〈帝国〉と〈共和国〉  アラン・ジョクス

 

第二章「ホッブズ、保護者的共和国の産出」だけ読んだ

〈帝国〉と〈共和国〉

〈帝国〉と〈共和国〉

カール・シュミット

述べている。「他者を保護する権力をもたぬ者は、他者の服従を要求する権利をもたない」、「権力をもつ者は、効果的な手段をもちいて、他者の服従をやむことなく正当化してゆくことができる。この手段がかならずしもつねに不道徳である必要性はない。それどころか逆である。生命の保護と静謐な生活を保障し、他の人間たちとは利害の対立する人間同士の連帯感を育み、これを搔き立てることは、人々の服従心を助長するからである。なるほど権力が成立するためには人びとの同意が必要だ。だが人びとの同意を生み出すのもまた、権力なのである」。
 こうした観点は、権力を人びとの服従の産物として定義するように思われる、だがディドロが「善なる人間ホッブズ」と形容したホッブズのほうは、カール・シュミットほど無邪気ではない。というのも、ホッブズの議論を子細に検討してみるなら、ホッブズの言う意昧での服従は、民衆が自分自身の保護を自由に、最大限に組織しようとつとめるとき、民衆自身が自発的に同意した結果生まれるものだからである.たとえホッブズ絶対君主制こそは民衆の保護のありかたの完璧な表象であると信じて疑わなかったにせよ、ホッブズはまた、いかなる形態であれ、国家が保護の職務を引き受ける限り、民衆はこの国家を正統とみなすことができると認めているのである。

共和国フランスの原点は

 共和国フランスの原点は、英国に見いだせる。フランスがすべてを刷新したのではない。王を斬首し、共和国をまず宣言したのは、英国である。
(略)
ホッブズがなみはずれた著作家であるとすれば、おそらくはそれは、ホッブズが最初の、そして最も深遠な、英仏合同の思想家であるからである。(略)
 ホッブズは、初期啓蒙思想家のなかでは、内戦や無秩序、混沌に直接取りくんだ、まれな思想家のひとりである。この点で、現代の思想家の抱く関心と、ホッブズは近しい。「自然状態」と同一のものとホッブズがみた、万人の万人に対する戦争とは、今日の人類を脅かしている暴力の形態そのものにみえる。二極体制が終焉し、東西という地球規模のリヴァイアサン間の冷戦が築いた、不動の、威嚇的かつ保護的な建造物が壊滅した後の、暴力の形態に。
(略)
 権力を考察するにあたって、ホッブズは徹底して分析と理論だけを自己の砦とした。確信をもった君主制主義者であり、絶対君主制の優越性さえ信じて疑わなかった。だが、ホッブズの目的は、ある政体を批判してべつの政体をもちあげることではなく、政治権力の学の基礎を樹立することだった。「わたしは人間について語っているのではなく、抽象のなかで、権力の座について語っているのである」。(略)
ホッブズは、「つくりごとだらけの暗闇に背を向け」ることができると考えた。かれの言葉である「人間は人間にとっての狼である」とは、すでに多くの先人が述べたことと同じであるが、かれがそう言ったのは、人間は人間にとって子羊であるというキリストの受肉以来の理念だけに頼らずにおのれの政治学を築きあげるためであった。戦争に対抗して平和の理念を鍛えあげようとするなら、平和に逆らって戦争を入念にしつらえるのと同様の、あるいはそれ以上の議論を尽くさなければならない。

ホッブズ自身は絶対主義者であった

ものの、権力は「神に発し、民衆を通じて、神の下で、主権者へと」、すなわち君主へと至るという、キリスト教的理念を信奉していた。この理念からすると、権力は焼けた石のように手から手へと渡り、君主から距離をおけばおくほど熱は冷めていくことになる。(略)
今日の観点からホッブズを代弁すれば、たとえ権力が民衆から到来するにしても、この到来の源は徹底してヴァーチャルであり、唯一の現実の痕跡が君主の権力である。主権者の権力が絶対的になればなるほど、民衆と交わされた契約の機能もいっそう完璧なものに近づく。この点について、ホッブズの理論的確信には揺るぎがなかった。

[国王チャールズ一世に反抗して興った議会権力は国民を代表していないとするホッブズ]
議会の参集には君主の召集が必要となる以上、議会は国民ではなくて君主の権力に属する。したがってこの件に国民代表の概念は適用しえなかった。しかも議会権力は君主権力と分離してはおらず、議会とは、みずから召集する両議会に臨席している君主の機能を根本的に内部に組み込んだ関係論的全体であった。議員は人民全体を代表しない。各州の選挙民が構成している選挙民団体を代表するだけだった。貴族は自分たちを代表するだけであるが、その力は無視しがたかった。
 以上の点からして、ホッブズは容易につぎの結論を導き出せた。国王処刑の後に主権権力をえた「残余議会」とは寡頭制である。オリヴァー・クロムウェルが護国郷として有した権力は専制権力である。
(略)
ホッブズ絶対君主制主義は、一個の批判的道具という役割を果たしている。民主主義をではない。むしろ何らかのかたちで選ばれた者たちが、市民的あるいは軍事的な大衆迎合主義の形態で、誰も気づかないようそっと主権を再立し、専制的寡頭制を推進することのできる制度をこそ、断固として斥けていると。ホッブズが告発しているのは「帝国的秘密」、すなわち共和国をつねに裏切る帝国が隠し持った秘密である。
 その古風な君主制主義のおかげで、ホッブズは、人民主権を構築すると見せ、実際にはこれを解体してしまうあらゆる形態の徹底した批判者となった。
(略)
[英国議会派は]憲法の創出によって主権の中世的理論を打破しなければならないという、まさにその一点にかけては、きわめて正鵠を射抜いていた。(略)かれらは、選挙や立法を重ねるたびに、自分たちの権力の存亡に疑義をつきつけるような、複綜したものの結合とたたかい、これを壊滅するようつとめてきた。ホッブズはこの諸力の結節点をまさに見逃さなかった。1649年における、国王の頭と胴体の結び目を始めとして。
 英国議会派は、議会は国王による召集ではなく、自動的に毎年、議事日程表にしたがって召集され、国王なしに議会を開く権限をもつことに投票した。

『百科全書』の項目

ホッブズ主義」において、ディドロホッブズヘの賞讃を惜しんでいない。ホッブズこそはまさに批判的政治学創始者であるとみているのである。実際、ホッブズは、みずからの絶対主義的論理のなかに多くの窓を開き、他の誰よりも巧みに、国家および主権の設立そして/あるいは解体を受けもつものとしての暴力の両義性の問題に光明をあてた。

[フランス亡命中]敵意ある噂が流れた理由は、ホッブズの保護の理論にあった。「臣下は、主権者に臣下を保護する権力が残余する限りにおいてのみ、主権者への義務を負う」。(略)これこそがホッブズは王党派を捨てたのではとの疑いを招いた箴言だった。(略)
「国内外を問わず、戦争によって敵が最終的勝利を獲得し、その結果もはや共和国の軍隊は戦線を維持できず忠誠をつくす国民を保護できなくなったとき、共和国は解体する。各人は、自分自身の思慮の命ずるところに従って、自由に自己を保護することができる」。
(略)
 現代の言葉遣いで言えば、民衆が君主=主権者と結んだ契約は、契約締結時には無制限の効力をもつものの、雇用主の解任、すなわち民衆を保護するという職務に主権者が失敗した場合には無効となる。この失敗は義務違反に等しいからである。保護の職務を設立するのは暴力である。したがって、力の支配やその寡占、力の明らかな優位性を失うというだけで、主権者は保護者たるには不適当となる。このとき各人は(ホッブズによれば、不幸なことに)めいめいに自己を保護するというその自然権を回復し、あらたな君主=保護者が出現しない限り、社会は「自然状態」ないし帝国的国家に再び転落してしまう。
(略)
ホッブズの慧眼が見抜いたのは、王位を剥奪されていながら自分は王位にあると言ってはばからない王の許に詰めかけている亡命貴族たちには、市民としての力が欠けているということだった。
(略)
 「万人の万人に対する戦争に対抗する力で民衆を保護する者が、主権者である」。「それを行なえない者は主権者ではない」。「それをもはや行なえなくなった者は主権者であることをやめる」。これらの命題は、機械論者ホッブズにとって互いに厳密に等しい。もし例えばホッブズが「万人の万人に対する戦争に対して民衆を保護することが不可能となったとしても、君主は主権者でありつづける」と言ったならば、自説を覆すのも同然となっただろう。この同語反復のリストにつぎの命題も付け加えられよう。「万人の万人に対する戦争に対抗する力で民衆を保護できない者は、いまだ主権者ではない」。しかし民衆がみずからの力で自分を保護できる日が来るならば、民衆は主権者となる。(略)
主権者たる民衆が、貴族権力から生まれる君主制だけでなく、民衆権力から発する専制的支配にも終止符を打つ。

内戦の過程

ホッブズの理論的な逡巡の最大の鍵は、内戦の過程ではなにが要因となって国家権力の全面的解体が引き起こされるかの解明であった。(略)
『ビヒモス』の主張によれば、主権者の権力は共和国体制下において自己解体した。(略)この権力の自己解体という段階は、いかなる意昧においても1649年の国王処刑を指すものではなかった。
(略)
主権者の解体をもたらしたのは、議会派諸分派間の抗争ではなく、宗教的セクト同士の抗争であった。
(略)
教会は糸を繰り、国内外の戦争を勃発させ、劫罰を畏れる人間たちに、自分の生命を投げ捨てさせ、他者の生命を奪わせる。こうした動きが現れるのはつねに、聖職者たちが王権や皇帝権をみずから掌握しようとするときである。このとき聖職者たちは、主権者権力、すなわち万人の万人に対する戦争を停止するべく合理的に制定された権力の、競争相手をもって自認する。こうしてかれらは共和国にとっての危険となり、平和の主要な敵と転ずる。
(略)
 したがって主権機関を解体し、あらゆる保護を消滅させ、万人の万人に対する戦争を誘発するものは、権力の二重機構――とりわけグローバルな宗教権力がグローバルあるいは地域的な政治・軍事権力に対する優越性を主張するとき――である。ホッブズによれば、主権者はクロムウェルのせいで失われたのではない。お互いに対決しあう武装勢力が持った宗教的動機のせいで消え失せたのだ。

今日の「グローバル化」は、

そのいくつかの特徴にあって、ホッブズ以前の混沌状態へとわれわれを引き戻そうとしているからだ。もはやわれわれの識らない、扉を開く鍵も失った世界の姿に。
 「民衆の保護」という理念が、今日もなお、主権権力の正統の本質をなしているかどうか、問い直す力をもつこと。この力こそが必要だ。本書が不完全ながらもまとめえた事柄からすれば、この問いには次のように返答することができるだろう。「新自由主義の枠組みに立つ限り、否である」と。国家主権の基盤は浸食され、支配的な主権、すなわち企業の主権の目的は利益にありこそすれ、保護にはないからだ。これと平行して、混沌の帝国も、企業主権を守ることにかまけ、飢餓や大量殺害に苦しむ地球の住民たちの保護など眼中にはない。この結果、帝国は、内外の逸脱者たちに対抗する軍事手段や、武力の行使力をひたすら増強するためにだけ、経済に首をつっこむこととなった。

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