世界の底がぬけた世紀の哲学者たち

哲学者たちのワンダーランド 様相の十七世紀
 

世界の底がぬけた17世紀

 17世紀は、いわば世界の底が抜けてしまった時代だ。よく言われるように、科学の勃興とともに世界は地球中心に閉じた宇宙からどこにも中心のない無限宇宙になる。地理的にも大航海とともに西洋の外部が露呈してくる。(略)
自明だった足元の支えがふっと消え、底が抜ける。(略)ある種の「無限」が口を開く。
 たとえばデカルトのテキストには至る所に無限が顔をのぞかせる。宇宙の無限、神の無限。(略)デカルトの考えでは、2足す3が5になる、今の瞬間に次の瞬間が続く、といったことには何の必然性もない。ただ神が意志してそのようにしているからそうなっているというのである。もちろん、神はもし欲するならそうでないようにすることもできた。いや、今この瞬間にも、できないわけではない。デカルトは本気でこんなことを考える。(略)
世界は計り知れない神の意志に支えられてかろうじてこんなふうになっているだけで、いつ底が抜けてもおかしくないではないか。いや、実はもう底は抜けていて、私が気づいていないだけかもしれない。底が抜けてもなお、これだけは動かすことが不可能だと言えるようなものがはたしてこの世に一つでもあるだろうか。デカルトの確実性の探求は、こんなように底なしの無限に飛び込むところから始まる。
 スピノザも同じぐらい過激である。(略)
スピノザでは世界自身が底なしの無限者になってしまう。およそ起こりうることはすべて神の必然から起こり、必然は神の無限の力能そのものである。そうスピノザは考えていた。
 ホッブズの場合は国家論に無限が現われる。(略)われわれはこの法外な無限をどう処理しえているのか、という問いをめぐっている。何をしても不正でないということは、何をされても不正呼ばわりできないということだ。無限の権利は互いに両立しない。そのままだと「万人の万人に対する戦争」は必至である。これを回避する道はただ一つ、自然権を放棄しそっくり主権者に譲り渡す(略)ホッブズの解決は、契約による無限の転位に存する。今度は国家が無制約の自然権を持つことになり、国家はそれ自身のためなら何をしてもよい権利がある。ホッブズの政治世界はこんなように至高の権力のところで底が抜ける。

デカルト

デカルトが求めていたのは数学による思考習慣の改造だった。数学を諸問題に適用するというよりは、数学で自分の思考を改造する。

世界はすべて非現実かもしれない、が、そんなふうに「かもしれない」と考えている私が現実でないことは不可能である。(略)これがデカルトの言いたかったことだった。


 「いま、だれか知らぬが、きわめて有能で、きわめて狡猾な欺き手がいて、策をこらし、いつも私を欺いている。それでも、彼が私を欺くのなら、疑いもなく、私もまた存在するのである。欺くならば、力のかぎり欺くがよい。しかし、私が自らを何ものかであると考えている間は、決して彼は私を何ものでもないようにすることはできないであろう」


このできなさ、不可能は、並大抵の不可能ではない。何をどうにだってできる全能者の手管をもってでさえ不可能、なのである。くどいが、不可能なのは、私を現実でないようにすることだ。
 こう見てくると、デカルト・プロジェクトの第一の発見は非常に強い意味の「現実」の発見だったことがわかる。

「われ思う」は「われあり」の先に来るのではない。それは「では現実にある私とは何なのか」という問いの答として、分析の続きでやって来るのである。分析のやり方は完全な消去法である。私について「ないことが不可能」と言えるものだけを残して、あとは容赦なく削ぎ落としてゆく。
(略)
考えていること、そう、これだけは私から切り離すことができない。これを切り離すと、もう私は現実でなくなる……。
(略)
その瞬間に私もろとも現実が消失する。それは思考の行き止まり、限界である。そして、「考えるもの」だけがこの限界に到達できる。
(略)
 デカルトは「私の存在証明」をやったと言う人がいるが、違うと思う(実際、デカルトは証明に数え入れていない)。これは証明なんかではない。「私」を定義する絶対的な不可能に突き当たる、いわば限界の経験なのである。
(略)
「われ思う、ゆえにわれあり」は推論ではない。むしろそれは、不可能の限界経験をひと言で表現する定式である。すなわち、私が現実でないような現実は不可能であり、この不可能は思考のリミットとして存在するということ。これは覆すことの不可能な真理なのである。

スピノザ

スピノザは、こういうデカルト的な枠組みをはじめから解除していた。このあと見てゆくように、スピノザによれば「神あるいは自然」のほかには何も存在せず、人間はこの神とか自然とか呼ばれる実在の局所的な一表現にすぎない。われわれが何ほどか思考し認識できているのは、われわれの精神が「自然」の持っている無限の思考の部分だから、なのである。

真理と確実性のあいだに乗り越えるべき隔たりなどはじめからない。スピノザはこの平明な地点から出発する。デカルトが考えたように、疑いえないことが真と偽を分かつ基準になるのではない。特権的な不可疑の真理もいらない。三角形であろうと神の存在であろうと、われわれがもしそれについて、そうでしかありえないというように理解できるなら、それはみな同じ意味で真理であり、同じ意味で確実である。

確実性に取り憑かれたデカルトは「そうでないことの不可能」に出会うまで懐疑の手を緩めない。ほかのものはともかく、私が現実でないことだけは不可能である。(略)
デカルトにはこうした、いわば世界と私との根元的な無関連さとでもいうべきものがあって、それが彼の哲学を特徴づけている。私は世界がどうなっていようが私だ。そんなふうにデカルトの哲学が〈不可能なもの〉との出会いからできていたとすれば、スピノザの哲学は〈必然的なもの〉のただ中に身を置くことからできている。(略)
それ以外でありえない全現実をまさにそれ以外でありえないものとして思考している神のごとき巨大な思考があって、われわれの思考はその一部分であるがゆえに真理を認識しているというのが本当ではないか。そして、現実のこの世界は、そういう巨大な必然的真理でできた何かではないか。
 スピノザは真理の規範に導かれ、一気に必然的な真理の総体の中に身を置く。というか、その真理の一つとして、真理のただ中で覚醒する。ここからは『エチカ』の領分である。

 私は、『エチカ』は「現実」というものに相当する一つの説明モデルを作ろうとしているのだと思う。「神」(「自然」とも言い換えられる)はそのモデルの名前である。「現実」という言葉は私が言っているので、スピノザの用語ではない。けれども、数百年後の今になって、そうか、彼が言おうとしていたのはこの現実のことだったのか、と合点がゆくようなことは哲学史ではあることだ。

驚愕すべきことに、スピノザはこの「身体の観念」が「精神」であり、一致がいわゆる「心身合一」なのだと説明していた。私が神の一個の真理であるということ、それが、私が現実にあるということだと考えていたのである! すると、どうなるのでしょう。私が思考していると思っているとき、いったい何が思考しているのか。

 この現実は実は神そのものだった――。いきなりそういうぶっ飛んだ話になってしまって恐縮である。しかしまあスピノザの『エチカ』なので仕方がない。
(略)
スピノザによれば、思考しているのはだれでもない。思考そのものである。宇宙が無限に多くの物理作用で満たされているように、無限に多くの匿名の思考作用が全自然を満たしている。われわれは自分が考えていると思い込んでいるのだが、本当は思考が勝手に考えているのである。

われわれは自分で自分の考えを頭のどこかから生み出しているのだと思っているが、スピノザによればそうではないということだ。考えているのは「神あるいは自然」の無頭の思考だけであって、われわれの自己意識はその局所で生じている効果にすぎない。

明日につづく。