンボ』は地元の人間でないとなかなか踏み込めぬニューオリンズ音楽のショーケース的アルバムとなった。とはいえ、細野とニューオリンズの緑は古い。
 「中学の頃、ヒットチャートに上がった曲で好きなものはほとんどがニューオリンズ産だ、と後でわかった。ロイド・プライスの“Personality”、アーニー・K・ドゥの“Mother-in-Law”、リー・ドーシーの“Working in a Coalmine”……。アラン・トゥーサンはもちろん、若い頃のドクター・ジョンがギタリストとしてヒット曲の録音に関わっていたし。ニューオリンズはめくるめく宝の山!
(略)
『ガンボ』は細かく聴いたね、ピアノのフレーズをプレーヤーで16回転に落として」
(略)
 五年後、細野は必然的な偶然からドクター・ジョンのバンドでキーボードを弾くロニー・バロンと出会う。共同プロデューサーとして参加した久保田麻琴と夕焼け楽団の『ディキシー・フィーバー』をハワイで録音していたときだ。
 「ホノルル空港まで迎えに行ったら、ハワイに似合わぬ黒い服で、顔も海賊みたい。アメリカ人じゃない、ニューオリンズ人。なんの打ち合わせもしないでスタジオヘ入って、ロニーがバンとピアノを弾いたら、ニューオリンズの空気が生まれちゃった(笑)」
 その流れで細野はロニーのソロ・アルバム『ザ・スマイル・オブ・マイ・ライフ』をプロデュースする。東京の企画・制作によるレコードである。
 「当時、彼はアメリカではつくれない状況でね。でも、東京には予算があった。一か月くらい付き合ったかな。ユニークなオリジナル曲もあったし、ニューオリンズの定番もあった。結構、良い出来だったと思う。本人も満足していたし」
(略)
[99年「ハリー&マック」でニューオリンズ録音]
 「すでにロニー・バロンは他界していてね。お墓がないんで、実家まで行って骨壷を拝みました。遺族から『ロニーは東京でつくったソロのことをいつまでも忘れてなかった。感謝していたよ』と言われて、やって良かったなあと思ったんだ」

ディキシー・フィーバー

ディキシー・フィーバー

 
ザ・スマイル・オブ・ライフ(紙ジャケット仕様)

ザ・スマイル・オブ・ライフ(紙ジャケット仕様)