パーフェクト・セオリー 相対性理論に挑む〜

アレクサンドル・フリードマン

 アインシュタイン一般相対性理論にとり組んでいるときに、アレクサンドル・フリードマンオーストリアを爆撃していた。1914年に志願してロシア軍に入ったフリードマンは、操縦士となり、最初は北部戦線に赴き、次にルヴォフの空中偵察部隊に勤務した。(略)
[他の操縦士は]目視で投下したが、フリードマンははるかに注意深かった。飛行機の速度、爆弾の落下速度と重量を考慮した計算式を作り、目標に命中させるにはいつ投下すればいいかを予測したのだ。その結果、彼の爆弾は常に目標をとらえ、彼は聖ゲオルギー勲章を授与された。
 入隊前に純粋数学応用数学を専攻していたフリードマンは、ずば抜けた計算の才能を持っていた。(略)
天気の予測からサイクロンの進路、液体の流れ、爆弾の弾道まで何にでも挑戦し、困難にもくじけなかった。(略)
[戦後]アインシュタインの方程式を解くことに、みすがらの恐るべき数学の才能を動員しようと決めた。(略)
アインシュタインの解を無視して、一からとり組んだ。物質と宇宙定数が宇宙の幾何学に与える影響を研究すると、驚くべき事実が出てきた。宇宙全体の曲率という数字は時間とともに進化するのだ。宇宙には星や銀河などありふれた物質が至るところに散らばっているが、それらは重力によって宇宙を引っ張り、内側に崩壊させようとする。一方、押し返す斥力である宇宙定数が正の数字ならば、宇宙は押し広げられて膨張していく。アインシュタインはこの押し引きという相反する力は均衡しているので、宇宙は静止していると考えた。だがフリードマンは、静止宇宙という答えはきわめて特殊なケースにすぎないことを発見した。宇宙は進化せざるをえない、というのが一般的な答えで、縮むのかふくらむのかは、物質と宇宙定数のどちらが優勢になるかで決まる。
(略)
 アインシュタインにとって、宇宙が進化するという可能性はバカげていた。[フリードマンの論文の基本的ミスを指摘。自信があったフリードマンアインシュタインの方が計算間違いしていると手紙を送るも、大人気で世界を巡っていたため、半年後にようやく届く。](略)
アインシュタインフリードマンの論文に対して自分が加えた訂正を再訂正し、フリードマンの主な結果は正しく、宇宙には「時間的に変化する解」があることを認めた。一般相対性理論において、宇宙は進化することができる。それでも、フリードマンの計算は、アインシュタインの方程式では、進化する宇宙モデルの解もあることを示しただけだった。それは単に数学上の話であって、現実ではなかった。彼はまだ偏見から、宇宙は静止していなければならないと信じていたのだ。
 フリードマンは偉大な人物にまちがいを認めさせたことで悪名を得た。(略)[ソ連邦ができると気象学の仕事に戻り、1925年腸チフスで37歳で死去。進化する宇宙というフリードマンの数学モデルは何年ものあいだ休眠することとなる。

ジョルジュ・ルメートル

アインシュタインとエディントンが平和運動をしているときに、ルメートルは祖国ベルギーに侵攻してきたドイツを相手に塹壕で戦っていた。(略)フリードマンと同じように、彼もその才能を活かして、複雑な弾道計算をおこなった。戦争が終わると、戦功十字賞を受勲した。
 ルメートルは戦闘の悲惨さ、塹壕における塩素ガスの破壊的影響と前線での残虐行為を体験し[神学校に入り司祭に](略)カトリック教会で出世して、ローマ教皇庁立科学アカデミー議長にまでなった。彼は司祭科学者として、宇宙の方程式を解くことを目標とした。
(略)
ルメートルは、宇宙が始まったときについて過激なアイデアを提唱した。それはすべての始まりを説明するものだった。宇宙は、「原始的原子」や「原始の卵」と彼が呼ぶひとつのものから生まれたという。この原子が現在の宇宙を満たしているすべての物質を生んできた。当時、理解されはじめたばかりの量子物理学の法則にもとづき、この原子は崩壊する。研究室では原子の放射性崩壊が観測されていたが、それと同じ仕組みだ。その原子の子孫たちがさらに多くの粒子に壊れることをくり返す。
 それは簡潔な純理論で、ほとんど聖書風のモデルだったが、ルメートルは自分の主張に宗教を関与させないことに苦心した。司祭だった彼は、純粋な科学的仮説に信仰を持ちこんだ、と誰よりも批判されるリスクを負っていたからだ。
(略)
ルメートルは自説を次のように要約した。「もしも世界がひとつの量子から始まったのならば、当初、時間と空間の概念は何の意味も持っていなかったことになる。それらがかなりの意味を持ちはじめたのは、起源となった量子が十分な数の量子に分裂したときだ。この主張が正しければ、世界の始まりは、時間と空間の始まりよりも少しだけ前になる」
(略)
 1931年1月に、エディントンはイギリス数学協会の会長講演で、ルメートルの最新のアイデアについて思うところを語った。「自然界の秩序の起源に関する彼の考えを私は認めない」。エディントンはそれまでルメートルの膨張宇宙の研究を支持してきて、アインシュタインにも静止宇宙モデルを捨てさせた。ルメートルの世界的名声は多分にエディントンのおかげだった。だが、ルメートルの最新アイデアはあまりに大きすぎて、消化できなかったのだ。
(略)
[1933年]二人が前に会ったのは1927年の物理学会議だったが、その席でアインシュタインルメートルの研究を認めず、自分の理論に関する計算は正しいが、ゴミの山の中に捨てるべき無意味なものだと退けたので、いい面会だったとは言えなかった。今回は状況が違い、ルメートルは新しい宇宙論の新たな権威として敬意を払われていた。(略)
講演が終わると、アインシュタインは立ちあがって、こう言った。「私がこれまでに聞いた宇宙創造の説明の中で、これはもっとも美しく満足できるものです」
 アインシュタインは10年以上も誤った直観に導かれていたが、ようやく理解した。興味深い転換だった。一般相対性理論を作った者が、自分の理論から予測された宇宙の姿を受けいれる勇気を持てなくて、宇宙定数という解決策を導入することでごまかそうとしてきた。(略)
[ルメートルは「世界有数の宇宙論学者」に]
アレクサンドル・フリードマンと並んで、彼のアイデアは約30年後に起こる宇宙論の革命に道を拓くことになったのだった。

スブラマニアン・チャンドラセカール

 チャンドラはファウラーの結果を見直して、とても簡単な計算をしてみた。ファウラーの数式に、白色矮星内部の電子ガスの濃度に関する彼の予想値を入力したのだ。その数値は巨大だが、驚くほどではなく、ファウラーが論文で出していた値だった。ただ、ファウラーは、実際に電子がどれだけの速度になるか計算しておらず、その簡単な計算をチャンドラがやってみると、電子は光速に近いスピードで動きまわる、という驚きの結果が出た。ここにファウラーの論理は破綻した。物質が光速で動きはじめたときに重要になる特殊相対性理論の原則を、ファウラーはまったく考慮していなかったからだ。白色矮星内部の電子は好きな速度で動けると仮定するミスを犯し、その結果、光速を超えても動きまわれることになっていたのだ。
 チャンドラはファウラーのミスを修正しはじめた。電子が光速に近いスピードで動くという条件の手前までは、ファウラーの主張をなぞった。白色矮星の密度が大きく、粒子が光速かそれに近いスピードで動くときに、何ものも光速を超えられないというアインシュタイン特殊相対性理論を適用すると、興味深い結果が出た。白色矮星が重くなりすぎると、その密度も大きくなり、電子は重力に耐えられなくなる。言いかえると、白色矮星には上限の質量があるのだ。チャンドラの計算では、太陽の質量の90%を超えることはできなかった(のちに太陽の質量の140%に改められた)。もしも星が、限界質量よりも重い白色矮星となって、その生涯を終えると、それは自分を支えられなくなる。重力がまさって、つぶれてしまうのだ。
 ケンブリッジに着くと、チャンドラは自分の計算をエディントンとファウラーに渡したが、無視された。そこには二人をとても不安にさせる星の不安定性が語られていたからだ。
(略)
[1935年自論を学会で発表したが、エディントンはそれを否定]
彼の権威は絶大で、出席者のほとんどは、その場でチャンドラの主張を忘れた。エディントンが言うのだから、チャンドラほまちがっているに違いない。
 チャンドラは偉大なエディントンを攻撃して、敗れた。
(略)
後年、チャンドラは述懐した。「今、ふり返るとはっきりしていますが……エディントンは、限界質量が存在すれば、ブラックホールが現実に起こるという意味だとわかっていたのです。しかし、彼はその結論を受けいれられませんでした……もしも受けいれていれば、彼はほかの者より40年も先を行ったことになったのです。それはそれで困ったことになったでしょうが」

ロバート・オッペンハイマー

二名の想像上の観察者を見立てて、つぶれる星からとても遠く離れたところに一人を置き、もう一人を中性子核の表面上に置いて、星の最後が両者の目にどう映るかを比較したのだ。二人の観察者はまったく別の絵を見ることがわかった。
 遠くにいる観察者は、中性子核がつぶれるのを見るが、核の表面にいる者は、シュヴァルツシルトが発見した不思議な幕が自分のほうに近づいてきて、爆縮(内側に爆発的に崩壊すること)の進行速度がどんどんゆっくりになっていくのを見ることになる。ある時点で、爆縮速度は止まったかと思えるほど遅くなる。中性子核が縮んでいき、臨界表面に近づけば近づくほど、核から外に逃げようとする光は、どんな波長でも伸びていき、赤方偏移の程度が強くなる。まるで時間と空間は進化を止めて、その星は外の世界とコミュニケーションをとることをやめてしまったように見える。この計算結果は、10年以上前にエディントンがその著書『星の内部構造』で提示した姿によく似ていた。(略)
 そして、中性子核の表面にいる観察者からは、星がつぶれるときにまったく違ったものが見える。中性子核が縮んでいき、臨界半径を超えると、シュヴァルツシルトの魔法の表面の内部に落ちこんでいくのを目撃する。さらに、死ぬ運命にあるこのかわいそうな観察者は、シュヴァルツシルトが見つけた恐るべき表面が、何ものも出てこられない帰還限界点を形成するのを見る。
(略)
[1939年論文は発表されたが、42年に彼はロスアラモスに行き]
 戦争と核の研究に関心が集まったので、ブラックホールに関するオッペンハイマーとスナイダーの重要な論文はやぶの中に蹴りこまれ、顧みられることなく忘れられてしまった。
(略)
[エディントン同様]アインシュタインも、ブラックホールが自然界に存在しうるというシュヴァルツシルトによる極端な解に反対しつづけていた。フリードマンルメートルの膨張宇宙という主張に出会ったときと似た反応で、数学的には美しいが、物理学的にはひどいとここでも言ったのだ。
(略)
1939年に、アインシュタインは、粒子の群れが重力でつぶれるときにどのようにふるまうかを考察した論文を発表した。そこで彼は、粒子は臨界半径にまでは縮まないと唱えた。頑迷にも、ブラックホールはないという、自分が望む答えを得られるように問題を設定したのだ。アインシュタインはここでもまちがっていた。(略)
 量子物理学の勝利に魅了されて、いまや、ほとんどすべての人の関心はそちらに行ってしまった。才能ある若き物理学者はこぞって量子論の探究を進め、劇的な発見をし、応用法を探すことに注力するようになった。アインシュタイン一般相対性理論は、そこから導きだされる奇妙な予測や変わった結果も含めて、すべて押しのけられ、荒野の放浪へと追いやられたのだった。

次回につづく。