パーフェクト・セオリー その2

パーフェクト・セオリー 一般相対性理論に挑む天才たちの100年

パーフェクト・セオリー 一般相対性理論に挑む天才たちの100年

 

クルト・ゲーデル

 ゲーデル不完全性定理ヒルベルトのプログラムを粉砕し、多くの同僚の調子を狂わせた。(略)他の哲学者たちは見当違いの批評を発表したが、ゲーデルはとりあわなかった。(略)
 ウィーンを愛していたゲーテルだったが(略)見た目がユダヤ人のようだという理由で殴られたウィーンでのとりわけ不愉快な出来事があって、ゲーデルプリンストンにやって来た。
 アインシュタインゲーデルはすぐに意気投合した。アインシュタインは「クルト・ゲーデルと歩いて家に帰るという恩恵を得るためだけ」に研究室に出向くのだと言っていた。ゲーデルが病気になると、アインシュタインは看病をした。ゲーデルアメリカ市民権の申請をして、これから宣誓式をおこなうときに、合衆国憲法には論理的に矛盾した点があり、それによってアメリカが専制国家になる危険性があることに気づいた。アインシュタインは放っておけなくなり、ゲーデルについて行き、ゲーデルが変なことを言って宣誓式を壊さないように見守った。
 ゲーデルには数学が一番だったが、物理学もおもしろいと感じ、相対性理論量子力学についてアインシュタインと何時間もよく議論をした。二人とも量子物理学のランダム性は受けいれがたいと感じていたが、ゲーデルはそこで立ち止まらなかった。アインシュタイン一般相対性理論にも重大な欠陥があるかもしれないと考えたのだ。
(略)
ゲーデルの解は、これまでのすべての宇宙モデルとは風変わりな点で劇的に異なっていた。フリードマンルメートルの宇宙では、観測者は放浪して、時空のさまざまな部分を探索することができ、時間の経過とともに年をとり、過去の生活に別れを告げる。そこには過去、現在、未来の感覚がはっきりと存在する。ところが、ゲーデルの宇宙では時間の感覚は存在しない。もし観測者が十分な速さで動くならば、回転する時空を進むことで元に戻ることができる。観測者はかなり正確に、旅に出る前の、ずっと若い自分に干渉することができた。つまりゲーデルの宇宙では、時間をさかのぼることができるのだ。
 ゲーデルの幻想的な宇宙では、時間のあちこちに移動したり、過去を訪れて若い頃の過ちを正したり、ずっと前に死んだ親族に謝ったり、将来のまちがった決断について自分に警告したりできる。同時にそこでは、無分別なことをして、やっかいなパラドックスを引き起こす可能性も生ずる。
(略)
 1949年に開かれたアインシュタインの70回目の誕生日を祝う会議で、ゲーデルは自身の計算結果を発表した。それは、いくつかの単純な命題と最終的な解を見事に結びつけていたが、あまりに奇妙な成果だったので、どう解釈したらいいのか誰にもわからなかった。
(略)
ある意味で、ゲーデルの解は一般相対性理論が持つ多くの問題を例示していた。つまり、一般相対性理論は数学の理論であり、現実の宇宙には何の関係もない奇妙な数学の解を持つものなのだ。
(略)
 [1935年プリンストン高等研究所がオッペンハイマーを雇おうとしたが、彼は断った]短期間の訪問のあとに、彼は弟に手紙で次のように書いていた。「プリンストンは精神病院だ。隔離された救いようのない寂しさの中で輝く唯我論的発光体だ。アインシュタインはまったくの変人だ」。オッペンハイマーは、アインシュタインの後半生の研究に関する不信をぬぐうことができなかった。
(略)
 バークレー校で教え子としばらく研究したあと、オッペンハイマー一般相対性理論への関心を失った。(略)その時代に、若くして高等研究所に在籍していたフリーマン・ダイソンは、実家に次のように手紙を書いている。「一般相対性理論は、現在の研究で思いつくかぎりもっとも見込みがない領域です」。新しい実験によって時間と空間の変わった性質がさらにあきらかにされるか、誰かが一般相対性理論量子論に組みこむことができるまで、アインシュタインの理論はもう活用されそうにもなかった。(略)量子論の台頭は、一般相対性理論に関する論文を発表しにくくさせるほどその力を失わせた。
(略)
1947年にオッペンハイマーは、ついにプリンストン高等研究所の所長を引き受けた(略)
 オッペンハイマーアインシュタインは最終的に、薄い友情を築いた。(略)あるアインシュタインの誕生日にオッペンハイマーは、マーサー・ストリートのアインシュタインの家にラジオアンテナを建てて驚かせた。おかげでアインシュタインは、夜に愛する音楽を聴けるようになった。

ポール・ディラック

 一般相対性理論は量子物理学と相容れないまま独立していた。第二次世界大戦以降、量子論が台頭した。それは、重力を除くすべての力と物質の基本となる構成要素とを結びつけた、首尾一貫した統一体という、まったく新しく強力な理論だった。アインシュタインとエディントンは数十年間、自分たちの統一理論を作ろうと努力して失敗した。だが量子論は別だった。ヨーロッパとアメリカにおいて巨大な量子加速器を使った驚異的な正確さを誇る実験に合格し、美しい数学と見事な概念が、現実の測定と結婚したサクセスストーリーとなった。
 戦後の新しい量子物理学の繁栄に、喝采を送るのを拒む一人の人物がいた。ポール・ディラックは粒子と力に関する量子論はインチキで、混乱した思考にすぎないと思っていた。
(略)
 ディラックは量子物理学を嫌っていたが、彼の電子に関する基本方程式(のちにディラック方程式と呼ばれる)が、アインシュタインの特殊相対性原理と、量子物理学の基礎とを統一させる道に踏みだす最初の一歩となったのは皮肉なことだ。(略)ディラック方程式を使えば、量子物理学をはじめとするすべての物理学は、特殊相対性原理に従うようになるのだ。(略)
[電子と同じように電磁場も量子化することができることで]
量子電磁力学ばすばらしい成功を収め、電子と電磁場の特性について、それまでにない正確な予測をしたリチャード・ファインマン、ジュリアン・シュウィンガー、朝永振一郎ら三人の創設者は、そろってノーベル賞に輝いた。
 量子電磁力学が驚くほどうまく機能する様子を、ディラックはうんざりした気持ちで眺めていた。なぜなら、その成功の中核には、数学の単純さと美しさを信奉する彼の気持ちを踏みにじる計算方法があったからだ。それは〈繰り込み〉と呼ばれる数学的技法だった。(略)
電子の質量は研究室において見事に計測されていて、9.1*10^-31kgというきわめて小さい数字だ。だが、量子電磁力学の方程式を適用すると、電子の質量は無限大になってしまう。(略)
[そこで三人は]電子の質量は観測によって有限だとわかっているので、無限大の結果の計算値を、既知の有限値に置き換えることで繰り込めばいいと考えたのだ。(略)
ディラックは「この状況には大いに不満だ」と言った。「賢明な数学ではない。賢明な数学は量が小さい数字を無視するのであって、無限大であって欲しくないからという理由で無視することはない」。繰り込みはいくぶん魔術がかった思考で、いい加減なやり方のように見えたが、とてもうまく機能することは否定できなかった。

ジョセフ・ウェーバー

 ジョセフ・ウェーバーは最初に重力波を観測した科学者として、一時は伝説になった人物だ。重力波の実験をする場をほとんど独力で作り、1960年代終わりから70年代はじめには、彼の観測結果は一般相対性理論における大きな業績としてほめ称えられた。だが、1991年までにその評価は下がっていた。[87年以降研究資金をもらえず](略)
ノーベル賞の本命とも目されていた。だが、ウェーバーは重要人物に駆けあがったのと同じくらいすばやく、学界の僻地に追いやられたのだった。同僚から避けられ、資金提供機関から断られ、有力専門誌には論文を載せてもらえなくなり、長く孤独な科学的死刑を宣告され、一般相対性理論の歴史において奇妙で居心地の悪い脚注に追いやられた。ウェーバーの失墜のあとに、重力波の真の探究は始まった、と言う者さえいた。
(略)
[<ウェーバー・バー>は]単純なアイデアで、アルミ製の大きく重い円柱を作り、天井からつり下げるだけだった。円柱の胴に高感度の検知器をとりつけ、円柱が振動すると、電気信号がレコーダーに送られる仕組みになっている。電話が鳴る、車が通りすぎる、ドアが勢いよく閉められるなど、何かほかのことが起きても、検知器は感知してしまう。ウェーバーは円柱を隔離して、震える要因をできるかぎり排除しなければならなかった。
(略)
 1970年までには、長い期間観測を続けたので、機器が拾った重力波がやってくる方向までも特定できるほどになっていた。天の川銀河の中心から発せられているようで、それは彼にとってよいニュースだった。
(略)
[初期の数年間にウェーバーの名声は広まり続けたが、段々観測できないという声が]

重力波はあります」の世界w

他の観測機器は自分のほど精度がよくないので、検知できないのは当然だと考えた。私の結果を批判したいのならば、私のと「うりふたつ」の機器を作らなければならない。話はそれからだ。グラスゴーベル研究所などは、うりふたつのものを作ったのに、ウェーバーが見つけたような結果はどこにもないと反論した。ここでもウェーバーは、複製が十分ではないと言ってのけた。
(略)
 だが、ウェーバー自身の観測にも問題があった。(略)[彼の機器の感度もそれほどよくはなかった]それよりも心配だったのは、ウェーバーにミスをしやすく、同時発生を見つけやすい傾向があったことだ。(略)
[重力波が地球の裏側からも来るなら]同時発生が集中して起こるのはウェーバーが発見した24時間ごとではなく、12時間ごとになるはずだ。ミスに気づいたウェーバーは一度引っこんで、観測データを再分析し、最初の分析では気づかなかった12時間ごとの同時発生を見つけたのだった。彼はひとたび自分が何を探せばいいのかを知ると、見つけたいものを見つけられるようだった。当時は若かった物理学者のバーナード・シュッツはふり返る。「みんなとても懐疑的でした。彼がそのデータを公表しないので、私たちは検証できないでいました。彼は望んだものは何でも見つけられるようでした」(略)
[ロチェスター大学チームと共同観測した時に大量の同時発生を見つけた]
だが、ウェーバーはメリーランドとロチェスターには時差があることを忘れていて、同時発生と思われた振動が実は四時間もずれていたのだ。それでも、ウェーバーが時差を修正し、データを分析し直すと、ふたたびそこに同時発生を見つけたのだった。
 彼の発見は、少々のまちがいや計算ミスがあってもびくともしないようだった。そして、彼はどこにでも重力波の存在を意味する同時発生を見つけることができた。ミスを無視し、動じることのないウェーバーの姿勢が、彼の評判を著しく傷つけはじめ、さらに誰も彼の観測結果を再現できないという事実が追い打ちをかけた。(略)一般相対性理論研究者のコミュニティは一斉にウェーバーに背を向けた。(略)1970年代終わりまでに、彼は物理学の主流から追い出されていた。
(略)
ウェーバーは誰よりも早く重力放射を見た研究者で、その名誉を誰も奪うことはできない。
(略)
1990年代はじめに、LIGOが三度目になる必死の資金集めをしているときに、ウェーバーは議会に宛てて、あのようなきわめて高価な装置に予算をつけることはムダ遣いだと訴える手紙を書いた。自分の円柱は重力波をとらえたし、その費用は100万ドルの数十分の一、数百分の一にすぎない。数億ドルも使う必要などまったくない、と彼は主張した。だが、ウェーバーがどんなにわめき散らしても、ほとんど影響を与えられなかった。そのキャリアを通して、バカげた主張を数多くしてきたからだ。バーナード・シュッツは回想する。「彼がLIGOに反対しはじめたときにはもう、彼の側につこうとする者はいませんでした」。ウェーバーが自分は無視されたと感じたとしても、自業自得だった。いまや、彼はみずからが作った分野の敵になっていた。
 ウェーバーはLIGOが稼働する前の2000年に死んだ。