創造と狂気・その2 マッドポリスヘの道

前回のつづき。

偉大な人間のうちには実践感覚が病理的に欠けていることを示すための光景は、学術的主張というより、ほとんどジョークである。


ある日、彼[ルウェル]は授業の説明のために実験を行った。聴衆にむかって「釜が火にかかっているのが見えますか。いいですか、もし私がかき回すのを一瞬でも止めたら、爆発して、私達は全員空中に投げ出されることになりましょう」と言った。こういいながら彼はまさにかき回すのを止めた。説明通りに、爆発が起こり、激しい爆発音とともに、実験室の窓ガラスはすべて割れた。二百人の聴衆は、一瞬のうちに庭まで飛ばされていた。

ボードレールの病理研

 ボードレールは遺作の冒頭に置かれた肖像からすると誇大妄想狂のまさに典型である。挑発的な態度、挑戦的な眼差し、とほうもない自己満足が伺える。彼はいくたの狂人と変人を生んだ家系の出身であった。彼のうちに狂気を確認するために精神科医である必要はなかろう。子どものころから幻覚を見がちで、すでにこのころから、彼自身の告白によれば、正反対の二つの感覚を経験していた。知覚過敏と無感覚であり、「倦怠の砂漠のうちにある恐怖のオアシス」から身を振りほどく欲求を吹き込まれた。錯乱に陥る前、彼は衝動的な行為に身を任せた。例えば自分の家から店のショーウィンドウに向かって壷を投げたことがある。単にガラスが割れる音を聞きたいがためであった。彼は毎月住まいを替え、仕事を終えるためにと友人の家に転がり込み、役にも立たない読書に時間を浪費した。父親を失った後、母親の再婚相手と争うことになり、ある時などは友達の面前で義父の首を絞めようとした。商売をさせようと、インドに送られたようだが、全財産を失い、旅から連れ戻ったのは……黒人女だけである。彼はその女に扇情的な詩をいくつも捧げている。あらゆる代価を支払っても独自であろうとしたのである。名士達の前で過度の飲酒に耽ったり、髪を緑に染めたり、冬に夏服を着たり、夏に冬服を着たりした。醜く恐ろしい女、黒人女、小人、大女に病的な情熱を感じ、愛した。一人のとても美しい女に対しては、天井から手で吊り下げられているのを見たい、その足に口づけをしたいと言った。裸の足へのキスは彼の詩のひとつに性行為の同等物として現れている。……狂気の進行とともに、言葉が逆になるようになった。「開けろ」と言うべきときに「閉めろ」と言った。女性に対してあまり優雅ではない言葉が漏れるようになった。
 最後には精神病者特有の漸進的な進行麻辱に陥った。あまりの野心がすでにして、前駆症状だったのである。

「周期性精神異常者」の文章

 私は精神病院に閉じ込められている。これは確実なことだ。ひとつには、私の記憶は極めて確かなものであるが、自分が理性に反するなんらかの行為や言葉をなしたことが思い出せないのである。だが他方、こうした破廉恥が全く例のないものではないにしても、行政の悪意か、すくなくとも行政に携わる担当者の誰かが、私の軟禁を画策したと考えるのはあまりに辛い。ではこの監禁の理由はどこにあるのだろうか。私は精神病院に送られた。でも病人としてではない。明らかなのは国家元首、首相、知事が私の次のような能力を知っていたということである。明らかな観察精神、きわめて控えめな態度、鋭敏な聴覚。おそらくほとんど確実なことだが、彼らは私を一時的に精神病院に送ることで、暗黙のうちに「高等警察」の使命を私に託したのである。そこで何か起きているのかを見聞し、中央行政の指示を「秘密裏に」受け、「内密の」報告書を出すためである。ローマ法王、欧州のすべての元首、アジアの二、三の君主もまた同様である。私は、これらの帝国の運命にとって極めて大きな役割を「密に」そして「神秘的に」果たしている。

ゴッホ書簡。泣けるので、デカ字で。
耳切り事件の翌年、1月7日に一旦退院、1月28日の手紙。2月7日に再入院

「私たちはいつも冬を抱えているのだから、静かに仕事を続けさせてほしい。もしそれが狂人の仕事だというのなら、まことに残念だ。でも私にはどうしようもないのだ」

マッドポリスヘの道

 すべては1863年5月、Fの監禁とともに始まった。Fはリペマニーに冒された被害妄想患者であり、幻覚症状もあった。シャラントン病院に着いたときはひどい興奮状態で、太い鉄格子を取り外すほどで、周りを脅やかしたが、巨体の主任看守によってなんとか取り押さえられた。次に長い鬱状態が続く。二ヶ月間の興奮をはさんで、その後Fは翻訳の仕事に着手する(ディケンズの『ディヴィッド・コパフィールド』)。長い時間を病院の図書室で過ごし、仕事に過度の情熱を込めたようだ。ここで第二の人物が登場する。彼は砲兵隊司令官であり、狂躁病者の班から出たばかりであった。この男が病院の柱廊玄関に見事なデッサンを描いた。Fはこの作品を見て、文章を捧げた。1865年6月2日、彼は書く。


マッドポリスヘの道
 マッドポリスヘの道は側溝や路肩の整備された飛ばせる道ではない。それは地球のように球状で広大な道、道幅はエジプトの最大のピラミッドの高さほどもある。
 人は生まれると同時にマッドポリスヘの道にはいり、出るのは死ぬとき。
 奇妙なことに、眠っているときでさえ、その道を最も速く進む。そして、まるで予想もしていなかったときに、この有名な都市の門をくぐるのだ。
 マッドポリスには男性と女性が住んでいる。マッドポリスの住人は月から落ちてきたなどという噂が世間に流布しているが、重大な誤解である。月に憑かれた人が多くいるのはマッドポリスの城壁の内よりもその外である。マッドポリスヘの道は込み合っている。哀れな者たちよ。彼らは旅立ち、私たちのもとへ来る。もし私たちがその思い出を甦らすなら、月に憑かれた人たちに囲まれて、ここへやってくる自分たちの姿が見える。ああ、マッドポリスの男、マッドポリスの女……。

訳者解説

本書は、狂気というファクターなしでは、ロマン主義も、写実主義も、自然主義も成立しなかったことを見事に暴き出している
(略)
19世紀フランス精神医学は、フィリップ・ピネルと、その後継者エスキロールの弟子たちによって発展していく。
(略)
 エスキロールは、部分的狂気あるいは部分的妄想を指すモノマニーという語を、広範な精神病理現象を包括するものとして規定した。モノマニーは人知が進めば進むほど人がかかりやすい病気であり、他の狂気とは異なり、知能が損なわれないという共通点があるとエスキロールは考え、次のように分類した。一、知的モノマニー(体系化した妄想を伴う)。二、感情的モノマニー(感情と性格の異常を伴う)。三、本能的モノマニー(放火、殺人、酩酊などの行動へと不可抗力的にひきずられるもの)。
(略)
本書で重要な役割を演じるこのような考えは、フランスやドイツの学者から評価され、パラノイア問題へと発展していくことになる。さらにエスキロールはメランコリーに関しても、部分的な狂気と捉え、これに「リペマニー」という病名を提唱したほか、嫉妬や性愛感情に由来する「エロトマニー」や、宗教的感情や罪悪感に由来する「デモノマニー」などの分類を行っている。エスキロール以降の精神科医たちは、このような疾患の概念や分類を批判的に継示する形でそれモれ個性的な名称を提案することになり、その百花繚乱のありさまが、本書に描かれているのである。
 ここまでが、いわば本書で扱われる時代以前の流れだが、グロが考察対象とする時代、1859年から1907年までの発展も統けて見てみよう。
(略)
 重要な固有名としてまず挙げねばならないのは、ジュリアン・バイヤルジェである。エスキロール院長下のシャラントン王立病院で内勤医を勤めた後、サルペトリエールの精神医学部長を務めたバイヤルジェは、今日も続く雑誌『医学心理学年報』を創刊し、医学心理学会を設立するなど斯界の重鎮的存在であったが、二重精神病の研究で、同種の症状を循環精神病と呼んだファルレと論争を繰り広げるなど活躍した。二人が注目した、抑鬱と興奮が交互に現れる病状の研究は、後に躁鬱病論として展開していくことになる。バイヤルジェの研究で他に重要な分野は幻覚である。
(略)
グロがひとつのメルクマールと見なすモロー・ド・トゥールは、精神疾患の原因を何よりも神経系の障害と見なすことで、これまでの流れとは際立っている。シャラントン、ビセートル両病院で勤務した彼は、東方旅行をきっかけにハシッシュ(大麻)に関心を持ち、薬物による幻覚と精神病者の幻覚との関係について、研究と実験を重ね、『ハシッシュと精神病』(1845)として発表したが、これは向精神薬を科学的に扱った最初の文献である。一方、『病理心理学』における精神疾患は、後述のモレルの場合と同様、遺伝の問題とも関係づけられ、その器質論的立場は明瞭であると言える。そして、そのような観点から、天才と精神病が結びつく言説が展開していく過程にグロは着目するのである。