町村合併から生まれた日本近代・その2

前日のつづき。

堤防、橋梁はひとつの「地方」が利害を共有している

[内務省松田道之は]元老院での審議の際、たとえばある郡の堤防や橋梁の建設は、別の郡の利害には関係ないのではないか、という批判を想定しながら、つぎのように説明している。これはまったく地方税の性質を理解していない者の言うことである。この堤防、あの堤防と区別すべきものではないのだ。その堤防、その橋梁はひとつの「地方」が利害を共有しているものである。国の費用として支出されるものの原資には、九州から徴収された税も東北から徴収されたものもあるのと同様である。つまり、松田は、租税というものは受益と負担の関係を一対一に対応させられないところにその本質があるのだと言うのである。
 これは、近世の組合村から「大区小区制」へとつづいてきた財政構造の大きな変化である。第一章で見たとおり、近世の組合村は、用水なら用水、堤防工事なら堤防工事、対領主関係なら対領主関係、というように目的別に編成され、直接その利害にかかわる村々だけがその目的別の組合に参加する、という構造を特っていた。これに対して地方税によって結びつけられたひとつの府県の住民は、直接に利害を共有していない事業に対しても、負担の義務を負うのである。
 こうした地方税を支える代議組織として府県会が設置され、府県会の議員は選挙によって選ばれる。財政構造における変化と代議制における変化は対応している。
(略)
府県会が審議できたのは予算案のみであり、今日の条例のような、府県ごとの規則を審議し、議決する権限は持っていなかった。政府が府県会に大きな権限を持たせなかったのは、政府に反対する自由民権運動の活動の場となることを恐れたからである。そしてその恐れは現実のものとなり、各地の府県会で、予算案をめぐる地方官と府県会の対立があいついだ。政府はこれに対して毎年のように府県会規則を政正し、最初からかぎられていた府県会の権限にさらに制限を加え、そのうえ、全国の府県会議員どうしが連絡を取り合って政治運動をおこなうことを禁止した。
(略)
 しかし、数多くの紛議が起きたにもかかわらず、政府はついに府県会を廃止することはしなかった。このことは、すでに当時の社会が、住民の同意を得ないで地方官が統治をなしうる段階にはなかったことを示している。
(略)
[土木、衛生、教育といった]公共サービスのための費用を徴収するためには、前章で見たとおり、近世や「大区小区制」期のような、個別の村から同意を取り付けるというやり方では不可能であり、府県全体の住民一般を直接に代表する府県会が必要だったのだ。

なぜ住民は一町村に一戸長の体制を望んだか

[巡察使渡辺清の報告]
住民たちは、有能な人物を戸長に選挙してしまうと、その戸長に自分たちの怠慢を責められてしまうことになるので、むしろ自分たちの言うことを聞く人物を選挙して、税金の納入の立て替えをさせたり、法令の遵守をしなくてもよいようになっている。これが現在の戸長役場で広く見られる弊害である。ここでは、住民に対して法令の施行を徹底できなかったり、住民から納税の立て替えを強いられたりするという戸長の立場の弱さが指摘されている。(略)
[安場保和の報告]
各地で戸長たちはその職務につくことを嫌がっており、当選しても辞退する者が多い。辞退しない者でも住民に対する「徳義」からやむなく職についている者か、戸長に就任するのに不適当な人物かである者が大半である。
(略)
[戸長が官と民との板挟みなることの対応策として]
第一に戸長役場管轄区域を拡大して戸長の数を減らし、戸長の待遇を改善する、第二に戸長を官選にすることによって、有能な人物を戸長に採用する、というのである。
 巡察使たちが、戸長が租税を立て替えている、という指摘をしている点に注意しておこう(略)
住民たちが連合戸長制ではなく一町村一戸長制への志向を強く持つのは、自分の村に戸長がいれば、このような村請制的な機能によって自分たちの生活を戸長が守ってくれる、という感覚から来ているのである。
 しかし、実際には、村請制はこの時期すでに解体されている。地租改正によって、租税は個人を単位に納入するという仕組みができあがっているのである。(略)
戸長が租税の減免を政府ないし県庁に歎願するという道ももはや閉ざされている。税金が払えない村人がいたならば、現在と同様に、不納者の財産を差し押さえ、競売にかけて、処理すればいいだけの話である。戸長は、公式に認められていない租税納入の立て替えを住民たちから強いられる。これでは戸長はたまったものではない。戸長の引き受け手は当然いなくなる。
 府県庁はこうした事態を解決するために、町村連合による戸長役場の設置を推進し、住民と戸長の切り離しをはかろうとするわけであるが、それが住民の一町村一戸長を求める動向とせめぎあう。それが三新法体制下の町村と戸長の状態だったのである。
(略)
[報告を受け政府は、明治17年、戸長役場制度を全面改正。1.戸長を県庁任命の官選に。2.連合戸長役場制に。3.町村費の費目指定]
地方税規則が府県財政についておこなったのと同様の費目の仕分けが、町村財政についてもおこなわれたということである。そして、町村費に関して、国税地方税と同様に、不納者に対して、差し押さえ、競売をおこなうことができるようになった。
 こうして、戸長の数は大きく減らされ、一戸長が複数町村を管轄することが原則化されたのである。戸長は町村から切り離され、住民の個別利害から切り離された存在となった。

「美風」を冷笑した内務官僚

元老院の議官たちのなかには、この改革が、これまで培われてきた日本の町村の美しい習慣を破壊するものであると考える者も少なくなかった。その一人、楠本正隆はつぎのように言う。これまでひとつの町村の富裕な者がお金を出したり、「徳義」をわきまえた者が自ら進んで同じ町村のためにお金を出したりして、協議費の不足を補ってきた、そのような「美風」、美しい習慣は、この改革によってまったく破壊されてしまうであろう、と。(略)
[これを内務官僚・白根専一はセンチメンタルだと冷笑]
 近世の村は、人びとがお互いを思いやり助け合うユートピアだったわけではない。それは、身分制・村請制という社会の編成のあり方によって生まれた、人間の組織のひとつであるに過ぎない。そのなかで人びとは時としてやむなく助け合いをしたり、豊かな者が貧しい者を救ったりすることがあった。しかし、すでに同心円状の、切実性を持たない空虚な地理的空間が世界を覆いつくそうとしているときに、そうした「美風」を、人間にとって本来的なものであるかのように理想化するのは、むしろ問題をこじれさせてしまうだけではないか。

再分配と市場メカニズム

[明治12年大蔵卿大隈重信は備荒貯蓄政策再導入を主張。三新法制定により]
新たに開設された府県会を関与させるならば、直轄府県期に起きたような失敗は起きないであろう、と述べている。つまり、府県の施策が人びとの反発を受けたり、あるいは県が勝手に運用して失敗したりするようなことは起きないだろうということである。府県会を通じ、住民の代表の参加を得ておこなわれる府県の行政は、それ以前の府県のように偶然で無意味な空間ではないのだ、と大隈は考えたのである。(略)
[反対を押し切り、明治13年「備荒儲蓄法」公布。政府は米穀購入を指示したが、明治20年以降は]
新規の貯蓄はほぼ全額が公債証書の購入に振り向けられるようになる。
 備荒儲蓄法の施行当初には、対立軸は、米穀の購入をするのか、公債証書や定期預金といった金融資産のかたちで保管するのか、という点にあった。(略)
被災者救助のために米穀という現物の形態で準備をしておく必要はない。万一の場合には、朝鮮からでも、中国からでも、アメリカからでも輸入することができる。すべての穀物生産地が同時に凶作に見舞われることはありえず、貨幣さえ貯蓄しておけば購入はいつでも可能であるとする立場である。
(略)
世界を境界なく覆う市場メカニズムが機能していれば、埼玉県という境界を持った単位のなかで、自給自足的に人びとの暮らしが支えられる必要はない。
(略)
 以上の経過から、三新法以降の府県会において、人びとの生活を支えるものとして、譜員たちが市場の存在を重視し、備荒儲蓄法による救済のような、広域的な相互の助け合いを重視していなかったことが明らかになった。この点でも、大隈は楽観的に過ぎたのである。
(略)
ここで明らかになったのは、そもそも備荒貯蓄政策のような再分配志向の政策は、市場という無境界的結合に人びとの生活をゆだねるような仕組みと相性が悪い、ということであった。
 再分配とは、再分配がなされる人びとの範囲に、ある明確な意味がなければ有効に機能しないのである。

地方利益という抑圧

ある道路の受益者を、その道路の沿線住民という特定の住民に限定することは意味がないし不可能だ。県道の費用は、沿道住民という狭い範囲で負担されるべきものではなく、社会が全体として負担すべきものなのだ、というのである。
(略)
[道路建設により]道路の北方の耕地が冠水してしまうという問題があったのである。そのため予定された道路の路線の北側に位置する村々は、道路建設に反対した。
 それにもかかわらず、明治22年、最終的に道路は建設された。
(略)
推進派の議員たちは、道路の建設は「県下一般」の利益のためになされるべきもので、多少の苦情は無視してもよいのだ、と主張し、勝利を収めた。
(略)
連合戸長たちは、反対する村の個別の利害に立って行動するのではなく、社会全体の利益の立場から、道路建設に賛成の立場をとった。
 つまり、反対派の主張は、社会全体の立場からは無視しうる個別の利害の主張として切り捨てられたのである。それを可能にしたのは、府県と連合戸長役場管轄区域という、切実な意味を持たない空虚な空間での意思の決定であった。切実な利害を共有する単位の集積として社会がモザイク状に構成されているならば、こうした道路の建設は不可能であったであろう。
 「地方利益」の誘導による政治とは、一見すると、個々の人間にとってむき出しの欲望にもとづく政治のように見える。しかし、それはそうしたものではまったくない。そこでとりあげられる「利益」とは、個々の人間の生身の欲求を、「全体」の名の下に抑圧することによってはじめて成立するような「利益」である。そして、そうした抑圧を可能にする「全体」とは、はっきりとした境界を持たぬ「市場」という社会関係にほかならない。