ライプニッツの迷宮

前日のつづき。
「哲学者たちのワンダーランド 様相の十七世紀」その4。
前回までのおさらい的なとこもありつつ。

哲学者たちのワンダーランド 様相の十七世紀
 

デカルトの切断

ひょっとすると、デカルトによる切断が一番深刻かもしれない。(略)
世界(だと私が思っているもの)と私との結びつきは何の必然性もない(略)もし神が欲するならいつでも結びつきは解かれ、別々に存在しうる。だからこそ、身体や物体世界がどうなっていようと、私が現実に「この私」であることには関係ないと言える。デカルトが「精神」と名づけているのはそういうものである。
 こうして「私」と外にある世界とのあいだに深い亀裂が走り、底なしの深淵が開く。二つが結びついているのはまったく偶然で、ほとんど奇蹟なのである。だからその結びつきのところに位置する身体は生きられる私の身体なのか、ただの自動機械の一種なのか、永遠に曖昧でありつづける。
(略)
ライプニッツはこの裂け目を修復しなければならない。

スピノザの切断

世界はどの時点でも多くの可能性に満ち、現実は可能的なものの広がりとつながりをもっているように見える。ところがスピノザはこの結びつきを見事に切断してしまった。スピノザにとって「可能」とか「偶然」は現実が必然だということを知らないところから生じるわれわれの幻想にすぎない。(略)
どうしてそうならなかったのか。どうしてカエサルは渡ったのか。スピノザの答えは簡単である。そうならなかったのは、それが不可能だったから、つまり、形而上学的に言って、そんな可能性はあのとき微塵たりとも存在していなかったからだ。
(略)
現実はつねにひとつに決まる。各人の決断で決まるのではない。反対に、人間たちの無数の決断が「神あるいは自然」という名のたったひとつの現実のなかで、神の「様態」として必然的に産み出される。それが、現実はつねにひとつに決まるということだとスピノザは考えていた。それ以外に現実は存在しない。
 存在するものは必然だから存在するのであり、存在しないものは不可能だから存在しない。そして現実とは、現実に存在するもののすべて、絶対に無限な「神」である。こうして現実と可能との緩やかなつながりは切断され、必然の無限の深淵が口を開く。

ホッブズの切断

[jusというラテン語は「法」と「権利」が合わさった「正しいこと」という意味があった。ドイツ語のRecht、フランス語のdroitはいずれも「権利」と「法」という意味を持つ。だが英語は「法」はlaw、「権利」はright]


 「この問題について論じる人々はよく“権利”と“法”とを混同しているが、これらは区別されるべきである。“権利”は、行いまたは行わないことの自由に存し、反対に“法”は、それらのうちの一方に決定し拘束するものなのである。したがって、法と権利は、義務と自由のように異なる」


こういう切断のうえにホッブズの哲学は成り立っている。
(略)
いったんこの譲渡が行われると、ひとり無制約の権利を享受する主権者の法のみが正しいことになり、それに反する行いはすべて不正ということになる。
 こんなふうにホッブズはそれまで両義的なひろがりをもっていた「ユスjus」をまっぷたつに切断する。「正しいこと」は何をしてもよい権利と一方的に義務づける法とに分裂し、何にも制限されない至高の主権という奈落の裂け目が現われる。

ライプニッツの迷宮

 ライプニッツの書いたものを読んでいると、デカルトホッブズスピノザといった17世紀のそれまでの哲学とはがらりと風景が変わっている印象を受ける。神は予見しているかだとか、どうして悪が存在しているのか、とか、なぜ何もないのでなくこの世界があるのか、とか、魂の不死性とか、まあ神学論議っぽいごちゃごちゃした話が多い。形而上学のことを「自然神学」と言い換えてもいる。
 近世哲学のパイオニアたちはそういう話を無用にしたはずだった。デカルトは自分は神学には決して立ち入らないと宣言していたし、ホッブズはほとんど無神論唯物論スピノザはあのとおり幾何学的証明で神を構成してしまう。彼らは神と人間のために何かを弁じる必要を感じなかった。理性の光のなかでそうしたごちゃごちゃは一掃されたはずだった。なのにライプニッツの目の前にあるのは、あの二つの迷宮[自由と必然の迷宮、連続体合成の迷宮]、人が踏み迷う迷宮なのである。

無意味の世界

こういう「絶対的必然」であったならいったいどうなるのか。神が存在するのは神が存在するということである。ビルが倒壊するのはビルが倒壊することである。雪が白いのは雪が白いことである。――こんなトートロジーだけで全存在ができているとしたら、何も言っていないのと同然、というか、何か言ってはいるのだがそんなように言うことの意味がまったく見えない。スピノザの必然主義は、あらゆる意味の意味を消失させるのである。
(略)
カエサルが暗殺されるのはカエサルが暗殺されることである。おしまい。これは恐るべき無意味の世界ではないか。
(略)
ライプニッツスピノザ哲学の誤りを指摘しているのではない。スピノザの必然主義は「かくも説明不能な見解」、つまりそれを受け入れてしまったらすべてが終わってしまうような見解だと言っているのである。
 実際、われわれはスピノザの『エチカ』が幾何学的証明を進めながら、それまで人が踏み迷っていた神学論議を根こそぎ偽問題として消滅させていくのを見ることができる。
(略)
なぜもへったくれもない。産出的自然は何の目的も立てはしない。問いは無意味なのである。
 スピノザの必然主義は迷宮に分け入る前に、迷宮そのものを跡形もなく蒸発させる。なぜ?という問いは答えられる前に無意味化される。すべてのものに意味があるという探究の前提そのものがそっくり無化され、無意味の深淵が口を開く。
(略)
 そんなのは解決ではないとライプニッツは思ったに違いない。それゆえ、スピノザの必然主義に抗してすべてをやり直さなければならない。迷宮は破壊するのでなく正しく分け入るべきものなのである。
(略)
「神の善性、人間の自由、悪の起源」。これについてライプニッツは論じなければならない。

ライプニッツ哲学の基本

パースペクティブの創出にある

 必然主義のスピノザに抗する可能主義のライプニッツ。(略)現実には無限の細部がある。そのすべての細部に意味があるなら、そうした意味を与える究極の理由、意味の意味がなければならない。ライプニッツが偉いのは、このことを宗教のありがたい教えとして述べるのではなく、世界の奥行きを形而上学的に創出し、現実そのものがそなえている構造として示そうとしたことだ。その構造、それはパースペクティブ(透視図法)という構造である。

[ユダが]「イエルを裏切る」という述語は無限級数のようにどこまでも無限に伸びてゆく分析の到達不可能な収束点(略)無限遠点にある。
(略)
どの個体概念も分析し始めると、それぞれ別なルートをたどりながら世界という一つの大きな出来事の全系列へと入り込まざるをえない。それが、さっきの引用にあった「無限に先へと伸びてゆく」分析の終わりなきプロセスである。すると世界は、そうした無限に多くの無限に伸びてゆく分析のすべてが限りなく収斂してゆく、ひとつの無限遠点を備えた奥行きとして成立することになる。
(略)
神がそのような無限のパースペクティブの収斂によって一つの可能世界を構成する、ということである。
(略)
それぞれの個体概念は、一つの可能な世界をパースペクティブにおいて構成する神の「視点」なのである。
(略)


 「どの実体も一つの完結した世界のようなもの、神の鏡あるいは全宇宙の鏡のようなものである。いわば、同一の都市もそれを見る人の位置が異なるにつれてさまざまに表象されるように、おのおのの実体はそれなりに全宇宙を表現するのである」

モナド「点から連続体をつくる」

広がりのない原子(?)の寄せ集めで連続体を複合する?(略)どうやって?
 ライプニッツはできると言う。(略)
まず魂に似た形而上学的な点、無数のモナドがあるとする(どこに、と言わないこと)。同じ一つのバーチャルな宇宙をさまざまなパースペクティブから投影する透視図法の視点のようなものと考えればよい。そこには宇宙の全歴史を投影するための情報が、視点のバーチャルな位置情報とともにあらかじめ集約されている。モナドを覗き込めば、その視点から投影される宇宙のいっさいが時間シークエンスにそって読み取れるだろう。そういう無限個のモナドから一斉に投影できるプラネタリウム装置のようなものを考える。プログラムを走らせると、あら不思議、巨大プラネタリウムのスクリーンには無数のパースペクティブからの投影が重なり合って、同じ一つの世界がリアルタイムの3Dで映し出されるではないか。そう、それが空間的にも時間的にも切れ目のない連続体、われわれの宇宙である。
(略)
 モナドが世界の構成要素だというのはそういうことである。
(略)
 けれどもモナドは現象の外にいるのではない。現象のまっただ中にいる。というのも、モナドには現象世界内の自分の視点の位置が情報として書き込まれているからである。だからモナドはまさに世界の中のその位置情報が指定する所にいる、というか、あたかも現象世界のその場所にいるかのようにして実在する、のである。
(略)
 こうして連続体の迷宮は解かれた。連続体は部分を持たないモナドによって現象として複合される。みごとなアイデアである。
 ライプニッツ微分計算の発明者である。分割を無限に繰り返すと極限では点に接近するであろう。モナドはそこにいる。だからどんなに小さな物質部分にも膨大な数の魂のようなものが含まれているとライプニッツは言っていた。そのどれもが、世界内部の一点にいるかのようにすべてがそこへと起ってくるような、そういう視点である。
(略)
ユダがイエスを裏切るという同じ出来事は生ける身体をもったユダの魂に、生ける身体をもったイエスの魂に、そしてその他無限に多くの生けるモナドに、それぞれ連ったパースペクティブと解像度で起こるようになっている。そうやって世界はどこもかもがつながり合い、連続し、切れ目というものがない。ライプニッツは「存在の大いなる連鎖」を復興するのである。

仮定的必然、リエゾン

 起こることはあらかじめ決まっているが必然ではない。なんだか脆弁じみて聞こえるが、ライプニッツはそう言いたい。たとえばユダは必ず裏切るが、必然ではない。神がそういう世界を選んだから裏切るのである。
(略)
モナドは出来上がった映画をただ上映しているのではない。モナド自身の欲求が、決まったストーリーのつながり[リエゾン]をそのつどつけてゆくのである。
(略)
すべての過去が流れ込み、すべての未来へとつながっていくそのリエゾンを、モナドは自身の欲求によって生きる。(略)
カエサルはそのときが来るまで自分が本当にルビコンを渡るか知らないし、ユダはそのときが来るまで本当にイエスを密告するかどうか知らない。

視点なき無限

世界のほうはというと、どこにも中心のない無限のひろがりにすぎない。(略)神のまなざしも魂もなしに、勝手に宇宙は生成する。デカルトはそういうどこから見られているのでもない視点なき光景が「純粋数学の対象」として実在すると考えていた。デカルトの哲学が人を不安にさせるのは、〈何も見ていない眼〉とでもいったものが姿をあらわしているからだと私は思う。
(略)
 スピノザも視点という発想には無縁だった。世界はたった一つしかない。
(略)神=自然はその外が不可能で、それゆえ絶対的に無限であるような実体として証明的に構成されたのだった。外がないので、すべてはそのうちになければならない。(略)神の「無限知性」は全体化する視点を持たない。(略)
スピノザの世界には透視図法がない。地平もなければ視点もない。ドゥルーズふうに言えば、それは付け加わる次元を持たない絶対的な「内在平面」なのである。
(略)
 ホッブズホッブズで、やはりある種の視点なき無限の創出に関わっている。「万人の万人に対する戦争」に突き進む自然状態から国家権力の設立へ。あの契約説のストーリーは、限界が見えないある種の悪無限を、限界を持たない絶対的な無限へと変換する試みだと見ることもできる。
(略)
ホッブズの絶対主権はとこかデカルトの理解不能の全能者に似ている。それはだれもそこから世界を覗くことのできない視点なき無限、人工人格の法なき無限である。ホッブズは「人格」をその原義「ペルソナ=仮面」という意味に解していた。群衆を一個の国家共同体へと全体化するのは、何も見ていない人工の仮面なのである。
こんなように、彼らの哲学は〈視点なき無限〉を出現させる。
(略)
ライプニッツの「モナド」はまさにこれら恐るべき無限を封印する発明だった。視点の中に世界を置き入れて全体化し、二重化すること。そうやって無限を鎮め、ホーリスティックな閉じた無限にすること。ライプニッツの連続律と充足理由律はその原理なのである。

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