町村合併から生まれた日本近代

チラ見。途中からちゃんと読めばよかったと思ったけど時間なし。
その割りに引用は長め。

町村合併から生まれた日本近代 明治の経験 (講談社選書メチエ)

町村合併から生まれた日本近代 明治の経験 (講談社選書メチエ)

サラ金とはちがう「村融通制」

個別の百姓が個別の事情で年貢納入不能に陥った場合は、その百姓は村内の富裕者、とくに名主・庄屋などの村役人から質入れ等の手段によって借り入れをおこなって年貢を納入するか、または村役人が年貢を立て替えて納入することになる。
 年貢立て替えはいわば村役人という村の代表者による個別経営の救済であり、村による個別経営保護のもっとも顕著なケースである。
(略)
[当麻弥左衛門のケース。天保の大飢饉で農民が質入したことで所持地が拡大したが、それを踏み台にして拡大はせず、1868年に1834年の水準の石高に戻している]
これは飢饉期に土地を質入れした層が、その後の経営回復にしたがって弥左衛門家から土地を請け戻し、それぞれ経営を再建していった過程を示している。(略)
弥左衛門は、元の所有者に土地を戻す際、この小作期間中に滞納していた小作料を棒引きにする措置さえおこなっているのである。また、この嘉永から明治にかけての時期は、安政の開港の影響でインフレーションが進行していたことも念頭に置かなくてはならない。つまり、天保期に借りた額をそのまま弥左衛門に返済して土地を請け戻すというのは、請戻し時の物価水準から見れば弥左衛門側の損失となるのである。それでもこうした措置が採られていたということは、弥左衛門家の天保期の土地集積は、飢饉による困窮につけこんで土地を集積するといったものではなく、困窮した経営を救済するための融資であるといった側面が強かったことを示しているだろう。
 村によっては、村が主体となって、村の余剰を組織的にこのような救済的金融のために貯蓄しておく場合もあった。こうした村役人や村が主体となる金融のあり方を、近世農村金融史の研究者である大塚英二氏は、「村融通制」と呼び、利潤追求を目的とする「高利貸金融」と区別している。
(略)
[村役人の負担が重くなり村役人が没落する場合もあったため]
こうした村請制・村融通制のもとでの村役人の重い負担は、やがて明治以降、それにかわる新しいシステムを作る大きな動機となっていく。

助け合いの範囲を広げる難しさ

 品川県が考えたのは、備荒貯蓄を広域化することと、それを運用することの二つである。
 品川県は、まず近世の備荒貯蓄を一且すべて廃止(略)[経済状態に応じて三等級に分け]貯蓄するための米を徴収した。実際の徴収は米の現物ではなく、代金でおこなわれた。そして、集められた代金で県が一括して米を購入し[村ごとではなく県の倉庫で一元管理することに](略)
 この制度においては、財産の多寡に応じて社倉金を負担することとされており、負担とその分配を通じて、富める者が貧しい者を援助するというシステムになっている。[小さい村の中ではなく県全体内での分配により](略)負担は平均化するわけだから、富める者の不満は小さい。
 しかし、このように県内一律の備荒貯蓄制度というのは、近世の備荒貯蓄制度の慣習と衝突する。(略)[武蔵野新田地帯は]開拓地なので生産力が低く、近世を通じて幕府から特別な補助を受けており、したがって、備荒貯蓄政策の適用除外地域であった。ところが、品川県はこの地域にも一律に社倉制度を導入したため[農民が訴願行進し大量の逮捕者を出した。品川県社倉騒動](略)
[もうひとつの問題は社倉金の運用。肥料の糠で儲けようとしたが]
この社倉金運用事業は、一万円以上の赤字を出し、惨憺たる失敗に終わった。赤字の原因は、天候悪化によって尾張からの輸送が遅れ、東京に到着したときには糠の相揚が下落しており、大きな損失を出したことにあった。資金の運用によって人びとの暮らしを支えようとする方策は、市場の変動という大きなリスクを背負うことになってしまうのである。
 このように失敗に終わった品川県の社倉政策であるが、その失敗は重要な論点を指し示している。
 ひとつは、人びとがお互いを助け合う範囲を広域化することのむずかしさである。品川県は県が管轄する地域をひとつの単位として社倉政策を実施したが、品川県が管轄する地域とは、江戸周辺の旧幕府領を直轄県に編成していく過程で生まれた偶然の産物である。そしてそれは第二章で見たようにモザイク状に存在し、また他の県とのあいだで管轄地が交換されるような不安定な領域である。そのような偶然で無意味な単位に、助け合いというような切実な機能を持たせることには無理があったのである。
 もうひとつは、品川県が、人びとのくらしを支え、安定させるものとして、市場の機能に注目したことである。(略)権力の役割とは、そうした市場の機能をうまく働かせることにあるのではないか。しかし、品川県の失敗は、県という偶然で無意味な単位が、直接にプレイヤーとして市場に参加したことによって生じた。

新しい産業

 近世の村役人の後身である「大区小区制」期の区戸長が直面していた状況とはこのようなものであった。すなわち、村単位に閉じた再生産維持の仕組みが、村内の富裕者や区戸長にとって大きな負担となっていながら、再分配の単位の広域化や、市場に依拠した富の運用によっては問題が打開できないような状況である。(略)
 区戸長たちがこうした状況を打開しようとするならば、結局のところ彼らはこうしたモザイク状の世界そのものの変革に向かわざるをえない。明治の初期に、各地の区戸長たちが、さまざまな「改革」に積極的に取り組んだ理由はここにあった。
(略)
そのひとつは、地域に新しい産業を興すという選択肢(略)
[熊谷県星野長太郎は祖父・父の困窮者救済により家計が悪化したので製糸業に着目、県に貸付を出願]
熊谷県は、星野の製糸事業は、ただ一個人の利益にとどまらない、と主張して、公的資金の投入を正当化している。(略)
 ここからは、国家全体の富を増加させ、日本の産業化をめざすという政府の政策と、困窮者をつねに救いつづけるという義務を負うことから逃れたいという富裕層・村役人の志向が、共振していることが読み取れるだろう。そしてそのために政府・県庁が選んだ手段は、個別の経営に公的資金を投入する、という政策であった。市場に向けた商品生産が社会全体の富を増す、という先に見た品川県の政策と同一の論理である。(略)
[だが星野の経営はうまくいかず追加融資を受けている]
県庁も、一度貸し付けてしまうと、経営が悪化してもなかなか見捨てられず、ずるずると追加貸し付けをせざるをえなかったのである。
(略)
[もうひとつは教育政策]
統治者たちは、困窮者が主体性を欠き、県や富裕者の救助に頼り切ってしまうような状況を見出していた(念のため付け加えれば、これが実際に困窮者の主体的な努力によって解決できる問題なのかどうかは大いに疑問であるが)。教育に期待された役割とは、そうした人びとが、政治的にも経済的にも主体性を獲得し、政府・府県や富裕者に依存せず生計を立ててゆけるようになること、そしてそれによって社会全体が富裕と安定を獲得することだったと言えるだろう。ここでも、政府と富裕者・村役人の政策志向は一致することになる。

井上毅の構想

[井上毅は明治9〜10年にかけ独自の地方制度構想を展開]
 結論からいえば井上は地方制度の改革そのものに積極的ではなかった。(略)しかし、その消極策の理由はなかなかに込み入っている。
 たとえば、民費負担の問題について井上はつぎのように述べる。そもそも民費とは、住民の利益、住民の欲求に由来するもので、一地方の代議機関での話し合いを経て住民みずからがそれを負担するはずのものである。しかし、現状では、住民は、自分たち自身の利益が何であるかということも理解しておらず、単なる負担としかとらえていない。そうした現象が発生するのには政府の側の責任でもある。本来であれば国庫が負担すべきものを民費に押しつけているからである。
(略)
 重要なのは、井上が、「本来あるべき民費」と「現実の民費」を区別して考えていることだ。井上によれば、本来の民費(地方財政)とは、住民一般の利害に立脚し、住民全体が負担すべきものであり、、当然そこには住民一般の利害を体現するものとして府県会が必要とされる。しかし、現実の住民は、自分たちにとっての「公益」が何であるかを理解していないから、実際にそれを実現することは不可能である。よって、せめて官の側だけで、民費の費目から官費(国庫)支出相当のものを取り除き、かつ民費を削減することを井上は主張した。地方制度の改革をおこなうならば府県会を設置しなくてはならない、しかし府県会の設置は不可能である、ゆえに地方制度の改革はおこなえない。井上はこうした背理法的論理を展開したのである。
(略)
[明治10年内務省は「民費賦課規則」案を作成、従来の民費から国家支弁がふさわしいものを分離]
つまり、井上の提起した「あるべき民費像」をそのまま実現させようとしたのである。井上毅背理法の前半だけが独り歩きをはじめてしまったのだ。
(略)
[これに対し井上は]地方制度の大規模な変更は避け、内務卿から地方官への論達のかたちで、民費費目や賦課法のガイドラインを示すにとどめるべきだというものであった。依然として井上は制度改変自体に消極的なのである。
(略)
 こうした経過からわかるように、「地方三新法」は、内務省を代表する松田道之と、法制局を代表する井上の二つの路線の折衷の産物であった。松田は基本的に、町村を民費賦課の単位から排除しながら、それよりも広い空間に、住民の合意によって支えられるあたらしい単位を創出しようとした。一方、井上は、こうした「あるべき地方制度」の像を共有しながらも、根本的な制度改変自体に消極的であった。
 松田と井上の差は、町や村に対する認識の差にあった。松田にとって課題だったのは、これまで「大区小区制」や民費財政がカバーしていた領域、モザイク片である町や村が織りなす秩序の傾城にメスを入れ、それをつくりかえることだった。(略)
 一方、井上にとって町や村は、依然として近世以来の秩序のままで有効に機能する力量をそなえた存往であった。
 明治7年に井上は、ある意見書のなかで、村というものは小さいものであったとしても固有の権利を有しているものであるから、合併・分離をしてはならないものだ、と主張している。また、フランス法に通じた井上は、フランスの農村社会をひとつのモデルと考えていた。(略)各村の村長は、その村で選挙され、たいていは老成した誠実な人物、政府に忠実というよりむしろ村民に忠実である。村長の役場は村の学校を兼ね、役場の書記は学校の教員を兼ねている。村の子供たちは、男も女もその学校に通い、読み書き・計算を習う。村長に村する恩愛の念はあまねく行き渡り、村民たちは、父母に接するのと同じように村長に親しみを持っている……。
 井上のこのフランス農村像はおそらく美化されたものだ。そして、井上はモデルとしてのフランス農村を美化することを通じて、それに比肩しうるものとしての日本の農村社会を美化している。父母のように募われる村役人の下での安定した村落秩序。井上の農村へ向けるまなざしはノスタルジックですらある。(略)
 松田と井上の意見のやりとりの結果できあがったあたらしい制度は、結果として、特に町村の位置づけについて、松田の構想に井上の政策志向を取り込んだような不安定なものとなった。

明日につづく。

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