アナーキズムと反植民地主義的想像力

『三つの旗のもとに』ベネディクト・アンダーソン
訳者あとがき

 そうしたアナーキズムナショナリズムの対称性と同時代性に、アンダーソンは三名のフィリピン人の生きざまをとおして迫る。その三名とは、フィリピン・ナショナリズムの父ホセ・リサール、人類学者でありジャーナリストでもあったイサベロ・デ・ロス・レイエス、活動家のマリアノ・ポンセである。

三つの興味深い「世界」

このためには1882年にヨーロッパヘ旅立つ以前のフィリピンにおける、若きリサールの政治的経験から分析を始めざるをえない。そのあとは?三つの興味深い「世界」が交錯する。第一の世界は、ビスマルクを軸とする1860年から1890年の国家間世界システムである。(略)
[普墺戦争普仏戦争]この二つの戦果によってプロイセンドイツ帝国となっただけではなく、フランス君主制の息の根を止め、教皇の世俗的権力を破壊した。同時に、遅れてきた帝国主義者として、アフリカ、アジア、オセアニアヘと帝国の領域を拡大していった。このように栄華を誇ったビスマルクという世界の元締めが権力の座から落ちるわずか三年前、すなわち1887年にリサールの『ノリ・メ・タンヘレ』は帝都ベルリンで出版された。同時代に目配りすると、世界の周辺部では、徳川治世後の日本と南北戦争後のアメリカが台頭の気配をみせ、ヨーロッパによる世界覇権の足下は揺らぎ始めていたのであった。
 第二の世界はグローバル左派の活躍した空間である。ビスマルクによる第一世界の再編の影響もあって、1871年には世界で空前絶後の出来事が起きた――(当時)「世界文明の中心」としての象徴であったパリが、一時的であるとはいえ民衆の手に落ちたのである。民衆が創設したパリ・コミューンは地球上の隅々にいたるまで反響をおよぼした。フランス政府はビスマルクよりもコミューン参加者の存在を遥かに恐れ、容赦なく弾圧した。しかし皮肉なことに、こうしたパリ・コミューンの弾圧は(1883年の)マルクスの死と相まって、国際的なアナーキズムを呼び覚ますこととなった。この国際アナーキズムは20世紀の声を聞くまで、産業資本主義、独裁政治、大土地所有(ラティフンディア主義)、帝国主義に対するグローバルな抵抗の手段であった。奇しくも一連のグローバル左派の活動にはからずも顕著な貢献をしたのは、スウェーデンの実業家兼科学者のアルフレッド・ノーベルであった。かれが発明したダイナマイトは手軽な大量破壊兵器として、地球上各地の被抑圧階級に属する活動家の強力な武器となった。
 第三の世界は、上記ニつの世界よりは狭い世界である。その世界とは、19世紀にはすでに衰退の一途を辿っていたスペイン帝国の名残とでもいうべき空間であり、そこでリサールは生を受けた。そのころのスペイン帝国の中心といえば、王家の内乱、民族と地域が入り交じった熾烈な競争、階級闘争、多種多様なイデオロギー闘争によって、みるも無残な姿を曝していた。スペインは、かつてカリブ海から北アフリカを経て太平洋の縁にいたるまでの広範囲におよぶ植民地を誇っていた。しかし、19世紀後半にはキューバが拠点となり、反植民地主義運動が帝国内で徐々に激しさを増し、社会的な支持を拡大していた.同時にそこには植民地どうしが綿密な連携をとる土壌も形成されつつあった。
(略)
[成人になったスペインの]イサベル女王は母の採用していた自由主義的政策を否定し、その反動で妥協することを知らない保守主義的聖職者の勢力と手を組むにいたった。そのために体制そのものは腐敗の局地に陥り、いつ転覆しても不思議ではない状況まで堕落していった。
体制崩壊の数ヵ月前にあたる1868年9月、イサベル女王は政敵である共和主義者を数多くフィリピンに追放し、マニラ湾に浮かぶ要塞化したコレヒドール島に投獄するよう命じた。その後、イサベル女王の退位とフランスヘの逃亡という事態が生じた。そうした政治的な変動をスペインが経験するなかで、マニラでは注目すべき動きがあった。金銭的に裕福でありかつ政治的には自由志向が強かったクレオールメスティーソが、スペインの共和主義者で、苦境にある囚人を支援するために公的基金を組織したのである。
(略)
1869年6月、新しいフィリピン総督となったのは、これまた裕福で自由主義者であったアンダルシア人カルロス・マリア・デ・ラ・トーレ将軍であった。かれの登場はスペイン半島出身の植民地エリートを慄然とさせるような恐怖に陥れた。デ・ラ・トーレ将軍は、クレオールメスティーソを宮殿に招待し「自由」を祝福しただけではなく、総督らしからぬ私服でマニラ市街を闊歩した。さらには報道検閲を廃止し、言論と集会の自由を保障し、軍隊内での刑罰であった鞭打ちの刑を止めさせた。また、マニラに隣接するカヴィテ州でくすぶっていた農民反乱を終結させるために、反乱者に恩赦をくだして地元の特殊警察隊を組織させたのであった。翌1870年には、自由主義者であった海外領大臣セイスムンド・モレが、ドミニコ会派のサント・トマス大学を国営化した。同時に、修道士たちには世俗化した場合には、宗教的な階層に反することがあるとしても各自の属する教区管理の権利を保障するとした、世俗化を奨励するという布告を発令する一方で、こうした政治的変化はキューバでも起こった。そこでは裕福な地主カルロス・マヌエル・デ・セスペデスが十年間の反乱を率いた。かれは一時期、スペイン植民地の東半分を支配下に置くほどの勢力を誇った。
 しかしながら、マドリッドでは政治の向きが変わり始めていた。
(略)
[フィリピン総督が保守的な将軍に替わり、強制労働免除が廃止されたカヴィテ海軍造船所の労働者による]暴動が発生し、スペイン人武官が七名犠牲になった。暴動は程なく鎮圧されたが、イスキエルド将軍によって逮捕されたクレオールメスティーソは数百名に上った――在俗司祭、商人、弁護士、植民地官吏までもが容赦なく逮捕されたのである。このなかにはバサ、レヒドール、パルドも含まれており、ほとんどはマリアナ諸島あるいはそれより以遠の地へと追放された。それだけではなく、保守的な修道士に唆された政権は、自由主義的な在俗司祭を三名選びだし、公開処刑の実施を決定したのである。
(略)
 それから六ヵ月後の1872年9月2日、1200名におよぶ労働者がカヴィテ造船所と兵器廠でストライキに突入した。これはフィリピン史上最初のストライキであった。大量の逮捕者がでただけではなく、尋問された労働者の数も尋常ではなかった。
(略)
[後年リサールは「1872年がなかったら、リサールはいまごろイエズス会士として、『ノリ・メ・タンヘレ』とは真逆の作品を書き記していたことであろう」と回想]

パリ・コミューン弾圧

 さてフランスでは、セダンでの敗北に続き、パリがプロイセン軍に包囲された。ルイ・ナポレオンのあとを継いだ政権は不安定であり、ボルドーヘと逃亡した。その政権が再びヴェルサイユに現れたのは、屈辱的な休戦協定と条約に署名したときであった。1871年3月、放置されていたパリをコミューンが掌握し、その統治は二ヵ月ほど続いた。その後、ベルリンに降伏したヴェルサイユ政府が機に乗じてパリ自治市を攻撃した。一週間でおよそ二万人のコミューン参加者と支持者とみなされた人びとが処刑された。この数字は、直近の戦争あるいは1793年から1794年にかけて敷かれたロベスピエールの恐怖政治の際に殺された人数よりも多いものである。また、7500人以上が投獄されるか、ニュー力レドニアやカイエンヌなどの遠隔地に追放された。その他にも、数千人がベルギー、イギリス、イタリア、スペイン、アメリカ合州国へと逃れていった。1872年には、左翼の組織化を排除する厳格な法律が制定された。追放され、投獄されたコミューン参加者には1880年まで恩赦がなかった。

日本滞在

 リサールは、短期ではあるが明治中期の日本にも滞在している。それは1888年2月、太平洋経由でフィリピンからヨーロッパに戻る途中のことであった。リサールは、日本人の規律正しさ活力、野心に感銘を受け、人力車に肝を潰した。いうまでもなく、非ヨーロッパ人がその独立を保持し、近代への階段を駆けあがっている姿を目の当たりにすることほど気分のよいものはなかった。他方で香港にも短期間滞在したが、リサールにとって中国の重要性は低かったようである。かれがサンフランシスコに到着したときには、反アジア人デマゴギーが争点であった選挙期間にぶつかった。
(略)
アメリカが太平洋へ拡張するであろうことをリサールは予知していた。その後ロンドンに腰を落ち着けたリサールは、当時拡大する一途にあったアイルランド危機には目もくれず、大英博物館でひたすら初期フィリピン史に関する調査に没頭した。(リサールはプリムローズ・ヒルに居を構えていたのだが、エンゲルスが近所に住んでいたことに気づいていたのだろうか?)
 しかしながら、保守主義権力が支配的であり、資本蓄積が進行し、グローバルな帝国主義が展開するような表面的には穏やかな世界では、同時並行的にもう一つの世界、リサールの小説と直接的に関係する世界が徐々に構成されていた。それどころか1883年の時点で、リサールはやがて訪れる世界の方向性を感じ取っていたのである。


ヨーロッパは並々ならぬ大火災に絶えず脅かされている。世界の王権は、衰退しつつあるフランスの震える手から滑り落ちつつある。北の国ぐにはそれを奪おうと虎視耽々と狙っている。ロシアは、皇帝の頭上にニヒリズムの剣が、あたかも古代のダモクレスのように下がっている。文明化したヨーロッパはそのような状態にある……。

[六週間の滞在で日本に魅了され]日本語だけでなく日本画と書道も早速学び始めた。サンフランシスコへの定期船の船上、リサールは末広鉄腸と出会い、外国語を一切理解せず惨めに孤独を感じていたかれの面倒をみた。ふたりはともにアメリカ合衆国を横断して、リヴァプール経由でロンドンへ向かい、そこで分かれた。
[鉄腸は民権運動で投獄され病床で書いた政治小説雪中梅』が大ヒット、その印税での海外旅行だった](略)
末広は、一個人として、並外れて諸言語に通じた人として、そして政治的理想主義者として、リサールに非常に強い感銘を受けた。愉快にも『唖の旅行』と題された紀行のなかで、フィリピン人小説家は中心的な役割を果たしている。

ブルボン王政復古

将軍たちは1874年1月に議会を解散、その年末にアルフォンソ12世を擁立し、ブルボン王政を復古させた。こうした政治的策略をとった主たる理由は、推測できるかもしれないが、キューバで発生したセスペデスの反乱が、年老いたスペイン帝国に存続の危機をもたらしたからである。しかし他方で、スペインの公的領域には驚くべき政治的盛りあがりもあった。歴史上初めて、短期間ではあるが共和主義者が合法的存在となった。バクーニン派とマルクス派の急進主義者は初めて政治的な足場を獲得した。抜本的な地方自治を要求した1873年の「カントナリスタ」政治運動は幅広い支持を誇った。そこでは多数の若きアナーキストと急進主義者が徒党を組み、オープンな大衆政治の実験をしたのであった。

日本とフィリピン

[1892年7月リサールがダピタンへ追放されフィリピン同盟は崩壊、ごく少数が同盟を秘密の革命組織カティプーナンに。300人未満の会員が1895年の国際的局面により1万人に膨れ上がる]
1895年4月11日のマルティのキューバ上陸が、朝鮮における1894年から95年の日清戦争での日本の圧勝のあと、東京と北京のあいだでの下関条約調印のわずか六日前であった事実である。(略)ボニファシオと同志は、世界の両極で二つの反植民地蜂起と対峙する羽目になった場合、スペインは窮地に追い込まれるであろうことを明確に理解していた。そうした事態に直面した場合、マドリッドとしては赤字状態が続くフィリピンではなく、儲かるキューバに絶対的な軍事的優先度をつけることも認識していた。他方、ルソン島の北岸からほんの250マイルのところに島の最南端部がある台湾は、すでに日本国の領土と化していた。キューバ人が近隣のアメリカ合州国から支援を得られるのならば、フィリピン人も同じことを日出る帝国に期待できるだろうか。
 現実には、二つの「隣人」の地政学的立場は非常に異なっていた。米国はすでに議論の余地なく西半球の覇権国となっていたのに対し、東アジアといえば競争する野心的な「白人」帝国主義勢力(略)がひしめく領域であった。
(略)
 東京とマニラの公的関係は概して穏やかであったが、スペイン当局にとっては将来における両者の関係についての悩みは山積されていくばかりであった。日本船がフィリピン領海に群がり、貿易収支はかつてないほど明確に日本優位であった。日本人がフィリピンに移民し始め、東京は植民地の移民関連法を緩和するよう強い圧力をかけた。日本人エリートはフィリピンについての情報に通じるようになっていたが、スペイン外交団には日本語を読めるか話せる者が一人もおらず、日本の政策と意図についてはイギリス人とアメリカ人の理解を基にするしか手がなかった。1890年代初頭になると、強硬に主張するロビー集団――野党議会人、新聞、軍国主義者、財界、特定のイデオロギーの唱道者たちが発言力をもつ――を形成し、太平洋と東南アジアにおける日本の拡張傾向を後押しするようになった(ドイツ人とアメリカ人が当該地域へ勢力を拡張することに対して機先を制するという部分もあった)。
(略)
 これらの状況下で、フィリピン人ナショナリストたちが日本人とのあいだに有益な関係を築こうと模索し始めたのは驚くことではなかった。最初にそうした行動をとったのはホセ・ラモスである。裕福な家庭に生まれ、ロンドンで教育を受けたほどであった。1895年夏、ナショナリストプロパガンダを広めた咎で逮捕寸前であると密告を受けたため、イギリス人を装って、英国船で横浜へ向かった。そこで日本人女性と結婚し、彼女の姓を名乗り〔石川保正〕、ついには明治天皇帰化臣民となった。朝鮮での戦争で使われなかった余剰の銃を購入し、フィリピンヘ送ることにほとんどの時間を費やしたが、結局は空しい試みに終わった。他の富裕なフィリピン人たちは、旅行や高等教育のためという口実で日本へと向かった。