「無罪」を見抜く 裁判官・木谷明の生き方

「無罪」を見抜く――裁判官・木谷明の生き方

「無罪」を見抜く――裁判官・木谷明の生き方

  • 作者:木谷 明
  • 発売日: 2013/11/28
  • メディア: 単行本

うーん、こっちの周防監督との対談(→kingfish.hatenablog.com)の方が面白かったような。
前半の生い立ちで木谷實の次男と知ってびっくり。

木谷實の息子

兄が明に追い越されそうになって碁をやめ、今度は明が妹の礼子に追いつかれ

私も小学校が終わる頃には危ない状況になってきて、「とてもじゃないけど、このまま打っていてもろくなことはない」ということで、幼いながら判断しているんです。父に、やはり中学にいく段階で「止めさせてくれ」と言ったら、父の言葉が兄に対する言葉と違うんですよ。私には、「お前の碁は、ちょっと面白いところがあるんだからやってみないか」と言った、と私は記憶しています。後年、兄に話をすると、「俺には何も言ってくれなかった」と言われました。私は、その言葉だけは妙に覚えています。

加藤正夫

人数が増えてからは、お弟子さんと小さい子どもは広い板の間で食べるようになりました。大体、一緒に「いただきます」と言って食べはじめます。食べ終わると、自分の食器は自分で流しに持って行って、洗うまでやるんです。けれども、共同の物は一番最後に食べた人の責任なんです。何度やっても素早い子はパッと食べてしまう。のんびりした子は最後まで食べている。加藤正夫が一番おっとりしていまして、共同の食器は大体、彼の責任でしたね。「金メダル」と称していましたが、「金メダルは加藤君」と決まっていました(笑)。

小学三年生の大竹英雄が先輩の筒井勝美に打ち込まれて星目まで行って

「これで負けたら、国へ帰すぞ」なんて筒井さんに言われて、もう泣きべそをかきながら打っていました。確か、星目まで行っても負けたんじゃないかな。

四畳半襖の下張事件

実際の本を読んでみると、これをわいせつ物として処罰しなければならないとは思えませんでした。
 まず、擬古文という点です。知的レベルの低い人には読めませんよ(笑)。意味が分からない。それでも想像しながら読むでしょうけどね。現在の時点で、わいせつということを考えると、文字に書かれたものは全然問題にすらされていないでしょう。当時だって、それに近かった。
(略)
「チャタレイ」だって、きわどい部分は本当に部分的でしょう。だから、「四畳半」の判断方法を適用すれば、わいせつにはおそらく当たりません。問題になる部分の全体的な分量がごく一部で少なく、全体的に好色的な興味に訴えているとは見えないですから。そういう意味では、あのような判断方法という形で、事実上、判例変更しているのと同じですよ。
(略)
「サド」は、もともと読んだからといって、そんなに性的な欲求を著しく刺激されるようなものではないでしょう。グロテスクな感じ。そういうふうに言われています。記録に現れた限りで部分的に見ただけでも、そんな感じがします。だから、ちょっとおかしいのではないですか。

死刑反対

最大の論拠は、団藤先生と同じで、間違った時に取り返しがつかないということです。(略)
そもそも、死刑と無期刑とを区別する絶対的な基準を見つけることは不可能ではないか。裁判官・裁判長も、死刑を言い渡す時には大いに悩むと思いますが、結局被告人は、当たった裁判官・裁判員の考えや世論の動向等によって死刑になったりならなかったりする。それでいいのでしょうか。また、日頃死刑囚を実際に世話する刑務官は、そのことを通じ死刑囚と心の通い合いができるようですが、そういう刑務官がある日突然、自分が世話してきた人間を殺せと命じられる。そういう時の刑務官の気持ちを考えてみてください。この21世紀の文明国日本で、なぜそんな非人道的で野蛮なことまでしなければならないのでしょうか。
 刑罰の目的というのは、応報と、最終的には、その人を更生させて元の社会に戻す、それで一緒にやっていく、というためにあるのではないか。そうすると、死刑の場合は、後の方の目的を完全に捨ててしまって、応報だけでやってしまうということになる。

裁判官を三分類

一つは「迷信型」です。つまり、捜査官はウソをつかない、被告人はウソをつく、と。頭からそういう考えに凝り固まっていて、そう思いこんでいる人です。何か被告人が弁解をすると、「またあんなウソついて」というふうに、最初から問題にしないタイプです。私は、これが三割ぐらいいるのではないか、と思います。二つめはその対極で「熟慮断行型」です。被告人のためによくよく考えて、そして最後は「疑わしきは」の原則に忠実に自分の考えでやる、という人です。これが多めに見積もって一割いるかいないか。その中間の六割強は「優柔不断・右顧左眄型」です。この人たちは、真面目にやろうという気がない訳ではない。三割の頑固な人たちとは違うので、場合によっては、「やろう」という気持ちはあるのだけど、「本当にこれでやっていいのかな」とか迷ってしまうのです。私だって迷いますよ。迷いますけど、最後は決断します。でも、この六割の人は、「こんな事件でこういう判決をしたら物笑いになるのではないか」「警察・検察官から、ひどいことを言われるのではないか」「上級審の評判が悪くなるのではないか」などと気にして、右顧左眄しているうちに、優柔不断だから決断できなくなって検事のいう通りにしてしまう。

調布駅南口事件

調布駅南口前で喧嘩があって、その後、暴走族の少年たちが捕まったのですけど、その状況をすぐ傍で見ていたタクシーの運転手がいました。警察は、その人を取り調べて少年たちを示したのですが、運転手は「全然違う人だ」と言いました。「この人かどうかわからない」というのではないんですよ。「この人ではない」とはっきり言っているのに、警察は、そういう調書を作っていませんでした。警察官を証人尋問した結果、そういう事実が明らかになりました。警察は、そういう調書を作成しないまま、それ以外の証拠を裁判官に提出して不当に保護処分決定(少年院送致決定)を得ていたのです。
(略)
 もともとの高裁決定後に警察から出された証拠は、差戻し後の捜査で警察が無理やり作り出した証拠なのです。「この人ではない」と言っていたタクシー運転手を連日呼び出して、被疑者なみに一日中調べる。そういう調べを何日もやられて、タクシー運転手は仕事にならなくなり音を上げてしまったのですよ。それで運転手は、仕方がないから捜査官に迎合して、「違うと言ったのは自信のあることではない」と捜査官の筋書きに合う供述をしたのです。そうでないと、許してもらえない。さらに何日も取り調べられたら、商売は「上がったり」になってしまう。この運転手は、家裁の再度の審判で、もう一度「この人は私が見た人ではありません」と言ったけど、信用してもらえない訳ですよ。家裁の裁判官は運転手が捜査官のところで述べたことを重視したのです。この裁判官は、さっき言った迷信型の最たるものです。裁判所には、そういう人がいっぱいいるのです。

少年事件

被害者の問題は別としても、ちょっと厳罰化の方向へ行きすぎている気がします。(略)戦後の司法制度の中で、家裁は少年の更生に大きな役割を果たしてきている、と思っています。(略)
 自分で少年事件をやってみると分かるのですが、少年は、本当に短期間内に劇的に変化します。「可塑性」とよく言いますでしょ。それは言葉の上では知っていたのですけど、実際に自分で事件をやってみると、本当にびっくりするくらい変わります。もう、本当にふてくされていた少年が、審理を何回かしているうちに、短期間内に劇的に変わるのを何人も経験しました。ここでも私は、「本人の言い分は徹底的に聞く。疑問があれば何でも調べてやるよ」という方針でやっていました。そうしてやっていますと、何回かやっているうちに、少年の態度がどんどん変わってくるのです。最初は本当に反抗的だった少年が、最後はこっちに懐いてくるような態度になってきました。こういう経験をして、私は、少年事件は上手くやれば、裁判官と調査官がしっかりしていればの意味ですが、少年の更生にすごく役立つ良い制度だと思いました。

人事

「裁判官第一カード」というのがあるのですね。「第二カード」というのがあるのは私も知っていました。我々裁判官は、そのカードに自分の希望やなんかを書いて出します。それに対して、所長や長官が意見を付けるのです。「この人はもっと良いところへ置いてくれ」とか、「この人は全然ダメだ」とか書いてある。ある判事は、任官した最初のうちは結構良いコースを歩いていたのですけど、途中からバタッとダメになってしまった。だけど、実際につき合ってみると、能力はあるし、そんなにずっと現在のポスト(家裁判事)にばかり居る人ではないと思ったのです。おかしいなと思って、その人の前のカードをずっと見てみました。そうすると、ある地方にいる時に、高裁長官に滅茶苦茶に書かれている。「狷介な性格で」とか書いてありました。しかも、それが後に最高裁判事になったような有力な長官でした。一人がそういうことを書くと、後から皆同じように悪い評価をするのです。(略)それから後、評価も任地もガクンと悪くなっている。かなり僻地に飛ばされていました。

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