英語化する世界、世界化する英語 3

前日の続き。

「between you and I」

「between you and I」という言い方はひどい憤慨を引き起こす。(略)
W・H・オーデンは「身の毛もよだつ!」と宣告し、アンソニー・バージェスは「「Give it to I [わたしに頂戴]」を使ってもいいときだけ」認めてもいいと皮肉った。(略)
非難は19世紀に始まった。最初の章で見てきたように、この言い方は『ベニスの商人』に出てくるし、17世紀の演劇では親密な会話に出てくる。(略)
マーク・トウェインも手紙に「between you and I」と書いている。評論家たちが思うほど目新しい誤用ではない。
 「between you and I」と言うひとつの理由は、youとIが一体のものと感じるからではないかと思う。(略)
you-and-I は一体なのだ。われわれが一体ならば、世界はyou-and-Iのもの。さらに言えば、多くの人は、若い頃に、「you and me are friends.[君と僕は友達だ]」と言ったあと訂正された経験で混乱している。「You and I are friends.」と言うようたたきこまれたことはyouとIが引き合う力を固めてしまう効果があった。
 「身の毛もよだつ!」といったたぐいの反応は、なぜ人びとが自分たちの英語に不安を感じているかの説明となる。
(略)
自分の英語についての不安が始まるのは一般的にいってある特定の規則に違反していると言われるときだ。(略)
辛辣で冷笑的な挑発者アンブローズ・ピアスは自著『悪魔の辞典』の中で文法を「独立独歩の人が目標に向かって進む路沿いに、足を引っかけるように綿密に計画された落とし穴の仕組み」と定義している。
(略)
七歳か八歳頃、決して文章をandやbutで始めてはいけないと教えられたのを思い出す。また、同じ英語の先生に、短編小説の登場人物をジョナサンという名にするのは認められないと言われたのも覚えている。(略)
文章をbutやandで始める習慣は最近始まった一時的な流行だと教えられていたので、ずっと後になって9世紀のアルフレッド大王の文章に出会ったときは驚きだった。そこではこのやり方を積極的に愛用している。
(略)
キングズレー・エイミスが、ファウラーを補足した『キングズ・イングリッシュ』(1997)で指摘したように、現代の「文法に厳しい人」はしばしば実際の文法知識を持っていない。しかし、彼らは文法という考えが好きなのだ。なぜなら、彼らはその構造の中に、どのような社会が好ましいか――つまり、組織化され、規則や厳密な階級制度で整然と支配されている――という模範をみているからだ。

「fuck」

 つい最近まで、辞書はfuckを用心して扱ってきた。イギリスでは、この言葉は1598年にジョン・フローリオの英伊辞典にイタリア語の動詞fottere――「強姦する、たらしこむ、性交する、性交渉を持つ、支配する」の意味――の定義の中で早くもあらわれている。そして、同種の言葉として、fottarie(「性交すること」)、fottitrice(「性交する女性」)、fottitore(「性交する人」)、fottitura(「性交」)、fottuto(「性交された」)があらわれた。to fuckという動詞はベイリーの『イギリス英語辞典』で、「好色漢に使う言葉、またsubagitare feminam[fuckのラテン語]」としてあげられている。またジョン・アッシュの『新完全英語辞典』(1775)にも出ている。しかし、その後、fuckは辞書編纂者の視界から消えた。1795年のアッシュの第二版で「下品で卑猥な言葉」と分類され、「生殖の行為、女性と関係する」との定義があった後、一般的な英語の辞書で次にfuckがあらわれるのは1965年になって、『ペンギン英語辞典』にひとつの定義が示されたときだ。アメリカの一般的な辞書にはfuckは含まれておらず、1969年に『アメリカン・ヘリテッジ英語辞典』にようやくあらわれる。放任主義とされたにもかかわらず、ウェブスターの第三版にはこの言葉は入っていなかった。こちらはそれはどの驚きではないが、最初の『オックスフォード英語辞典』にもなかった。Fの項目が1890年代にひとつにまとめられたとき、それは削除された。1920年代になって、編纂者たちがWの項目まで達したとき、windfucker――ハヤブサの一種の名前――は入れるのにふさわしいとされた。『オックスフォード英語辞典』の最初の補遺が1972年に出版されたとき、fuckそのものが入れられた。
 アメリカの学者アレン・ウォーカー・リードが1934年にこの言葉についての論文を出したとき、彼が選んだ題は「猥褻さの象徴」だった。そして彼は様々な回りくどい表現を駆使して一度もその不快な言葉を使わないですませた。1948年にノーマン・メイラーは小説『裸者と死者』の出版準備にあたり、出版者の意向を受けて、fuckとあるところはすべてfugに修正した。皮肉っぽい小説家ドロシー・パーカーは、同業の彼と会った時、「あなたがfuckと書けなかった若い人ね」と冗談を言ったそうだ(別の説では、それはパーカーではなく、性的に奔放な映画スター、タルーラ・バンクヘッドだとされる。メイラーはそんなことはなかったと否定した)
(略)
1998年まで『ニューヨーク・タイムズ』では使われず、クリントン大統領の不倫疑惑に関して連邦特別検察官スターが調査した報告書内に使われただけだ。

「nigger」

これは本当かなと思うがラッパーのトゥパック・シャクールによればNever Ignorant and Getting Goals Accomplished[無知でいるな、ゴールを目指せ]の頭文字とされている
(略)
niggerへの過敏さによってそれとは関係ない言葉niggardly[けちな]を避けることになった。
[1999年会議でその言葉を使ったデイヴィッド・ハワードは差別的言葉を使ったと噂され辞職に追い込まれた](略)
 niggardlyが議論を呼んだのはデイヴィッド・ハワードの逸話が最初ではない。ウィスコンシン大学で、チョーサーによるこの言葉の使用をめぐる教授の論文に、学生が正式に不服申し立てをしたとき以来、同じような論争が続いていた。もともとniggardlyは軽蔑的な言葉で、14世紀から存在した。もちろんチョーサーはniggerについて何も知らなかったのだが。niggardlyの否定的な意味がniggerとの類似をいかにもさもありなんと思わせ、不快にさせている。多分、多くの人たちはそれをniggerlyと聞いているのではないかと思うし、niggardlyはやがて使われなくなるのは間違いないと思う。だが、それで終わりなのだろうか。niggling[ささいな]、snigger[忍び笑い]はどうなるんだろう?あるいはdenigratory[軽視する]は?

「jew」

1936年に、『オックスフォード英語辞典』の「jew[ユダヤ人]」の項目に、なぜ「欺く」という意昧が入っているのか説明するよう求められて、オックスフォード大学出版局の代表ケネス・シサムはこう書いている。「われわれの辞書は実際の用法を説明するのを目的としており、道徳的判断を形成しようとするものではない、とご説明したい」。1972年にサルフォード出身の実業家が、問題のその定義は名誉毀損だとして『オックスフォード英語辞典』の出版社を訴えた。しかし彼は高等法院で敗訴した。なぜなら、その中傷する言葉が「彼個人について言及している、もしくは他の人に、彼について言及していると思わせる」ことを証明するという法律の必要条件を満たすことができなかったからだ。

句読点

「After dinner,the men went into the living room.晩餐のあと、男たちは居間に行った」と「After dinner the men went into the living room.」との意味の違いは? 『ニューヨーカー』の執筆者ジェイムズ・サーバーによれば、この雑誌の伝説的に厳格な編集者ハロルド・ロスは「dinner」のあとのコンマは「男たちに椅子を引いて立ち上がる時間を与える」ひとつの方法だと考えたという。
(略)
 初期の文書にはまったく句読点は存在していなかった。その後、中世の文書には、三十以上もの異なった句読点があり、偶然新奇なものがたくさんできたことがわかる。
(略)
 今では普通、終止符と呼ばれるピリオドはもとはギリシア語で、15世紀までには広く使われるようになっていた。しかし、その役割は17世紀まではあいまいだった。コンマは16世紀まで使われてはいなかった。英語で印刷された初期の本にはスラッシュ/があり、コンマは1520年頃、このしるしの代わりとなったようだ。
(略)
伝統的に、セミコロンは密接な関係を持つ節を分けるために使われてきた。たとえば、「The car juddered to a halt;it had run out of fuel.車は激しく振動して停止した。燃料がなくなったのだ」。コロンは何かを特定するときに使う。つまり、結果、引用、一覧、対比など。セミコロンは仕切りのようなもので、コロンは次に来るものに注意を促す。別のやり方でその違いを想像してみよう。ひとつの部屋から次の部屋へと通り過ぎていくとする。セミコロンに出会うのは、部屋の扉が半分開いていて、そのまま進むには扉をもっと開ける必要があるとき。他方、コロンは広く開け放たれた扉に似ていて、われわれを中に誘うのだが、同時に先に何があるのか見るため一瞬立ち止まらせる。

生理的に我慢できない言葉

多くの作家が特定の言葉に対する嫌悪感を声高に述べてきた。ジョナサン・スウィフトはmob[暴徒]だけではなく、banter[ひやかし]も嫌っていた。ベンジャミン・フランクリンはProgress[進歩]を動詞として使うのが大嫌いでノア・ウェブスターに辞典に入れるのをやめてほしいと手紙を書いた。同様にto advocate[弁護する]も気にかけていた。サミュエル・テイラー・コールリッジはtalented[才能ある]をとりわけ憎んだ。ファウラーはelectrocution[感電死]とgullible[だまされやすい]を非難した。1877年に『ニューヨーク・イヴニング・ポスト』の編集長だったウィリアム・カレン・ブライアントは自分が我慢できない言葉の一覧表を出版した。そこにはartiste[芸能人]、pants[ズボン]、standpoint[観点]が入っていた
(略)
わたしはmoist[湿った]という形容詞が嫌いなのだが、これを説明しようとしても、その理屈は虚しく響く。
(略)
われわれの多くが名詞を動詞にすることに反対している。task[課す]、leverage[てこ入れする]、action[実施する]、transition[推移する]、architect[設計する]、roadmap[行程表を描く]、version[版を重ねる]、showcase[展示する]。これらの動詞は切れ味鋭く、重々しく、忙しそうで、まさにビジネスライクに聞こえることをねらっているのだが、痛快で味わい深いどころか、ほとんどがもったいぶって聞こえる。
(略)
われわれの祖父たちが聞いたら奇妙でわけがわからないと思える言葉には、media、multiculturalism、network、otherness、fundamentalism、fetish、globalization、postmodern、そしてもちろんdiscourse。

「gay」

 わたしがもっと若かった頃、英語の様相についてよく聞いた嘆きのひとつが、gayという言葉の用法の変化だった。これはbright[明るい]やfun[楽しい]とまったく等しい言葉だったが、同性愛――それも最初は侮蔑するため、その後賞賛するために使われるようになったという。今また、嘆きの理由は変化した。その言葉はさりげない中傷となったというものだ。(略)
[2006年BBCラジオ司会者が]着メロを「gay」と表現し、それは「rubbish くず」と同じ意味だと主張したために同性愛嫌悪者だとの容疑をかけられ、自己弁護せざるを得なかった。しかし、BBCは彼を支持した。実際にはその言葉の歴史は複雑だ。古くはチョーサーの頃、「みだらな」という意味が含まれるとされた。エリザベス朝になると自由な快楽主義の意味をもつようになった。1790年代からそれには「売春によって生計をたてる」という意味が加わった。コヴェント・ガーデンのゲイの淑女たちといえばレスビアンではなく、売春婦のことだった。そしてヴィクトリア朝の新聞では、その言葉は売春宿について報じるときの遠回しな言い方として登場している。19世紀初頭に「gayの道具」といったらペニスのことだった。

時制

 けれども、われわれはみな英語の時制の在り方の柔軟性を経験している。新聞を手に取り、「Queen Mother Dies 皇太后崩御あらせられる」という見出しを読めば、現在形で語られていることは実際には過去のことだとわかる――彼女は今現在死につつあるのではない。しかし、見出しを書く人はその情報がもっと緊急で印象的にみえるように現在形を使うのだ。「Queen Mother Is Dead」では機転がきかないと思われるだろう。「Queen Mother Has Died」は単調で平凡に聞こえる。またあるいは、これを考えてみよう。「I am going away tomorrow. 明日出かける」。現在形になっているが、文章は未来のことを語している。「When do you start your new school?新学期はいつ始まるの」(略)
これらの文章からわかるのは、現在形がいつでも現在をあらわすと言い張るのはばかばかしいということだ。
 同じことが未来形にもあてはまる。たとえば、「You will insist on criticizing my driving.わたしの運転を非難していたと言い張るだろう」。これはあきらかに何かすでに起こったこと――多分、何度も――について語している。同時に、「Hydrogen will burn with a squeaky pop.水素はバンと破裂して燃える」というのは常に起こることについて語している。