高畑勲、「巻き込み」型アニメを憂う

前回のつづき(高畑勲のレイアウト論 - 本と奇妙な煙)

アニメーション、折りにふれて

アニメーション、折りにふれて

  • 作者:高畑 勲
  • 発売日: 2013/12/06
  • メディア: 単行本

「巻き込み」型アニメを憂う

[あまり短いと誤解を招くかなと、ちょっと長めに引用。それでもだいぶ切っているので、元の文章と印象が変わっているかもと若干心配。]

 1970年代、『アルプスの少女ハイジ』など、大変な悪条件の中で私たちが懸命に「子供だまし」ではない映像を目指していた時期に、児童文学者の中川正文氏が、「テレビマンガなどはくだらなくてよいのだ」というような意味の発言をしているのを読んだ。そのときには中川氏の真意が理解できず、大いに腹立たしい思いをした。しかし今にして思う、[高度に発達した「巻き込み」型アニメの弊害を考えると]氏は正しかったのかもしれないと。
(略)
 ディズニーがなぜ、晩年、アニメ映画よりディズニーランド建設に力を注いだのか。いろんな理由があるとしても、その大きな一つは、実写映画にくらべ、基本的に平面の絵によるセル・アニメーションでは、いくら巧みに登場人物に演技させても、マルチプレインカメラによる空間表現などを駆使しても、観客を充分には「巻き込め」ないと思い込んだことだったのではないか。
(略)
[そう判断したのは]その演出手法に問題があることに気づかなかったからだ。ディズニーのスタッフは、人物を描くには、その性格を表現するために、表情や姿態がもっとも捉えやすいアングルを選ぶべき、という正統的な教えを遵守する。するとカメラアングルはしばしば斜め前や横などから客観的に捉えることになってしまう。二人の関係でも、一方の背中からナメたりせず、両者を平等に入れる。関係は分かりやすいがやはり客観的になる。たとえばアニメーション表現の最高水準を示した『ピノキオ』で、クジラから脱出したピノキオがクジラに追いかけられるクライマックスシーンは徹頭徹尾、横位置で客観的に見せる。スピルバーグの映画や日本アニメのように縦位置で主観的なショットを使い、観客をピノキオの位置に置いて、みずからもクジラに追い詰められている気分にさせてはくれない。これでは「巻き込む」ことはできない。
 逆に、日本のアニメがなぜ、絵は大して動きもしないのに観客を巻き込むことに成功したのかは、まず第一にその演出手法による。ディズニーがやらなかった主観的な縦のショットをどんどん積み重ね、観客の目を登場人物のすぐそばに置く。トラックアップなどのカメラワークで幻惑する。動きがなくて止め絵が多かろうが、性格描写がいい加減だろうがかまわない。特に主人公は、観客代表みたいなものにしてあるから、その性格はあいまいな中立的なものでいいのだ。だからキャラクターも類型的でかまわない。
 日本のアニメは、安価に作るために作画枚数を減らすところから出発した。それでも面白く見せるには演出の工夫が必要だった。しかもその基盤には洗練の度をきわめたマンガのコマ割りという先輩があった。そしてたちまち熟練の度を加え、アニメーション作画も巧みになって、ついに「現実には起こりえないことを、いま現実に起こっていることとして実感させる」観客巻き込み型映画の一ジャンルを見事に形成するまでになったのである。
(略)
 映像の中のヒーローがいかにも英雄然としていれば、観客は自分との距離をはっきり保つことができる。ところが現在の巧みな作劇術では、一見観客と同程度の凡人に、非凡な力を発揮させ、大活躍して問題を見事に解決したり何かを達成させる。主人公を身近に感じ、自分と重ね合わせ、作品世界に没入させるためである。(略)[主人公は状況も把握せぬまま果敢に行動し]
いつの間にか身につけた超能力によって、なぜか成功する。成功するために必要なのは、的確な状況判断や戦略ではなく、「愛」や「勇気」なのだから。
 子供や若者が現実社会に足を踏み出すのに勇気が要るのは今も昔も同じである。現実の状況の複雑怪奇さの前でたちまち怖じ気づいて立ちすくんでしまったり、踏み出したとたんに跳ね返されたり、しばしば劣等感にさいなまれたりする。特に状況が掴めていないと一歩も足が前に出なくて当然である。真の勇気は状況を把握することからしか生まれないのだから。さらに、実人生では、一つの技能を身につけるだけでも大変な努力が必要だ。何かを達成するためには刻苦勉励しかない。
 ところが、そのようなプロセスの具体的な描写が、これらの作品群にはほとんどまったく見られない。
(略)
 こういう映像を見ていくら「勇気をもらっ」たつもりになっても、現実を生きていくためのイメージトレーニングにはならないことは当然である。それどころか、[成功している素晴らしい自分という]きわめて有害なイメージを身につける危険性がある。
(略)
[現実に対処する訓練が不足し、肥大した自己イメージと現実の貧弱な自己とのギャップにさいなまれ、甘美な映像世界に逃避し、「ひきこもる」。そういう世界から卒業しないまま現実世界を生きるなら表現者・評論家になるしかない]
(略)
 たとえば、個人ですべてをCG制作したことで評価された『ほしのこえ』という中編アニメがある。(略)特徴のある絵ではないしアニメートもほとんどなされていないけれども、映像の出来は決して悪くない。
 私はこれをまったく評価できず、ワンアイディアによる「(子供ではなく)青年だまし」で、「くだらない」としか思わないが、巧みな表現によって社会性のない現代青年の心をくすぐり、琴線に触れることができたようで、売れ行きもよく、いくつか受賞もした。要するに、作者はみずから作り手になることによって見事に「そういう世界から卒業・脱出しないまま、それでも現実を生きる」ことに成功した一人であり、「卒業」や「自分の非成長の確認」をしたくない若者に支持され、その現象全体を情報メディア産業(とは何のことか分からないが)推進派の脳天気なおじさんたちが追認したのだと思われる。
[脚注:「急いで言いそえなければなければならないが、これはこの段階での評価であり、作家の道を歩み出した作者が、その社会生活のおかげで、以後、もっと社会性のある作品を作りはじめる可能性は充分にある。」]
 世界に誇る文化、輸出産業などともてはやされる日本アニメ。いまや肯定的にしか語られず、ほとんど誰も心配しないけれど、それが、もし世界中に、目に見えぬ怖ろしい影響をまき散らしつつあるのだとしたら。
(略)
[中国チワン族の民話『鏡の中の仙女』]
一枚の農村風景を描いた絵に心を奪われた老女が、それを苦労して織物に織り上げる。するとその僮錦はのび拡がり、そこに描かれた見事な風景がそのまま山野をおおいつくして現実の風景となる、というのがその骨子。
(略)
第八段階=一ばん先に織り上げた一人の仙女は、お手本のすばらしさにあらためて感嘆し、「あたしがもしも、この僮錦のなかでくらすことができたら、いいことにねえ!」と言う。
(略)
第九段階=そしてその仙女は、老婦人の僮錦の上に自分の姿を刺繍してしまう。
(略)
第十段階=僮錦をうまく取り戻してきた末息子と母が、それを地上に敷きひろげると、かぐわしい風が吹いてきて、僮錦はサラッと音をたて、しずかにのびひろがりはじめる。そしてついにあたり一面をおおいつくし、僮錦の光景は現実となり、その中の館の門前に若婦人とロロは立っているのだった。
(略)
第十一段階=そしてふと見ると、池のふちに美しい娘がいる。自分の姿をこっそり刺繍したあの仙女だ……。(略)
当然、仙女と息子は結ばれ、物語的にも、主人公とともに読者は完全な充足感を得る。
(略)
読者はこの全体を「物語」として想像するのだから、これらはすべて、あくまでも想像力の働きによる受け入れであって、読者自身は第十段階の母子や第十一段階の仙女の立場にまで至ったわけではない。(略)
[僮錦の実物を見たい]それが現実となった風景の中に立ってみたい、という欲求は満たされないままである。
 読書や語りによる物語というものはもともとそういうものだった。ありありと、まざまざと、目に焼き付くとか体感するとか言っても、想像力による限り、どうしても、どこか夢のようにあいまいさを残してしまう。
(略)
読者は憧れや夢を抱いたまま物語に心を残しつつ、現実世界に戻らざるをえないのである。(略)それは決して悪いことではなく、精神的にバランスのとれた行為であるというべきだろう。(略)
[映像の発達による「仮想空間」体験にどのような意味があるのか。『錦の中の仙女』を]一度もアニメ化してみたいと思ったことはなかった。『錦の中の仙女』は、聞くなり読むなりして頭の中で想像するとき、いちばん面白くワクワクさせられるのだと思う。その気持ちを大事にしたいと私は考える。
(略)
[脚注から]
(6)線によって人物を捉える絵と、陰影を付けて立体感を与えた絵は、「表象」のあり方に関し、根本的に異なると私は考えている。前者が「ボクはホンモノではないが、その裏側にあるホンモノを想像してくださいね」と慎ましく言うのに対し、後者は、「ほら、ボクはここに、画面上に存在していますよ。すなわちボク自身がホンモノなのですよ」と自己を主張する。
(略)
(8)日本アニメの背景美術がなぜ、絵画的あるいはデザイン的ではなく、ファンタジーであってもあれほどクソリアルなのか、それは作品世界を外から客観的に楽しむのではなく、観客もその世界に入ってしまえるようにするためである。その世界に入れば、まわりのものが絵画あるいはデザインのように見えるはずはないから。逆に言えば、リアルな情景でなければそこに入り込めず、世界自体を信じられなくなるから。
(9)私たちがアニメーションにリアリズムを持ち込んだ頃には、まさか、こんなバロック的な地点にまで 表現が「進化」するとは思ってもいなかった。いま思えば、私たちが1973年に作った『パンダコパンダ、雨ふりサーカスの巻』は、丁度内容とセル・アニメーションとしての表現の均衡がうまくとれた、いわば「クラシック」な作品だったような気がする。
(略)
(14)[『ぽんぽこ』での「妖怪大作戦」なぜもっと巻き込まないと批判されたが](略)私としては、意識してそのような傾向を否定し、観客の理性にも訴えようとしたつもりなので動じなかった。そしてその真意は作品を見ているうちに分かってもらえると考えていた。しかし、どうやらそれは甘かったらしい。

となりの山田くん』だって、理想主義に呪縛されるんじゃなくて、ダメならダメで、まず自分なんてたいしたことがないんだ、と認めることから出発したほうがいいんじゃないか、そのぐらいリラックスしたほうが着実な一歩が踏み出せるよ、ということで共感してもらいたいと思ったわけです。理想ばかりかざしていても、現実がついていかない。そのギャップに立ちすくんでいる人たちが多すぎる。それが嫌だったんですね。

[ちょっと、休憩、余談]
kingfish.hatenablog.com
上記リンクで紹介した動画
カートゥーン・ファクトリー』では、アニメーションで描かれた工場機械が逆にマックスを次々と複製し、アニメーションによって現実界が産み出されるという転倒した世界を描き出した。
カートゥーン・ファクトリー』

見習い時代『少年猿飛佐助』

■試写室でラッシュ試写を見ていた。突然、真田幸村の馬のむながいからしりがいにかけての緋色の総飾りが膨張してあっという間に血のように流れだし、馬の体が真っ赤になってしまった。おそらくどこかで線が途切れて、総飾りと馬の体の面がつながったために塗り分けられなくなり、全体が一色になってしまったのだろう。塗っているうちにおかしいことに気づきそうなものだが、と思いながらも、ひどく不思議なものを見た興奮が残った。アニメーションの神秘を感じた。
■「夜叉姫の踊り」という場面がある。途中から急速調で踊りだすと、背景がいわゆる「シュール」な形をなさないバックになる。演出の藪下泰司さんと大工原章さんは、踊り終わるまで普通に八角堂の前で踊るように設定してカットを割り、原画を描いた。セルが出来上がってから、それでは面白くない、妖術使いの狂乱の場として、もっと「シュール」なものにすべきだ、と主張したのは美術の小山礼司さんである。それを藪下さんが受け入れた。小山さんはアンフォルメルな背景を描き、それを寄ったり引いたり回転させたり、カメラワークをつけて撮影し、夜叉姫のセルと合成した。だから、夜叉姫はバックが変わらないのに、寄りになったりフルサイズになったり、画面内で突然サイズを変える。はじめから「シュール」にするつもりだったら、もっとちゃんと出来たろうな、と思いつつも、こういう変更を大胆に提案する小山さんという人に注目した。
■(略)仔鹿のエリが鷲にさらわれるところ。もとのコンテでは、蜂に追いかけられていくうちに、不気味な影が地面に落ち、その影が仔鹿をつつむ。はっと見上げる仔鹿。見た目で鷲が急降下して来る。仔鹿を襲い、足で掴んで舞い上がる、という予兆型。あくまでも仔鹿に寄り添ったところから描いていた。ところが宮本信太郎編集では、バサッバサッと羽ばたいて飛ぶ鷲の大写しフォローを追加作画させて、その前に入れた。観客が仔鹿よりも先に鷲を知り、「あっ、これが襲いに来るんだな」と緊張してサスペンスが強まる、という狙いである。鷲が仔鹿を沼に落とし、大山椒魚がそれを翻弄するところも同じ。藪下設計ははじめに不気味な波紋、次にちらり尾びれが見える、母鹿が走る、仔鹿に尾びれが近づく、母鹿が駆けつける、仔鹿を尾びれがなぶる、と予兆型で進めていくのに対し、編集されたものは、尾びれが見えた途端、先にドドーンと水中を遊泳する巨大な山椒魚を見せてしまう。「あっ、こいつに喰われちゃうんだ」と手に汗握らせようという魂胆。宮本さんからすれば、ジャリ向け娯楽映画の当然の骨法だったのだろう。

アルプスの少女ハイジ リマスターDVD-BOX

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  • 発売日: 2010/11/26
  • メディア: DVD

『ハイジ』DVD-BOXライナー

[第一話は山小屋までの半日を描き、「さて、これからどうするつもりだな」というおじいさんの台詞で終わる]
あそこで切ろうと考えたから、第一話はああなった。まず、ライン河の対岸から、背後に山を背負ったおじいさんの山小屋までの環境や地形を見る人につかんでもらう。これから主人公が生活する場ですからね。そのためには、そこをハイジと一緒に歩いてもらうに越したことはないという発想です。
(略)
着ぶくれを大胆に全部脱いで、ダアーッと駆け出すのが第一諾のクライマックス。窮屈な衣服を脱ぎ捨てることがそのまま、山の空気に触れて心が解放された表現になる。
(略)
[とどめの、おじいさんの台詞]
原作を読んだ時に、あの台詞をとても異常なものに感じたから、ここで切ろうと。原作では会話が並んでいるだけで、ハイジはすぐ続けて「おじいさんが家の中に持っているもの見せてよ」とすんなり答えます。普通に読んでいると気づかないかもしれませんが、かなり異常です。おじいさんは大人として無神経きわまりない。少なくとも我々日本人の感覚では、子どもは大人がこちらのことを察して手を差し伸べてくれないかと思うのが普通で、どうしたらよいか分かるはずのないこんな状況で「何をしたいか」と聞くなんてひどい。(略)見る人にそのことに気づいてもらいたかった。(略)
 ところが、利発なハイジは泣き出すどころか、もの怖じしないで、何をしたいか聞いてくれたことを喜ぶんです。

世界名作劇場シリーズ メモリアルブック アメリカ&ワールド編

世界名作劇場シリーズ メモリアルブック アメリカ&ワールド編

  • 作者:ちばかおり
  • 発売日: 2009/07/11
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世界名作劇場」のこと

(メモリアルブック・インタビュー)

[やれと言われて、がっかり。]でも、やるとなったら逆にトコトンやろうと。
 『三千里』は股旅ものにすることもできたわけです。たとえば、日本のアニメは子供が大人顔負けの能力を持っているものが多いのですが、『三千里』もそういうものにすれば、お母さんを捜すことをベースにしても、一宿一飯の恩義を返しながら、つまり、その能力で人助けをしながら、行った先々で貸借対照表が常にプラスになるようにできるから、見る人は明るく見ていられるし、お母さんが見つからなくてもそれほど辛くない。でも僕らは、ほんとうに何も持たない少年が人の世話になりながら恩義ばかり重なっていくという、借りばっかりが増えてくような話にしました。原作どおり、それをちゃんとやった方がいいんじやないかと。戦後イタリアのネオレアリズモ映画のようにね。
(略)
 それから僕が非常に強く願いつつ、しかし全然できなかったのは日本のものです。日本の作品をやりたかった。こちらはアルプスやカナダで生活したわけでもなんでもないのに、作品を作るに当たって細かい文化人類学的なことを真面目に調べたりしたわけです。そのくせ、日本については自分自身も含めてそういうことをまるでやってない。周りを見回すと日本の過去や生活そのものについても知らないことがいっぱいあるんです。農器具なんかは土地の資料館、民俗資料館みたいなところにたくさん置いてある。だけど一体どうやって使うのか、今の若い人は誰も知らない。僕くらいの世代は知っているんだけど、伝えていない。そんなことでいいんだろうか? 『ハイジ』でチーズをあぶって食べて美味しそうだと言ってくれるのは嬉しいけど、日本のことを何も知らないままではね。
 結局僕らが作っているのは、一生懸命生活を描いたとしても結果はファンタジーとして受け取られてしまうんです。西洋への観光旅行と同じ。ヨーロッパには爆撃を受けなかったところは百年前の写真とほとんど同じにしか見えないような素晴らしい景色がいっぱいある。日本では十年後に行くとまるで変わっている。そういう日本に暮らしながら、憧れのヨーロッパでファンタジー心を癒すんですね。憧れだったら、それに学んで日本の美しい景観も破壊せずに守っていったらどうだろうか(略)

映画人九条の会結成記念講演

[戦争の悲惨さを描き反戦気分を共有させようとする反戦アニメ、『火垂る』もそう認識されている]
しかし私は、『火垂るの墓』を作る前も、今も、真の意味で反戦ということで言うならば、こういう映画は真の「反戦」たりえない、というか、たいして有効ではない、と思い続けてきました。戦争がどんなに悲惨かは、過去のことを振り返るまでもなく、現在、日々のテレビのニュースでも目撃できます。しかし、どの戦争も、始めるときには悲惨なことになると覚悟して始めるのではありません。
 私たちみんなが知らなければならない最大の問題は、戦争を始めるときのことなのではないでしょうか。
(略)
 話がそれるようですが、いまは「泣ける」映画しか大ヒットしません。悲しくて泣くのでも、可哀想で泣くのでもなく、みんな感動して泣きたがる。
(略)
ひたすら主人公を応援して、気持ちよく感動したがっているのですから。そんなうまくいくわけがない、ということなど考えたくもないらしいのです。目覚めた知性や理性はその「感動」の前には無力です。
 もし日本が、テロ戦争とやらをふくめ、戦争に巻き込まれたならば、六十年前の戦時中同様、大半の人が日本という主人公に勝ってほしいとしか願わなくなるのではないかと心配です。そして気持ちよく感動しようとして、オリンピックでメダルを取るのを応援するように、日本が世界の中で勝つのを、普通の大国として振舞うのを、みんな応援するのではないか。
 いま、戦争末期の悲惨さではなく、あの戦争の開戦時を思い出す必要があると思います。それまで懐疑的だった人々も大多数の知識人も、戦争が始まってしまった以上、あとは日本が勝つことを願うしかないじゃないか、とこぞって為政者に協力しはじめたことを忘れてはいけない。そして有名人をふくめ、ほとんどの人が知性や理性を眠らせてしまい、日本に勝ってほしいとしか願わなくなっていたのです。
(略)
あの頃の戦勝旗行列・提灯行列は、決して強制されたからやったのではなくて、みんな喜んで参加したのです。つまり大々的に応援したのです。そして酔ったように感動したのです。
(略)
「非国民」というのも、特高が使うだけの言葉ではありませんでした。普通の人々が、「おまえ、それでも日本人か。日本が負けてもいいのか。日本が勝つことを望んでいないのか。卑怯者!」という意味で、弱音を吐く連中を「非国民」と決めつけたりしていたのです。
(略)
 あの戦時中とこれからと、どこが違うでしょうか。むろん大きく違います。しかしいまみんな、理性を眠らせて、映画を見ながらうまくいくことだけを願い、それが満たされて、感動の涙を流しています。このような精神状態は、まったく戦時中の前半とよく似ているような気がするのです。で、現実は映画とちがうから、やめることもできなくて、ずるずると深みにはまる可能性がたいへん高いのではないでしょうか。八月のオリンピックの野球で、日本代表の負けがほぼ決定的になったとき、みんなの願望を代表して、アナウンサーは絶叫しました。「ここで絶対負けるわけにはいきません!」そしてその絶叫の直後、負けが決まりました。(略)

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