戦争のるつぼ 第一次大戦とアメリカ

第一次世界大戦アメリカニズム」

  • 第一章

大西洋の対岸で始まった戦争は、アメリカニズムの根本を問い直す議論を喚起していた。いったい、アメリカ国民とは何か?国家と市民のアメリカ的な関係とはなにか?強い地域自治の伝統を持つこの国で中央政府の権能はどのように位置づけられるべきか?

革新主義と国民国家

20世紀転換期のアメリカに叢生した社会改革の思想や運動を言う。それは急激なエ業化・都市化に由来する様々な社会問題――都市の貧困や劣悪な公衆衛生、売春などの悪徳、そして大企業の市場独占の弊害など――に中産階級的な感性からメスを入れようとする広範な思潮であった。革新主義を名のった多種多様な運動は、経済の自由放任と過度の個人主義が、本来、アメリカ的生活に存在したはずの共同性を棄損しているという危機意識を共有し、それぞれのやり方で、人々の間に社会的な絆を再生しようとした。
(略)
ジェーン・アダムズやジョン・デューイらによって実践されたコミュニティ再建の(略)
セツルメント運動の多くは、移民の生活環境を「見苦しくない」水準に高めることで、市民としての敬意と承認を与えようとした。それは英語使用の強制などを内容とする文化ナショナリズムとは一線を画するものだった。彼らにとっては、移民を包摂した地域コミュニティの再生こそが、個人主義を越えた民主的な絆(国民)を生み出す最重要の課題だった。
 これに対して、革新主義の中には連邦政府、すなわち国家を社会的な改革の主体と見る系譜があった。
(略)
セオドア・ルーズベルトは、「ニュー・ナショナリズム」を合言葉に、ハーバート・クローリーやウォルター・リップマン等、気鋭の政策集団と提携し、国家による老齢年金や独占禁止の制度化を主張した。彼らは、過剰な個人主義が経済の無秩序と社会的不平等をもたらしているという認識では、デューイやアダムズと変わらなかった。しかし、状況の改善には、より徹底した経済規制と社会統制が必要であり、そのためには国家の強権を積極的に活用すべきだという立場をとっていた。

戦備運動

 元陸軍参謀総長レナード・ウッドは、戦備運動を主導した人物のひとりだった。(略)
現下の州民兵、志願兵に大きく依存するアメリカの国防は、その合理性において決定的に誤った制度である。[スイスの国民皆兵をモデルとすべき]
(略)
 こうしたウッドの義務兵役論は、連邦主導の統合的兵制への移行を基礎づける人材確保の観点だけでなく、「より良き市民」としての国民形成を今ひとつの目的としていた点で興味深い。兵営で寝食を共にし、廠しい訓練に耐える経験は多様な出自のアメリカの若者に、共通の価値観を植え付け、彼らを文化的に均質な同国人にするだろう。ウッド自身の言葉を借りれば、義務兵役はまさに「るつぼを熱く熱する」ことなのだった。
(略)
[情緒的な煽動に戸惑いを示していた知識人の中からも]次第に同調するものが現れてくる。ロイスやリップマンなどの国家主義的な学識者は、15年夏頃には参戦論に傾き、年末には公然と戦備運動に賛同するようになった。

戦争を忌避する感情は

アメリカ全土に分厚く存在した。孤立主義の根強い中西部農民は、東部の大企業が、戦争から不純な利得を得ようとしていると疑った。南部社会は、参戦後に見込まれる黒人の徴用が人種秩序を破壊すると怖れていた。また、在米の移民のなかでも、最大集団のドイツ系800万人とアイルランド系450万人はアメリカがイギリス帝国に与し、独墺と戦うことを許せなかった。そして、ロシア帝国による過酷な徴兵、軍役の経験を持つ、東欧ユダヤ人移民の多くは、戦争そのものを生理的に嫌悪した。

「被治者の合意」

[17年二期目就任目前のウィルソン大統領演説中]
戦争目的の一つとして「被治者の合意」原則が強調されたことは、国内の社会改革とアメリカの国際的なコミットメントを結びつける広範な革新主義者の心を捉えた。リップマンやクローリー等、『ニューリパブリック』誌の論客はこぞってこの演説を称賛した。
(略)
ジョン・デューイは、ジェーン・アダムズのハルハウス運動を支えた急進的な哲学者だったが中立期を通じて徐々に国家主義的な改革プログラムに引き寄せられ、17年2月以降には、雄弁な主戦論者となっていた。デューイは戦争末期に、「戦争の社会的可能性」という論文を発表し、その中で戦争による社会の民主化に期待を寄せてこう書いている。「戦争には……あらゆる分野の科学的専門家の集合的学知と技術を活用し、コミュニティの目的のために組織する習性がある。」そして、そうした戦時機関は「私的かつ所有者的利害を、公的で社会的な利益の至高性に従属させる」。

政府が「被治者の合意」を聖化する一方で、集権的な総力戦体制を推進することに、疑いの眼差しを向けるものもいた。その一人は、哲学者ランドルフ・ボーンだった。ボーンによれば、戦争はなかば必然的に権威主義的な官僚統治を生むものであり、民意、あるいは「被治者の合意」原則に従う戦争などあり得ないという。
(略)
その批判の矛先は、主に参戦支持に転向した左派の革新主義者に向けられていた。戦争が喚起した国家暴力の抑圧性を看過し、これを社会の民主化に活用できると信じるデューイ等の論理は、ボーンにとっては、道徳的堕落以外の何物でもなかったのである。

検閲と広報

 具体的な戦争政策のうち、アメリカ政府が最重要に位置付けたのは、徴兵とこれを支えるプロパガンダであった。
(略)
戦争広報の組織化――すなわち、軍事的検閲によらない世論・情報管理――
(略)十分な情報を与えられて初めて「被治者の合意」は、真に民主的な成果に結びつくからである。
 とはいえ、戦時下の情報管理は深刻な課題だった。すでに、ウィルソンの参戦教書の翌日、国防会議・諮問委員会は大規模な検閲制度の可能性について議論していた[が、ベイカ陸相らは、イギリスの検閲制度が混乱を呼んでいる事実を参照、軍事的検閲は不適切だとする意見書を大統領に提出]
(略)
[検閲と広報の統合のために設立された戦時広報委員会(CPI)は、「健全な世論」の保護を標榜。地方の素人に演説マニュアルを配布]
地域の人々が集う週末の劇場には、ドイツの専制アメリカ民主主義の二者択一を迫り、後者の十字軍を称揚する肉声が飛び交っていた。
(略)
このように、CPIは、話し言葉のネットワークによって、出版メディアの届かぬ約500万人の非識字層にも浸透し、人びとを愛国世論の担い手にしようとした。それは、都市の貧困層を社会化し、草の根のコミュニティを再生しようとした初期の革新主義の関心とどこか重なるものがある。その意味で、CPIがジェーン・アダムズをリクルートしたのは理にかなっていた。中立期の平和運動を牽引したアダムズは、参戦後、戦争政策に対して現実的な対応を見せはじめ、戦時食糧庁主催の食糧保存運動にも協力していた。
(略)
国家か?コミュニティか?という革新主義の争点もまた、戦争のるつぼの中で熱され溶解しつつあった。

徴兵の悪夢

中立期のウィルソンは、義務兵役とその先にある徴兵制に批判的な立場を貫いてきた。それは共和国アメリカの民兵の伝統を大きく変更するのではないか。なによりも民間人を国家が軍事目的で徴用する政策は、プロイセン的とのそしりをまぬがれまい。そうした懸念は、政権の軍事編成の責任者、ベイカー陸軍長官も共有するところだった。もともとクリーブランドの都市改革者であったベイカーは、国家主義的な革新主義者とは一線を画し、その陸相任命は志願兵中心の軍隊を維持すべきと考えるウィルソンの意思告示でもあった。
 しかし、大統領再選後、ウィルソンと急接近していたリップマン等のニューリパブリック系知識人は、徴兵制の導入は欧州遠征に必要な大軍団をつくるうえで避けられないと論じていた。
(略)
[参戦決定閣議後も徴兵制導入を逡巡するウィルソン]
実は、徴兵制はアメリカ史の中で一度だけ前例がある。それは南北戦争末期に、北軍が限定的に実施したもので、徴兵は全兵力の6%に満たなかったが、その政策は猛烈な反発を受けた。ニューヨークでは1863年に凄惨な反国家、反徴兵の暴動に発展し、政府の係官約100名が殺害された。ウィルソンやベイカーらは、南北戦争後の再建期に少年時代を過ごした政治家である。彼らは世代の記憶として、かつての徴兵がもたらした危機の知識を共有していた。今回も同様の事件が起これば、「被治者の合意」の戦争は全く破綻しよう。彼らはそれを恐れた。

  • ざっと、飛ばして第四章

リンチと人種暴動

黒人の忠誠心に対する国家の疑念は、ヒューストンの正規軍反乱以降さらに強くなった。(略)
[ヒューストン事件被告の黒人兵士13名が予告なく処刑]
各地の黒人コミュニティには静かな怒りが広がっていく。
(略)
[黒人指導者らを内務省に召集し意見交換、共同声明をだす]
1.公共交通機関での人種隔離の禁止、2.看護師や医師など黒人の専門職の受け入れ、3.リンチの撲滅。そして、以上の対策は「我が市民の八分の一(すなわち黒人)が持つ当然の不安を和らげ、偉大なる正義の戦争に心から献身できるようにするためだ」と説明された。
(略)
イカ陸相参謀本部は、同会議の議論を通して、何にもまして黒人への暴力が彼らの士気を低落させているとの認識を得た。(略)
[1918年だけで64件96名がリンチの犠牲になり、殺害前の拷問というケースも増加。ベイカーは反リンチ法立法に消極的だったウィルソンに反リンチ声明を進言]
反リンチ声明は、どの部分にも人種差別に直接言及した箇所がない。非難されているのは、あくまで一般的な「群衆暴力」であり自警主義である。したがって、翌日の『ニューヨークタイムズ』の報道などは、大統領声明を四月に起こったドイツ系住民虐殺事件に対応したものと位置づけていた。また、そもそも、黒人に対するリンチを含めて、第一次大戦下に頻発した自警的暴力は、ある意味で、草の根的な参加とコミュニティの動員を煽りたてた結果でもあった。実際、ウィルソンの政府は、その後もなかなか、民間暴力に依存する体質を改めることができず、18年9月の第四次徴兵登録でも、任意団体のアメリカ国防連盟が司法省調査局と合同で「徴兵逃れ狩り」を行うことを黙認している。この愛国結社は、法的効力の疑わしい「逮捕権」を濫用し、ニューヨークだけでも六万人の市民を徴兵法違反のかどで拘束したのである。
 結果として、リンチや人種暴動は戦争末期から戦後にかけてむしろ増大する傾向にあった。だが、それにもかかわらず――あるいは、それゆえにか、ウィルソンは、世界民主化の「正戦」を戦うアメリカ自身が人種差別の悪に身をゆだねている現実を認めたがらなかった。

戦争は日本人の非白人性を全国政治の舞台で可視化した

陸軍参謀本部に連なる情報機関は、ハワイ準州の日本人兵士が、従軍を期に帰化を進めたことに不快感を示し、手続きの差し戻しを検討していた。当時の帰化法が定める人権要件に照らして、日本人の帰化資格に疑義があったからである。(略)
1922年、連邦最高裁は日本人の帰化資格を否認する判決を下し、議会は24年の移民法に、日本人の移民を「帰化不能人」という属性と結びつけて禁止する条項を盛り込んだ。戦争直後の軍の対応は、日本人排斥へと向かうその後の展開を暗示していたように見える。