マルクスとヘーゲル・その2

前回のつづき。

 

ブルジョワ

へーゲルが叙述し表現するのは、同じ時期にゲーテが行なったように、勝利し、自分自身に確信をもつブルジョワジーの世界であり、上昇しつつあるこのブルジョワジーに固有の世界観である。しかしながらへーゲルは、その弁証法的天才による非凡な洞察力をもって、いままさに形成されつつあるこの世界のあらゆる矛盾を、また、雲が嵐をはらむようにこの世界が自己のなかにはらんでいるあらゆる危機を見抜いているのである。このことによって、へーゲルは、はやくも1807年以来、彼の時代を越えている。(略)
へーゲルは(略)アダム・スミスをのりこえて、リカードゥを予告している。自由主義経済の厳しい限界をのりこえ、彼は人間生活についての哲学をつくりあげる。この哲学は、たとえそれが悲劇的なヴィジョンに終っているとしても(略)
真の革命のために果実が熟す時がいたるや、K・マルクスの著作のなかに現われるような解決を、準備しているのである。

ヘーゲルは、アダム・スミスがただ描くだけで満足するものから結論を引き出す。利己心はたんなるみせかけにすぎず、また無私無欲の(あるいはそう自称する)徳はたんなる無気力にすぎない。世界の推移は諸個人の相互作用の結果である。それこそ普遍的個人性である。そして行為し、実際に活動するとき、自分を利己的だと思いこんでいる各個人性は自分自身をのりこえるが、普遍的個人性のこの世界の中に自分を認めることを拒否するのである。しかしながらこの世界を定立し完成するものこそまさにこの個人性なのである。「しかし個人はこのようにして自分自身に別れを告げたのであり、自分だけで普遍性として成長し、自分から個別性を洗い流す。」
(略)
彼は世界が推移するときに、個人が活動するときに、普遍的になる個別的個人のあの疎外――驚くべき弁証法である――について考察する。「意識はそれ自身の前で一つのなぞになる。その活動の諸結果は、もはやそれ自身にとって自分の活動そのものではない。」へーゲルのいうように、自己を外化するとき、世界のなかで自己を対象化するとき――しかもこの世界は他のものの世界、他者の世界であり、この世界を通してのみ自然はわれわれに達する、というのは、どんなささやかな物質的道具でも他者を暗示するからであり、またおそらくそれ自体としての自然という観念そのものもまた他者を暗示するからである――、個別的意識は自己を疎外し、みずからを他のものとする。世界における対象化と自己疎外、これこそへーゲルの具体的弁証法の二つの大きな契機なのである。
(略)
彼のヴィジョンは、1800年ごろに彼が観察することのできたドイツ社会が、彼をしてこの新しい世界の矛盾をこのように意識させるものではけっしてなかっただけに、ますます驚くべきものである。アダム・スミスがこのような分析をすでに準備していたことは本当である。しかしへーゲルは、新しい中世への回帰を説く反動的ロマン主義者に従うことなく、むしろやがて現われる経済学者や社会主義者の分析に先鞭をつけているのである。
(略)
個人は「よりいっそう労働することができる」が、へーゲルが指摘しているように、「その労働の価値はそのとき下落しはじめる。」それでも個人は、労働からより多くのものを引きだすために、生きるために必要なものを手に入れるために、労働時間を延長したり、労働の強度をたかめたりするように駆り立てられる。ある期間がたつと(略)この進歩は消せ失せ、個人は以前の生活水準にまたもどる。「労働はそのときより低い価値の一商品である。」ヘーゲルがここで、どのように、アダム・スミスを発展させ、賃銀鉄則を予告し、ある意味ではK・マルクスの分析を準備しているかがわかる。彼が分業のひきおこす全結果に感づいていることを付け加えておこう。「労働の抽象的性質によって、労働はますます機械的になり、ますます不条理になる。」
(略)
結局、生産と消費の全体の運動は、「他の機械、他の販路の絶えまない探求、しかも終ることのない探求」に導かれる。ヘーゲルははやくも1803年に、この生産のための生産の運動を認めていたといえるであろう。それは、のちにリカードゥが語ったものであり、またK・マルクスが資本主義的生産の全過程を動かす価値増殖として表現したものである。われわれが次に引用するイェーナ時代の文章を、K・マルクスが知っているはずはなかったが、にもかかわらずそれらの文章はマルクスを予感させる。
(略)
かくして、不健康で、危険な労働を、工場や鉱山の不条理な労働を余儀なくされる、ますます増大する人間の集団が存在する」。へーゲルはさらに述べる。「この全集団はついに救いようのない貧困にゆだねられる……。まさにこのとき大きな富と大きな貧困との対立が世界の舞台に姿をみせる――登場する」。(略)
「富はあらゆるものを自己に引き寄せる、そして内在的な必然性によって富は同じ側に増大するばかりであるが、一方では貧困が他の側に増大する。」

憲法

ヘーゲルはたしかに「一国民は、世界精神がその国民において到達する意識に照応する体制[憲法]をもつ」と指摘する。けれどもこの意識はすでに乗り越えられうるものであり、「したがって」、とマルクスは言う、「革命は必要であり、そして革命を行なわなければならない。」同様に、へーゲルによれば、立法権はただ憲法を適用するだけであるが、その適用が結局憲法それ自体を変更することになる。とすれば、この権力が「憲法を生みだす」、社会的人間の権力にほかならない、となぜはっきりと言わないのであろうか。立法権はそれ自身憲法[体制]の一部分である。しかし憲法もまたひとりでにできたものではない。へーゲルによれば、もっと先々まで規定されていく必要があるもろもろの法が、にもかかわらず作成されることが要請される……。この衝突は単純である。立法権憲法に従属する権能であると同時に、憲法を制定する権能でもある。ひとが、国民――抽象的理念ではない――があらゆる現実の憲法の生きた源泉であるということを現実に認めないなら、そこにたしかに一つの矛盾が存在するのである。

ヘーゲルマルクス

思うに、へーゲルの影響はひじょうに重要であったし、またもしわれわれが、マルクスの思想の形成と発展に寄与したヘーゲルの主要な著作、『精神現象学』、『論理学』、『法の哲学』を知らなければ、マルクスの基本的著作である『資本論』を理解することはできないであろう。マルクスがこれらさまざまの著作をひじょうに丹念に読んだこと、また、彼がそれらの著作から出発して、あるときはそれらから啓示を受けたり、あるときはそれらの観念論を反駁したりしながら、彼の思想をつくりあげたことは確実である。ひとが時として主張したところとは逆に、マルクスは『精神現象学』を正確に知っていた。この難解な著作のその時代のどんな注解者もマルクスほどその意味を洞察し、その射程を望見したものはいなかった。そのことを確かめるためには、『独仏年誌』に発表されることになっていた経済学と哲学についてのマルクスの研究を参照することで十分である。(略)
感覚的意識から絶対知にいたるへーゲルの『現象学』全体を要約し再考している。この研究はへーゲルのもっとも解りにくい文章をとりあげ、その意味を明確にしようと努めており、歴史における人間の疎外の止揚というへーゲルの試みの独創性と価値、およびヘーゲルの失敗の理由――彼はただ観念の面でしか問題を提起しなかったのでそれを解決しえない――を論証しようとする。
(略)
マルクスは『精神現象学』をすみずみまで知っていた。このことは、たとえば『ドイツ・イデオロギー』にみられるように、禁欲主義や不幸な意識についてこの著作の一節に言及していることによっても立証される。ヘーゲルの『論理学』の影響を知るためには、つまりは『資本論』を読むことで十分である。マルクスの叙述の方法や彼が与える証明(略)を理解しうるためには、レーニンが指摘したように、前もってこの『論理学』をマスターしていなければならぬことがわかるであろう。

プロレタリアート

そこからマルクス弁証法が示す理想主義と現実主義との綜合が生れる。この綜合を、マルクスはへーゲル的国民を社会階級に代置することによって、プロレタリアートのなかにそれを見出せると考える。プロレタリアートは、他の種族もしくは他の民族を支配すべき選ばれた種族でも選ばれた民族でもない。それは人間の疎外の最後の産物であり、そしてこのようなものとして、それのみが理念を完全に実現できるのである。なぜなら人間は、ヘーゲルが『現象学』のなかで述べたように、純粋な物の状態に、一片の骨やあるいは一箇の頭蓋骨に還元されることはありえず、疎外のもっとも極端な状態から自分をはね返させる自己意識のあの弾力性を持っているからである。理念はそれまで、相互に対立しあいつねに他の諸階級から自己を防御しなければならなかった社会諸階級の限定された状況によってその実現が妨げられていたのである。マルクスは人間解放の問題を提起しつつ次のように言く。「これがわれわれの解答である。ラディカルな鎖につながれた一階級を形成しなければならない。市民社会のどんな階級でもないような市民社会の一階級、その普遍的苦悩によって普遍的性格をもち、なにか特殊な不正ではなくて不正そのものをこうむっているためにどんな特殊な権利をも要求しない一領域、もはや歴史的な権原ではなくただ人間的な権原だけをよりどころにすることができる一領域……社会の他のあらゆる領域から自分を解放し、その結果あらゆる領域を解放することなしには、自分を解放することのできない一領域、一言で言えば、人間の完全な喪失であり、したがって人間の完全な回復によってのみ自分自身をかちとることのできる一領域、こうした一つの領域を形成しなければならない。」