評伝 服部良一その3 東京ブギウギ

前日のつづき。

古賀メロディー第三期黄金時代

[昭和14年]古賀政男アメリカから凱旋した。NBC放送で古賀メロディーが放送されるという快挙をなしとげての帰国だった。(略)服部が驚いたことは、《緑の月》のブルースが高く評価されたことである。しかも、《酒は涙か溜息か》はジャズに編曲されていた。《男の純情》はそのメロディーの美しさがアメリカで絶賛されていた。(略)
服部良一古賀政男コロムビアでしのぎを削ることになったのである[他に戦時歌謡でクラシックの悲愴感を盛り込み台頭してきた古関裕而、一連の「愛染シリーズ」の映画主題歌で売る万城目正、チャイナメロディーでビッグヒットを放った竹岡信幸など]。この時点で、古賀と服部では、「流行歌王」と「スウィング・ブルース王」の称号をそれぞれ持ち両者の実力は拮抗していたが、レコード会社の利益に貢献できるヒットの実績には相当の開きがあった。
(略)
[昭和15年《ラッパと娘》]服部はスウィング感がほとばしるように全体をドライブさせるために笠置のヴォーカルに爆発音のような迫力を要求しながら、火を噴くような熱いサウンドに仕上げた。だが、その一方で、服部が編曲において趣向を凝らした四サックスで構成されたサックスセクションの美しいハーモニーが損なわれてしまった。(略)
昭和15年は、外遊から帰国した古賀メロディーが第三期黄金時代を迎えた年でもある。古賀メロディーがコロムビア全盛を駄目押ししたのだ。[《誰か故郷を想わざる》《目ン無い千鳥》他](略)
[服部もブルース歌謡《湖畔の宿》のヒットで古賀に並んだ。]
高峰三枝子は服部の朝鮮古謡の研究成果といえる《アリラン・ブルース》を歌っており、ブルース歌謡の感覚はすでに掴んでいた。
(略)
[官憲から女々しく感傷的と厳しく批判された《湖畔の宿》だが]
大東亜会議で来日していたビルマのバーモー長官が服部の《湖畔の宿》を気に入ってしまった。そこで、高峰三枝子が芝の紅葉館で東条首相とバーモー長官の前で歌った。官憲から睨まれた歌が東条首相から感謝状を貰うという珍現象が起きたのである。

ラッパと娘

ジャズの灯が消えるまで

[昭和17年戦況は不利に、敵性音楽ジャズ系の服部の仕事は激減]
 服部は、NHKの『軽音楽の時間』で編曲・指揮に精力を注いだ。そこで、「コロムビア・ジャズ・バンド」のメンバーを中心にジャズ的演奏を行った。英米系の楽曲はドイツ、イタリアの音楽だと納得させ、ジャズのスタンダードナンバーには怪しげなタイトルをつけてアドリブソロを入れて徹底的にジャズにして演奏したのである。また、NHKが参謀本部の指導のもとに戦線の連合国将兵向けに企画し敵謀略のためにジャズを放送した関係で、別に怪しげな楽曲名に変えなくても演奏できる時もあった。(略)鉄帽、防空ずきん、ゲートル巻という凄い恰好のジャズ演奏家が喜び勇んでスタジオに集まり、敵性音楽のジャズがホットに演奏されたのである。
(略)
[昭和18年阿片戦争』封切。主題歌《風は海から》]を静かな海から吹く風が沖のジャンクの帆を揺らめかせる抒情風景をテーマに抒情的なメロディーに仕上げた。(略)
 歌唱は渡辺はま子。映画では高峰秀子が夕陽の輝く広東の街で姉にはぐれ途方にくれている少女を演じ、可憐に歌った。服部は省線電車の代々木駅で下車すると、よく練兵場に向かう学徒出陣の学生と行き合うことがしばしばあった。彼らは服部が作曲した《風は海から》を口ずさんでいた。
(略)
[昭和18年敵性音楽ジャズ発禁に]
 昭和19年6月、日本のジャズ、ポピュラー音楽が演奏形式上完全に終焉した。楽器の使用制限と禁止が徹底化されたのだ。これが「軽音楽改革」だった。殊にジャズにおいては、サックスの使用は二本以内、トランペットのミュート演奏は禁止され、これがサックスセクションの柔かい甘い音色に引き立てるミュートトランペットの華やかさを消し去り、ホットなスウィングジャズの豪華な演奏にとっては痛かった。服部はジャズの終焉を確認するかのように日本を離れ上海に旅立っていた。

風は海から   東宝映画「阿片戦争」主題歌

高峰秀子歌唱シーン 風は海から(映画より) 

 

終戦、東京ブギウギ

《東京ブギウギ》のメロディーは、《胸の振子》の吹込みの帰り、中央電車の中で浮かんだ。[仕事帰りの疲れきった人々](略)
レールをきざむ電車の振動が並んだつり革の、ちょっとアフター・ビート的な揺れにかぶさるように八拍のブギのリズムとなって感じられる(略)
浮かんだメロディーを忘れないうちに書きとめたいと思い、西荻窪で降りた。(略)[喫茶店に飛び込み]急いでナフキンに夢中に音符を書き込んだ。(略)
 コロムビアにある若いジャーナリストが出入りしていた。名前は鈴木勝[鈴木大拙子息]。(略)鈴木は英語が堪能で通訳や通信関係の仕事をしていた。(略)[新しいリズムなので、まったくの新進作詞家の方が斬新で良いと鈴木に作詞依頼]
 吹込みが始まると、白人、黒人の下士官たちがゾロゾロとスタジオに集まって来た。どうやら、英語の達者な鈴木が宣伝していたらしいのだ。笠置シヅ子の歌唱とオーケストラ、そして、大勢の進駐軍G・Iという観客と奇異なライブ録音になったのである。
 OKランプがついた。真っ先に歓声はG・Iから上がった。たちまち《東京ブギウギ》の大合唱になった。ビール、ウイスキーがスタジオに持ち込まれ大祝賀会になってしまったのである。服部は、ビールを舌鼓しながら、アメリカ人の魂を震わせた楽曲の完成に喜びをかみしめ祝杯をあげ、《東京ブギウギ》の成功を確信していた。

香港映画界へ

 昭和30年代から40年代にかけて服部良一は歌謡曲から遠く誰れた位置にいた。音楽奉仕ということで校歌・社歌の創作に熱意を注ぐ一方で、香港映画の音楽を数十本こなした。(略)


 「香港との縁は、前にも書いた上海時代の中国五人組の作曲家の一人の姚敏[ヤオミン]である。姚敏君は、上海当時、ぼくの許にきて和声学の勉強をしていた。その彼が戦後香港へ移住したので、彼の招きで何回も香港へ出かけて、キャセイ映画やショー・ブラザーズ映画の音楽監督をしたのである。
(略)(ぼくの音楽人生)


[戦前多くのチャイナメロディーを書いた。戦後]歌謡曲が江戸三味線俗謡や浪花節の濃い艶歌が主流の時代となると中国メロディーにその原郷を求めたのだ。「ショー・ブラザーズ映画」はその戦前からの服部メロディーを高く評価しており、「キャセイ映画」は姚敏を通じて服部を音楽監督に招いたのである。(略)
[昭和37年]香港に長期滞在した。香港のリッツ・ホテルにピアノを持ちこんで作曲に没頭したのだ。(略)406号室には連日、スタッフや出演者がやって来て中国語、英語、日本語が飛び交い活気に溢れていた。だが、当時、香港映画は日本では公開されず、服部が手掛けたミュージカル映画はほとんど知られることはなかった。

服部良一拾遺

 昭和初期、日本のレコード産業は巨大だった。ビクター、コロムビア、ポリドールなど大手資本の外資系メジャーレーベルだけでもクラシック・ジャズの輸入レコードの発売、原盤契約にもとづく国内プレスレコード、多種大量生産の流行歌を含めた邦楽の国産レコード発売など毎月、膨大な発売点数に登り、無数のマイナーレーベルの存在を含めると、当時の日本のレコード界は巨大なモンスター産業だったのである。

 昭和30年代に入ると、服部のリズムは斬新性を求めていたとはいえ、ヒットメイクという点においては息切れをしていた。(略)ブギのリズムに代えてマンボ、チャチャチャのリズムを自作品に使ってみたが、楽曲の完成度には手ごたえがあったにもかかわらず、ヒットの鉱脈にはいたらなかった。これによって、笠置シヅ子とのコンビも終焉を迎えることになったのである。だが、日本ではヒットせず無名に終わった《ジャジャムボ》が香港映画に使われそれ以後、何度も中国語圏内でカヴァーされるという不思議な現象が起きている。
 日本が高度経済成長に入ると、服部は香港映画に携わりその主題歌と香港ポップスと云われた流行歌の作曲も手がけている。香港ポップスの作曲家「夏端齢」は服部良一のことである。

残り116ページはディスコグラフィーと年譜。