- 作者:トビー・ドッジ
- 発売日: 2014/07/10
- メディア: 単行本
暴力蔓延の理由
35年に及ぶバアス党の独裁下では、全体主義的な支配の追求と並行して極度の暴力が国家の承認を受け、広範囲に行使された。だがそれだけでなく、政府は1968年以来、社会における暴力の集合的配置を確実に国家の統制下に置くべく力を注ぎ、許可なく暴力を行使する者を厳しく罰してきた。(略)
[湾岸戦争後]国家が国連の制裁下にあり、90年代半ばには国家による暴力の独占状態が揺らぐ事態にいたった。それにより犯罪行為が横行し、国家による治安維持活動以外に、個人の利益に奉仕することを目的とした私的暴力の行使が広がった。殺人を禁じていた国家と社会がこれに歯止めをかけられなくなったのはこのときだった。2003年を境に暴力は爆発的に増えた
(略)
------[ズヘイル・ジャザーエリによる文章]------
塹壕で、訓練キャンプで、そしてあらゆるものが武力に従属させられるなかで、自己表現と抗議の一形式として暴力を行使するという思考の染みついた世代が、三代にわたり育っていた。彼らは……遵守を義務づけられた場合を除き……いかなる法にも、社会規範にも縛られない。90年代にイラクに課された制裁は、高等教育を受けた中流階級、この国の近代性と進歩の案内役だった中流階級を縮小させた。それにより、この暴力の文化を助長したのだ。
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(略)
[戦争と国連制裁により高度に軍事化され]民間人による銃砲の所有件数も増大、320万の銃砲が普通の人々の手に渡った。大規模な常備軍と徴兵制度に加え、政府は民兵も召集していた。(略)2003年になると、小火器はさながら洪水のようにあふれだす。イラク軍が米軍の攻撃の前にあっけなく崩れ去ったことで、国軍の武器を略奪する動きに火がついたのだった。治安機関の管理していた420万の銃砲が、社会の隅々にまで出回った。(略)集合的暴力を組織することがいっそう容易になった。
イラクにあふれる暴力を説明する社会文化的要因として、右にあげた要因よりも盛んに取り上げられるのは、民族的・宗教的分断である。
(略)
ファナール・ハッダードはいみじくもこう述べている。「従来のイラクの言説では人々は、それが上から語られるものであれ下からのものであれ、『宗派主義』を公然と論じることに苦慮してきた」。だが反体制暴動が内戦に変化すると、宗派主義的な言い回しは、民間人の殺害件数の増大や人々の強制移住、大規模な殺傷攻撃を正当化する言説のなかで多用されるようになった。
ヌーリー・マーリキーはいかに成り上がったか
2010年の選挙では、最多票を得ることのなかったマーリキーが勝利を収めた。与党連合の得票数が二番目であったにもかかわらず、マーリキーは首相の座を維持。内閣の重要ポストに手駒を据え、自身の権力に箍をはめられる危険をすべて未然に回避した。(略)
07年までは、マーリキーの意のままに動かせる組織もほとんどなかった。イラク政府内における総理大臣の地位は、敢えて弱く設定されていた。05年の選挙で勝利を収めた諸政党が、いわばその戦利品として閣僚の座と人的・物的資源を分け合った。[マーリキーは単なる調整役だったが、当初から権力基盤を着々と固めていった。]
(略)
マーリキーが権力の階段に足をかけたのは、2005年の選挙後、同じダアワ党の党首だったジャアファリーが首相に選ばれたときである。ダアワ党に民兵組織がないことから、ジャアファリーとマーリキーは軍事的脅威にならないと他の政党からみなされた(略)
[その後ジャアファリーが排除され、マーリキーが首相に]
ダアワ党役員のなかでもかなり地味なこの人物が自分たちを脅かすことはないと、他党のいずれの党首も考えていた。
(略)
政治エリートたちが分裂して内部対立を続け、私腹を肥やしている現実を前にした首相は、マーリキーユーンを核に政治的影響力と庇護のネットワークを構築した。(略)こうして06年以後、現実に存在する政治家たちを出し抜いて影の国家を建設していったのである。
(略)
自分の身体的・政治的防護に治安機関を用いるという手法は、2008年3月、首相退陣を狙った陰謀計画に関する情報がマーリキーのもとに届いたときに、さらに露骨になった。その情報によれば、南部の港湾都市バスラで民兵の活動が激化していることを口実に議会で内閣不信任案を決議し、首相を辞任に追い込むという筋書きが仕組まれていたのだという。機先を制するために、マーリキーは「騎士の襲撃」作戦を始動させた。陸軍の四個師団を送り込み、自身の地位を脅かす恐れのある民兵からバスラを奪還することを狙った。しかし結果は惨憺たるものに終わり、米軍の地上および航空部隊の投入があったためになんとか敗北を回避できたという有様だった。にもかかわらず、結果として中央政府による統治がバスラに復活することとなったために、住民は好印象をいだいた。宗派主義に基づく暴力や犯罪の多発に、人々は疲れ果てていたからだ。これに味をしめたマーリキーはさらに、バグダードのサドル・シティーでも支配権を確立した。(略)
この地区での勝利を利用して政府および軍のなかに自らの権威を打ち立て、イラク・ナショナリズムを信奉する救国者という政治的イメージを新たにつくり上げたのだった。
(略)
地位協定をめぐるアメリカとの交渉で厳しい姿勢を貫いてナショナリストのイメージをさらに強く印象づけ(略)泥沼の内戦と米軍による占領を耐え忍んできた国民の心に強く訴えかけ(略)[09年の選挙で]マーリキーの率いる選挙連合は14の県のうち9県で最多票を獲得したのである。
(略)
[2010年の選挙で惜敗すると、認めへんとゴネて]
非力な政治家やマーリキーユーンのメンバーに大臣職を代行させ、マーリキーは軍と警察、情報機関を支配下に置きつづけた。
(略)
アルビル合意ではマーリキーの権力を制限できないということが明らかになると、イラクの支配エリートたちは、憲法に望みを託した。
(略)
[2011年]イラーキーヤ主要メンバーが導き出した結論とは、マーリキーのイラク支配に制限を加えるには「地域」の創設を通じた地方分権を実現するしかないというものである。これは憲法に根拠を置く対抗措置だが、それに対するマーリキーの反応には、敵を叩くためなら国家の強制力に訴えることも厭わないという意志が表れている。
(略)
[2011年]米軍撤退の式典が行われたのと同じ日に、マーリキーはイラーキーヤ所属の大物政治家に襲いかかった。息子のアフマドの指揮する部隊と戦車がハーシミー副大統領とイーサーウィー財務相、ムトラク副首相の家を包囲、三人は一時的な自宅軟禁状態に置かれた。
脆弱国家の中心
2003年の戦争と体制転換。その動機として働いていたのはバアス党政権を消し去り、1968年以来イラクが蓄積してきた自律性を弱めるというアメリカ政府の願望である。
(略)
皮肉なことだが、現在のイラクは隣国による内政干渉に対し著しく脆弱になっている。(略)駐留米軍には、国境の実効的封鎖に必要な兵力が欠けていた。これによって、イランやトルコといった国々はイラクの主権を随意に侵犯できるようになったといっていいだろう。バアス党政権が倒れて国家が崩壊したときに、中央政府と呼べるものが消失した。その結果、民兵や政党をはじめとする一部の準国家行為主体の力が強まった。他方、隣国がイラクにおいて自国の目標を追求することも可能になり(略)トルコとイラン、サウジアラビアは現在も、イラク南部および北部の主な行為主体に資金を提供して支配を及ぼしているが、バグダードも同様の状況にある。イラクは隣国の主権を蹂躙するどころか、周辺の大国による介入から自らを守る能力すらない。
この脆弱国家の中心にいるのがヌーリー・マーリキー首相である。マーリキーにとって、外交が始まる場所は国境ではないのかもしれない。側近集団マーリキーユーンの枠を超えたところ、そして与党ダアワ党の外側が外交の開始点なのだといっていいだろう。(略)マーリキーはイラクの利益の最大化には注意を払わず、自身の権力基盤を固め国家機関に対する統制力を強化するために時間とエネルギーを注いでいる。主権回復以来、国益は支配エリートの利害という小さなプリズムのなかで定義されてきた。イラク外交の主たる目的は、既存の体制を維持強化するような環境を国内外で保障することにある。かつてのように隣国の内政に影響力をふるう兆しは、現時点ではほとんど認められない。そのようなことから、マーリキーはアメリカとイランの両政府から支持を得ることに成功している
次回につづく。