アイザィア・バーリンとの対話

『ある思想史家の回想』をパラ読み。

二つのロシア革命

[10歳の時、両親と共産主義ロシアを脱出]
ペトログラードでは、八歳で二つのロシア革命を目撃しました。第一革命のことは、非常にはっきりと覚えています。街頭には集会があり、旗があり、群衆がいました。熱狂と、ルヴォフ新内閣の顔触れをのせたポスター、憲法制定議会選挙のために二十以上の政党が宣伝活動をやっていました。戦争については、私の家族が暮していた交際範囲の中では、あまり話題にはなりませんでした。ユダヤ人は、あの自由主義革命を大歓迎していました。自由主義ブルジョワジーもそうでした。しかし、それは長くは続きません。ボルシェヴィキ革命は11月に起こりました。(略)
われわれの交際範囲の人々は、〔ボルシュヴィキの〕蜂起は、せいぜい二、三週間しかもたないと思っていました。(略)やがてゆっくりと、レーニントロッキーが革命の二人の重要人物として出現します。ブルジョワ自由主義派であった私の両親は、レーニンが創る社会では自分たちは生き延びてはいけないだろうと思っていました。レーニンのことを危険な熱狂主義者だが、真の信念の人、正直で腐敗を受けつけず、いわばまだくちばしの黄色いロベスピェールだと思っていました。それにたいしてトロッキーは、邪悪な機会便乗主義者だと見ていました。(略)二人は「レーニントロッキー」という風に、決して切り離さず、合名会社の名のようにひと続きで呼ばれていました。皇帝政府に忠誠であったのは、警官だけだったと記憶しています。(略)街頭では、警察はファラオと呼ばれていました――人民の抑圧者だというのです。警官の中には、屋上や屋根裏から革命家たちを狙撃するものもいました。私は一人の警官が暴徒たちに引きずり回され、真っ青な顔でもがいているのを見ました。もちろん殺されたのでしょう。ひどい光景で、決して忘れられません。私はそのために、一生涯、肉体的な暴力を恐れるようになりました。

資本論』のロシア語翻訳

バクーニンが始めましたが、終りまで行きませんでした。マルクスは、バクーニンがありとあらゆる嘘を混ぜてくるのではないかと疑い始め、大喧嘩になりました。『資本論』の最初の完全なロシア語訳は――もちろん第一巻だけのことですが――、キエフ大学の経済学の教授がやったものです。帝政ロシアの検閲は、それをパスさせました。あまりに難解で誰もよく読んだりはしないだろうと、検閲官が思ったからです。

マキャヴェリ

私がマキャヴェリに関心を持ったのは、一元主義、つまり永遠の哲学に対する反論が最初にいつ、いかにして生じるかに関心があったからです。
(略)
安定した強力な国家を欲するなら、ああしろこうしろと彼が言ったというのが、普通のマキャヴェリ解釈です。例えば、人民は貧乏にしておけ、犯罪的行為もためらうな等々です。しかし、そのためにキリスト教徒としての生き方とは基本的に両立できなくなっているという事実を、解釈者は強調していません。(略)通常理解されているようなキリスト教的な生活――現世的な野心を去った謙虚な暮し――をやっていれば、無視され抑圧され、辱められ殺されることは覚悟しておかねばならない。これをどうやって避けるかについて、彼はあなたに忠告していません。彼の忠告は君主や共和国の政治家のためのものです。結局のところ、あなたがキリスト教徒だというなら、自分はあなたのために書いていないというのが、彼の言おうとしたことです。強力で隆々たる国家は、福音書の道徳の上に築くことはできない。
(略)
マキャヴェリは能率的な国家をいかに維持していくかにだけ関心があったのであって、彼は倫理には興味がなかった、彼は無道徳的だ、彼は政治を倫理から切り離したのだと言う人がいます。私は、これは誤っていると思います。マキャヴェリキリスト教的倫理から政治を分離しただけであって、倫理そのものからは分離していないと、私は思います。マキャヴェリは倫理的思想家であり、人生の目的について考えています。人は何を求めるべきかを知りたいと思っています。イタリア人がローマの理想と実践に戻ることを望み、人民が活発で愛国的であることを望んでいます。(略)活発で愛国的な市民の上に、権力に夢中になっている強力で狡猾な支配者が統治していることを欲しています。それは倫理的な理想、市民的で人間主義的な理想ですが、自由主義的でも民主主義的でもない。
(略)
マキャヴェリは共和主義者です。しかし共和国になれないならば、軟弱で非能率、弱くて無能な共和国よりもよい君主国の方がましというものです。しかしマキャヴェリは、もちろん共和国を望んでいます。共和主義者であるためにメディチ家から罰を受けました。しかし、共和主義者であることを悔いたとは、一度も言っていません。もう一度メディチ家に気に入ってもらおうと手紙を書いたのは、公的生活に復帰したいと思ったからです。公的生活がすべてであると考えていたからです。彼は活力のある国家を望んでいました。彼にとって最善の国家は強力な共和国です。それはまた、市民の間に正しいものの見方を生み出していきます。しかし共和国がだめなら、君主国でもよろしい。重要なことは他国、強力な敵国、侵略者にやっつけられないことだからです。
(略)
彼にとって政治とは彼の信奉する原理を社会に応用することだったと、私は思っています。自立性とは、道徳が政治とは無関係だということを意味します。もちろんマキャヴェリは倫理を論じてはいません。遠まわしに、あなたのしていることは道徳に反しているかもしれないが、政治では必要なのだと言っているだけです。彼の倫理は異教の倫理ですが、それでも倫理です。自立性について語ることは、道徳と政治が別物だということを暗に意味しています。マキャヴェリは、両者が分離できるとは信じませんでした。強力な共和国を提唱したのは、その強さ、誇り、栄光、繁栄が望ましいと信じているからです。彼の考えは、従順というキリスト教の道徳と両立しない、というだけのことなのです。
(略)
彼は、公的価値のシステムがただ一つではないことを認識した最初の思想家です。国際関係について論じた最初の人でもあります。彼は自分の信じている公的世界を他のどのような世界よりも望んでいました。そして彼は、レーニンよりも前に、政治とは「誰が誰を」の問題だと考えています。

ホッブススターリン

19世紀には、誰もホッブスについてあまり考えませんでした。(略)
しかし政治的には、20世紀は17世紀により近いのです。激烈な大権力闘争、全体主義国家の出現、残忍さ、個人生活にたいする危険などでは、17世紀よりも今世紀の方がむしろ大きいでしょう。17世紀では、殺されることに対する保護がホッブスの語っていることの一つです。人々は非業の死を恐れていたのです。
(略)
無秩序にたいする恐怖がホッブスの主要な動機です。ですから彼は多様な意見、特に宗教についての多様な意見に反対でした。宗派というものは政治体制の腹に巣喰った回虫のようなものです。抑え込んでしまわなければならないのです。
(略)
私は、ソ連は、苛酷な法を持っているからある種のホッブス的な国家だと考えていました。しかしホッブスは、すべての法が苛酷でなければならぬとは言っていません。それは間違いです。ホッブスは残酷さと弾圧を望んだとよく解釈されていますが、そうではありません。厳格な法は望んでいましたが、公共の秩序を維持するのに最小限必要なものを望んだだけです。自分が自制不可能になるかもしれぬと考えて、自分から進んで拘束着を着用する人に、まるでよく似ています。自分は発狂するかもしれぬと思い、その時には身を守る役に立つと信じて、拘束着を着るのです。(略)自制力を失うかもしれぬと思うので、リヴァイアサンという自動的にあなたを抑制してくれる機械を発明するのです。
(略)
[1946年頃に会ったアレクサンドル・コジェーヴにこう話すと、彼はソ連ホッブス的国家ではない]
ロシアは無知な農民と貧しい労働者の国であり、いったんこのことを認識すれば、ソ連が非常に治めにくい国だということが判ってくる、と彼は続けて言いました。
(略)だから、今ロシアについて何かしたいと思うならば、その国を激しく揺さぶらねばならぬというのです。非常に厳しい規則のある社会では、その規則がどんなに馬鹿げていても、人々はそれを守るでしょう。例えば法律で誰もが三時半には逆立ちしなければならぬと定めているなら、生命惜しさに誰もがそうするでしょう。しかし、スターリンにとってそれだけでは足りなかった、それだけでは現実を充分に変革できなかったからです。スターリンは自分の臣下を粉々に砕いてパンだねを作り、自分の好きな通りにそのパンだねをこねていきました。人民が頼りにできるような習慣や規則があってはならない、そんなものが残っていれば、人民を欲しいままに変えることができないからです。しかし、人民を法を破ってもいないのに破ったとして非難し、犯してもいない犯罪を犯したとして非難し、人民にはさっぱり理解できない行為をしたとして非難するならば――人民は、いわばどろどろのパルプになってしまうでしょう。そうなれば、誰も自分がどこにいるか判らなくなり、誰も安全ではなくなります。何をしたにせよ、あるいは何をしなかったにせよ、やっぱり破滅させられるかもしれないからです。それは、本物の「混沌」状態を作り出します。いったんどろどろのかたまりが手に入れば、その時々に好きなような形にしていくことができます。何かが決まったようにはしておかないことが目標です。コジェーヴは巧妙な思想家で、彼はスターリンもまたそのような人物だろうと想像していたのでした。ホッブスは、法を守れば生き残れるような、そんな法を構想しました。スターリンは、守っても守らなくても勝手気ままに罰せられるような法を作りました。どうやっても自分を助けることができなくなったのです。存在してもいない法を破ったとして、あるいは逆にそれを守ったとして、罰を受けたのです。人間はこのようを受動的な代物にさせられてしまいましたが、未来はそこから築いていくしかないというのです。彼は、スターリンに手紙を書いたが返事はこなかったと言っていました。彼はおそらく自分をヘーゲルと一体化し、スターリンをナポレオンと一体化していたのではないかと思います。彼は夢想に走りがちでした。

何故われわれは人権を信じるのか

何故われわれは人権を信じるのかと問われるならば、私はこう答えることができます。それが唯一つの品位のある生き方、むしろ人々が互いに一諸に生きていく上での辛抱できる生き方だからだというのが、私の答です。「品位のある」とは何かと問われるならば、私はこう言いましょう。それは、人間が互いに殺し合ってはならないとすれば、人間が従うべき唯一つの生き方であると。このようなことは一般的な真理です。しかしこのことは、何か一定普遍のことを前提にはしていません。何についても変化しないという保証をすることは、私にはできません。


――しかし、人権について語っている時には、あなたは自然権について語っており、自然権は先験的なものです。


もちろんです。だから私は、それを否定するのです。


――しかしあなたは、人権は否定しない?


しません。私は、自然権を列挙している先験的なリストを否定します。私は、人権を熱烈に信じます。これは、それ以外のわれわれすべてが認めている多くのことから生じる結論ですが、それは先験的であることを証明できます。私は人間の活動について一般原則があり、それがなければ最低限の品位のある社会はあり得ないということは、否定しません。私がどんな意味で「品位のある」と言っているかは、尋ねないで下さい。品位のあるとは、品位のあるということです――それが何かは、誰でも知っています。しかし、いつの日にかわれわれは違った文化を持つだろうとあなたが言われるなら、私はその逆が真であることを証明できません。

ツルゲーネフ

ツルゲーネフはこの感情移入の洞察力を持っていました。農民を理解していたからです。例えばトルストイよりも、実際にはよく理解していたでしょう。トルストイの農民は、紙で作った理想化された人物像です。ツルゲーネフの農民は絶対的に本物です。おそらくトルストイは、少しばかり嫉妬していたようです。ツルゲーネフは、手紙で次のようなことを言っています(正確な原文は覚えていませんが)。「私は奇妙な夢を見た。私の田舎の家のベランダに坐っていると、突然、私の領地の百姓の一団が私の前に現れ、『御主人様、あなたを首吊りにするためにやってきました。しかし急ぐことはありません、われわれがやる前にお祈りを言いたいのなら、どうぞそうして下さい』。」これはツルゲーネフを非常に典型的に示しています。農民は完全に品位のある善良な人々で、非常に温厚で丁重です。主人を首吊りにしたいと思っていますが、それが正しいことだと思っているからです。トルストイなら、決してそんなことは認めなかったでしょう。

ドストエフスキー

彼が偉大な天才であることは認めますが、彼の人生についての哲学にはあまり共感を感じません。私にとってはあまりに宗教的、あまりに聖職者的です。それにドストエフスキーを読んだ時、私は気力喪失になってしまいました――彼はひとを完全に支配できるのです。ひとは突然に悪夢に襲われ、自分の世界が偏執的になっていく、それが何か不吉なものに変わっていく、そしてそこから逃れたくなる。私はそれについて書きたくありません。私にはあまりに強く、あまりに暗く、あまりにも怖いのです。私は救い難いまでに、世俗的です。ドストエフスキーの世界は、聖者的なものが狂気ぎりぎりのところまで進んだ一種のキリスト教の世界です。
(略)
ドストエフスキーは拡大鏡のようなものです。明るいところで紙の上に拡大鏡をかざすと、紙は焼け焦げます。紙は歪んでいきます。それが、ドストエフスキーが現実にたいしてやろうとすることです。

インドでネルーと会った時

彼はこう言いました。彼はイギリスで学校、大学へ行き、そこで非常に幸せで、イギリス人を尊敬するが、それでもロシア人の方が好きなのは、イギリス人はいかに公共精神に富み博愛的であるとしても、インド人にたいしてどことなく下に見てしまうからだと、いうのです。ロシア人はがさつで野蛮ですが、しかし彼らは上ではない、それが違いだ。そして最後にこう言いました。ロシア人はインド人に恩を受けたとは感じさせない。彼はこのことを、日本人についてさえも感じていました。彼は言いました。「日本人にたいする私の感情は、想像できるでしょう。彼らは軍国主義的、帝国主義的、ファシスト的で、大戦ではひどいことをやりましたが、それでも私は日本へ行くと、彼らは兄弟だと感じるのです。イギリス人については、そのようには感じられません。