ユートピアの歴史

チラ見。いい感じのカラー図版が結構あります。

(↓クリックすると大きくなるよ)
オスカー・ヴォイテ石版画『ガリヴァー旅行記

人間の身体の部位を炙る食人族

アメリカの共産社会主義

 最も重要な近代共産社会主義の発展は、[入植過程において]アメリカ合衆国で果たされた。(略)
 アメリカの共産社会主義は17世紀に、オランダのメノー派信徒、ピーター・コルネリスゾーン・プロックホイと、宗教的独身主義と労働の平等性、質素な生活環境を伴う修道院的な体制を確立したフランスの分離主義者、ジャン・ド・ラバディーによる、1663年のデラウェアヘの入植とともに始まった。そして世紀の後半からは、敬虔主義の様々なドイツ・プロテスタント信徒が同様の実施を試み始める。そのうちのひとつがドゥンカー派で、その幾人かは独身主義と財産共有の実践者だった。彼らの入植地として最もよく知られているのは、ペンシルヴェニアのエフラタである。
(略)
 ドイツ・プロテスタントの諸教派も、シェイカー信徒のように宗教的自由をアメリカに求めた。中でも最も知られているのは、キリスト教的確信に基づき、移民後の深刻な経済的苦境に直面したところから財産の共有を始めた、ヨハン・ゲオルク・ラップ率いるラップ派(ハーモニー会信徒)と呼ばれるルター派の分離主義グループである。

アーミッシュの家族を描いた
キャサリン・ミルハウス『ペンシルヴェニア』

 一方、やはり興味深いのはゾアル派である。彼らは1817年にアメリカヘと移住し、オハイオに定着した。そこでほどなく独身主義を放棄して、1845年以降、子供を集団で生活させている。料理は共同で行うが、食事をとるのは家族単位である。ゾアル派もまた大いに栄えたが、1890年代には共産主義的な原則を放棄し、そのため組織は崩壊した。(略)
 また、アーミッシュとフッター派の入植地も、共産社会主義の成功例として挙げられる。

Bernarda Bryson"A Mormon family"
https://www.encore-editions.com/a-mormon-family

 

オーエンとエンゲルス

1824年、ロバート・オーエンは、当時のアメリカのフロンティアの際に位置したインディアナのウォバッシュ川の岸辺に土地を得、即応可能なニューハーモニー平等村を創設した。新聞広告に釣られて、希望者が殺到したものの、多くは彼の財産のおこぼれに与ろうとしていただけで、オーエンの理想主義を共有する者はほとんどいなかった。御し難く、能力も低く、組織もうまくまとまらない状態の中、村民はオーエンの家父長的態度に反発した。調和はじきに失われ、この実施の試みはほんの二、三年のうちに崩壊してしまう。1840年代半ば、アメリカ国内にオーエンの原理に基づいた入植地を建設しようという試みが、オハイオのケンドールの事例を含め、他にも二十近くあったが、ほぼ一年ともたなかった。
(略)
オーエン主義の最も重要な奮闘は、1830年代後半にタイサリーと名づけられた場所で始まっている。そこはハンプシャーにあり、クイーンウッドやハーモニーとも呼ばれている。
 ここでオーエンは、各支部の急成長する運動から引きだした相当な資金を注ぎ込み、模範となる施設の建設を目指した。出費は決して惜しまず、輸入木材を含む上質の資材が使われた。食堂に食事を運び込み、汚れた皿を運び出す回転式テーブルシステムは、ロンドンの最高級のホテルにも匹敵するものだった。精巧な庭が配置され、すばらしい城のような建物が設えられた。しかし、土地は痩せており、厳しい農工業不況のさなか入植地は崩壊し、それとともに共同体的社会主義の夢も潰えた。その失敗を側でつぶさに見ていたのは若き日のフリードリヒ・エンゲルスで、彼は二、三年間のこのような努力に郷愁に満ちた愛情を抱いていたが、後に、社会主義は博愛的な先例よりも革命に拠って国民国家の規模で打ち立てられるべきであることを認めている。

アメリカ合衆国の19世紀後半の自給自足共同体で最も名高いのは、ニューヨーク州北部、オナイダのそれで、ジョン・ハンフリー・ノイズというカリスマに率いられていた。これに先立つ1831年、ノイズは宗教上の回心を経験しており、イエス再臨の遠からぬことを信じるようになった。いっそう論議を呼んだのは、以後、結婚制度をなくしてしまえば、この世の性的な関係一切がかつてそうであったような制限を受けることはない、という結論にノイズが達していたことだった。(略)
 彼が当初ヴァーモントにつくった小さな共同体では、明らかに強い個人同士の結びつきが育たない限りにおいて、集団の交情が認められていた。妊娠は膣外射精の実践によって回避され、「相互批判」と呼ばれる過程によってすべての出来事は周知のことにされていた。しかし、権威主義的な支配を実行していた当のノイズは、それに従わなかった。彼が姦淫の罪で逮捕されると、グループはオナイダヘと移り250人ほどの成員が「マンション・ハウス」と呼ばれるひとつの建物の中で暮らすようになった。この共同体は「優れた」より完璧な人間を生みだすために、「優良種養殖」の実験を開始した。何人かの女性がノイズを子供の父親として選び、この時期に生まれた58人のうち9人がノイズの子だった。

ジョサイア・ウォレンはロバート・オーエンの門弟として思索者の道を歩み始めたが、すぐにニューハーモニー平等村の組織と原理に批判的になり、代わりにその核となる経済的理念である「公正商業」、つまりは生産者が商品の直接交換を行える「タイムストア」を通じて、労働を適正な率のもとで取引し、適正な賃金の保証を実現するという提案を発した。

ロバート・オーエン

1830年代の半ば、オーエンは、現行の階級制度に取って代わるような八つの年代グループを提案して、民主主義に則った選挙の代わりに、その年代グループをみなが連続的に経験していくような社会組織と統治システムを採用すべきだと主張するようになっていた。ここでいう経験の段階とは、教育を受け、労働し、他者を監督し、共同体を治め、自身の共同体と他の共同体との関係を調整する、というものだ。この「反」政治的構想は、先行するユートピアの伝統に根ざしながら、後のマルクス主義の党派的分裂を抑制する運動にも反映されることになる。経済活動についていうと、オーエンの共同体は、消費分だけの生産を編成するよう意図されており、それでも余剰となった物資が他の共同体との通商に回される。贅沢への欲求は、娯楽のためのより長い自由時間の提供によって相殺されることになっていた――最終的に、すべての大都市は、このような共同村落に取って代わられるだろう。

シャルル・フーリエ

オーエンと運うのは、完全な共産主義的分配の構想が、人間の本質的な要求に応えられるとは信じていなかったところである。その代わりフーリエは、自著『ファランステール』や、あるいは自給自足共同体の中で、利益の三重の分割を提案している。つまり、報酬総額のうち、三分の一が資本、十二分の五が労働、四分の一が才能というように、それぞれに応じた分配がなされるというわけである。
 とはいえ別の観点に立つと、フーリエの構想はオーエンのそれよりも空想的であった。ファランステールでの生活は、「情熱的な愛情」の原理に導かれるものだった。それによって個人は、恥辱も罪への恐れも覚えることなく、自らの快楽の追求に可能な限りいそしむことになる。「性の庭」が最低限の肉体的悦びを保証し、同時に個人的な嫉妬を回避すべく性的な会合を管理することになっていて、性愛の実地演習が奨励されていた。

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