宮崎駿、若手を叱る

ポニョ

長編アニメーションっていうのは、いかに恵まれたチャンスにおいて生涯1本作るものとして始まったかっていうことなんですよね。そこでいろいろ手を抜いて、とりあえず成り立つところでやって、そういうカット割をやるとか、そういう表現の仕方っていうことで、自分たちは何本も作ってきたけど、だんだんその場所にいられなくなって。少しずつアニメーションの初源に戻らなければってやっていくうちにね、とうとうこんなところに来ちゃったっていう。それはやっぱり、その初源が気持ちいいんだっていう。画面を見てて、描いた人間たちの満足感を見てるとやっぱりそうなんですよ。アニメーションの魅力ってこういうものだなって感じがあるんですけど。それはもう実は、今のアニメ好きの人間たちにはないんですよね。それはもっと初源のもので。1930年代のアニメーションの中に、あるいは50年代ぐらいまでチョボチョボとあったんです。それを今、観てると、だんだんこっちの顔がほころんでくるっていうね。ディズニーの短編の中でもそういうのがあるんです。本当にバカバカしい長いカットを観てると、たぶんラッシュの時、それを描いたアニメーターは、周りの奴らに『どうだ、こういうのは』と、鼻高々になってたに違いないっていう(笑)。『この粘りを見ろ!』っていうね。この作品の中では、1カットしかやらなかったけど。でもそういうものは匂ってます。もっとつまらない分業の中に紛れてしまっていたものが初源の中に帰ってくると、なんとなくみんなが上機嫌になる。そういうものを描けない人間は不機嫌に、深刻になる。そういうことでもあるんですけど

借りぐらしのアリエッティ

男を主人公にできたらどんなにいいだろうとは思うんですけど。だけどね、たとえば今回の映画で翔というあの少年を主人公にできるかっていったらね、それはもっと曇った映画になるわけですよ。
(略)
つまり少年の側から小人の少女を見つける映画になったら、アキバ系になっちゃうんですよね(略)
(少年が少女を)覗き見ることになっちゃいますからね。今回の映画は、ふたりがどういうふうに遭遇するか、最初のコンタクトの時、どういう言葉をお互いが発するかっていうのが大切で。だから、少年を病気にする以外はありえなかったんですよね

「静かなところに行きたい。ひとりになりたいんですよ、僕は(笑)(略)途方に暮れて、豚だの狸だのっていうのを中心に作る時期があるんですよ。でも、やっぱり人間に戻らなきゃいけないからって人間をやってみた。それで、そのあとも続けなきゃいけないっていうんですが、次がないんですよ。(略)ピリオドを打つように『ポニョ』を作ってしまったんです。そしたらその先には本当にないんですよ、別なとこから幹を出さない限り。別に自分が幹を出さなくてもいいけど、でも持ちこたえなきゃいけないという状況がある。人も養成しなきゃいけない。だから、仕切り直しですよね。そしたら、今度は後継者の養成に失敗したとか、時代とそぐわなくなったとか、いろんなことを書かれるわけですよ。でも、そんなことはどうでもいい
(略)
少年が主人公の物語は、実に惨憺たる話としてできあがってます。わかるでしょ、それ? 実際そうなんだから。そこから目を逸らすと、(主人公が)派遣社員かなんかになってしまうっていう(略)
そして最後はプータローになるっていうね。そういうように、この社会はコンクリートされちゃったんだ。自分らしく生きるっていうのはね、貧困へ繋がるルートとして、すっかりできあがってますよ」

コクリコ坂から

ナウシカ』やってる頃は、通奏低音として不安というものがあるはずだと思ってたけど、主旋律でね、みんなが不安だ不安だって言ってると滑稽なんですよ。だったら、それだけの努力してみろって。『おまえ、絵描いてんならちゃんと絵描いてみろ!他のもん全部捨てろ?修行しろ!』と(笑)。そういうこともしないで何が不安だ。ちゃんちゃらおかしい、っていうのがじじいの率直な感想ですね」
(略)
 「いや、宮沢賢治の詩をたまたま読んでて、そこにあった生徒会の歌なんかを、ぱくるっていうかまあ、それに乗っかったんですけど。実にいい詩なんですよ。少年たちが背筋を伸ばしているんです。少年は背筋伸ばさなきゃいけないんですよ、どうせダメなんだから(笑)。どうせダメって変な言い方だけど、それがオスの運命だからね。だけど、初めからウロウロしているのを見ていると、もうダメだなって。なんか用のないオス蜂がいっぱい巣の周りうろついてるようなもんです。
(略)
意気地なしですよね。みんな善良で、やさしい連中なんだけど、なんだろう、どうしてこんなに意気地なしなんだろうと。そういうオス蜂をいっぱい育てた巣箱だったんですね、この日本の社会は。(略)
そう思うしかないじゃないですか!もっと凶暴なオスを抱えてる社会がいっぱいあるんだから、世界に。

[『風立ちぬ』の大群衆シーンの打ち合わせでクラクラしてる若手に]
僕は『描きゃいいんだ!』って冷たく言ってます。そのためにおまえがいるんだって。女の子がこっち振り向いたとか、そんな絵を描くためだけにアニメーターになったんじゃないんだから。30人も新人入れたのは、こき使うため。最初にうんとしんどい思いしたほうがいいんだと、僕は言いはなっています、けっこう。それについてはなんのためらいもないですね。今ね、日本では、これやって良かったみたいに、アニメーションを幸せに作れるような時代じゃないんですよ。

『トトロ』は美術的なピーク

あれがピークだったんです。美術的なピーク。(略)
でも、そうなるとそのあとに続く絵は、マニエリスムになるんですよ(略)
描き込む方向もありますけど、結局つまらなくなっていくんですよ(略)
ようやく力尽きて、遂に、職場にそのマニエリスムの影響すら何も残ってないという
(略)
[スタッフの]描いてる絵を見ると、なんてこんなに下手くそになったんだろうって思うんですね。なぜと言ったら、理想がないからですよ。自分がこういう世界がいいなと思う気分がどっかなくなってるんですよ。どうせこんなもんだっていう感じなんてすね。(略)
一方では、パソコンで背景を描くのが普通になっていて。でもそうすると、影の中の色をどういうふうにするかというと、絞るだけなんですよ、暗く。コントラストを強くすればね、なんとなく絵らしく見える。明るいとこは飛ばせばいい。それで、絵の具を使って影の中にどうやって色をつけるかとか、一見黒く見えるけれど、その中にいろんな複雑な色があるってことを見抜いていくとか、そういう観察を積み上げてきた絵の技法とかについて、全部無知になってきちゃって。ただ絞るだけ、暗くするだけなんですね。
(略)
ロケハンに行くとすぐ写真撮ってくる。写真横に置いて描く。写真にも色があるからそのとおりに描く。だから『バカっ!写真機持ってくんな!』って
(略)
[「風立ちぬ」は]日本の風土を描かなきゃいけないんですから。どういう角度で日本の風土を描くのか。ただ緑色をぺたぺた塗ってればできるもんじゃない。古い家はみんな黒いですよ。壁も黒い、屋根瓦も黒い。それを真っ黒に描いたらね、何がなんだか全然わからない。じゃあどこに光線をもたらすんだとか。そういうのはまさに今、具体的に美術がぶつかってる問題ですから、それに寄り添わなきゃいけないんです、僕が。だから『影なんかつけなくていい!』と『ポニョ』の時は言ってましたけど、『今度は影つきで行くぞ!』と思ってるんです(笑)。『とことん入れる!みんなそこで泣け!』と。
(略)
3Dでもなんでもいいから勝手にやってろ!』(略)『俺たちは平面に戻る!』と(笑)。セルブックを復活する。描きながら、どういう空間を作るかって描き手がわかるようにして。
(略)
デジタルに侵されてるんですよね。自分の見たものではなくて、とにかくビデオカメラか、携帯か、なんかで撮った画像で世界を見てる。だから、初めからパース線が決まってて。不動産屋の広告みたいに、みんな広角になってる。そこに平面の下手くそな絵のっけるから、妙な画面ができる」

出発点―1979~1996

出発点―1979~1996

  • 作者:駿, 宮崎
  • 発売日: 1996/08/01
  • メディア: 単行本

『コナン』がつまらないと言われたら、もうアニメーションやめようと思ってた

『出発点』に収録された83年と84年のインタビューも再収録されている。
やっぱりなんかこの頃は元気ですね。

『コナン』を始める時に、これがつまらないと言われたら、もうアニメーションやめようと思ってたんです。でも、自分の息子たちが熱烈なファンになってくれた。親父がやってるから観るっていう連中じゃないから、心細いものを頼りにしてるけど……

最近のメカもの観てると、少年と青年の間みたいな主人公が、隊長とか博士とかに何か言われると、『わかったよ!』とか小生意気な口きくでしょ、第二次反抗期の息子みたいなね。ああいうの見ると、張り倒したくなるんだよね、ヤなガキだなと思って。ああいうのがヒーローってのは、どうしても僕には納得できないことなんですよ

 僕は、マンガ映画というのは、観終わった時に解放された気分になってね、作品に出てくる人間たちも解放されて終わるべきだという気持ちがある。出てくる人間たちが無邪気になったというのが、僕は好きなんですよ。
 今のテレビアニメが、僕の見た範囲でですけれど、腹立ってくるのは、浄化作用が何もない。それは耐えられない。人間を尊重してないことだと思うんです。人間が変わっていくというのはどういうことなのかというと、その人間が変わりたがっていたから変わるのだということしか言えなくて。変わりようもない人間が変わっていくのは恐ろしくて取り組めないですよ。
(略)
僕は、『ルパン』の峰不二子みたいなみだらな女は好きじゃないんです。だけど、その女にどこかかわいげなところが見つかった時に、初めてその女を発見するということになるんでしょうね。そのかわいげなところをどこに見出すかですね。嫌な女だなあと思ってて、でもどこかかわいげなところが見つかった時に、その女に惚れたりするわけですよ。それが浄化なんです。

84年のインタビューでは「『風のフジ丸』は原画手伝い」「『レインボー戦隊ロビン』で(略)変なロケットを出してひとり喜んでいたけど、今観たら観るにたえないようなものですよ」みたいな感じで細かく自分の関わった作品について語っていて面白い。

『ハイジ』終わった時に『この次は動物ものでも気楽にやりたいね』とか『お皿がどうのとか食事の作法がどうのとか、そんなことにつっこむのはもうやめよう』って話していたんですけどね。結局、その路線が定着しちゃって、次が『フランダースの犬』でしょ――これも視聴率的には成功したんですが、僕はゴミみたいな作品だと思うんですけどね。で、次の『三千里』が来ちゃったんですよ。僕らはもうテーマがないんですよ。しょうがないから異国の風俗、イタリアとかアルゼンチンの、遅れた産業革命の、その激動する時代の雰囲気を、たとえば僕だったら画面構成だから、場面設定とかにそういうのを出せないかとか、そういうのにテーマを見出すよりほかなかったから。もうひたすら、つらいだけの仕事になっちゃった。パクさんは自分の作った路線なんですね、やっぱり。非常に体質に合うところがあるんじゃないですか

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