ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」

肝心のガマ話より、その前の歴史まとめの方から。

イスラムとの戦いから生まれた近代ヨーロッパの概念

[ジブラルタル]ではアフリカとヨーロッパがわずか15キロ足らずの海水で隔てられており、ここを行ったり来たりして幾度も歴史がつくり変えられた。
 今日ではアフリカとヨーロッパは文明の隔たったまったく違う二つの大陸だと思われているが、かなり最近までこの区別は意味のないものだった。何世紀もの間、商品も人間も陸上より海上を移動するほうが楽で、貿易と帝国が地中海の人々を結びつけていた。フェニキア人開拓者たちはスペインで銀を、また遠く英国で錫を採掘した。
(略)
最初大陸間に地理的な区分線を引いたのはギリシア人だった。彼らは便宜的に自分たちの東の土地をアジア、南をアフリカ、それ以外はすべてヨーロッパとした。さらに遠方まで探検するにつれ、北方のどの川がヨーロッパとアジアを分けるのかとか、アフリカはエジプトの境界線から始まるのか、あるいはナイル川から始まるのかなどと頭を悩ますようになった。そして一つの陸塊を三つに分けるのがよい考えなのかどうか疑問を持つようになった。ギリシア人以外にとっては、区分はまったく気まぐれなものだった。北ヨーロッパが顔を青く塗る習慣のある野蛮人の住む僻地で、地中海が西洋文明の池だったとき、大陸の人々は自分たちの共通のアイデンティティなど夢想だにしなかった。ローマ支配下のアジア・アフリカ領も、ヨーロッパ圏外だからといってローマでないというわけではなかった。ナザレのイエスの教えが、古代パレスチナ南部でローマ支配下にあった元ユダヤ王国の外に広がったときも、イエスの弟子たちの信仰がヨーロッパの宗教になると予言する者はいなかった。エチオピアキリスト教を最初に国教と定めた国の一つだったし、キリスト教思想の進化に多大な影響を与えた教父聖アウグスティヌスアルジェリア出身のベルベル人だった。キリスト教をわずかな例外を除きヨーロッパだけの宗教にしてしまったのは、三大陸にわたって勢力を伸ばしたイスラーム軍とイスラーム帝国である。
 単一のヨーロッパ・キリスト教というものも存在しなかった。ギリシア、ローマ以外の人々は当初アリウス主義を信じた。イエスは創造された存在で、父なる神と同質ではないと教える、大衆受けする宗派である。ロンバルド族というアリウス主義の部族は、近くにやってくるカトリックの聖職者を全員殺害することを使命とした。
(略)
[732年]フランク族の盾の前にムスリムの死体が積み重なった。散発的な戦闘は夜まで続いたが、夜が明けるころには生き残った侵人者たちは散り散りになってスペインヘと戻って行った。
 それから数十年、イスラームの大軍が何度もピレネーを越えて進軍し、短期間アルプスに達しては、ハンマー(カール・マルテル)が大急ぎでやってくるという事態を繰り返した。侵入が次第に間遠になり、ついにやんだが、それは西洋のキリスト教徒の武勇のせいというより、スペインに大量に流れ込み始めた何万人ものアラブ人とベルベル人移民の間での憎しみ合いと勢力争いによるところが大きかった。侵人がやんでからでさえ、ムスリムの追いはぎがアルプスの山道を支配していた。彼らの最大の獲物はヨーロッパ一裕福な修道院クリュニーの大修道院長で、多額の身代金をもたらした。またムスリムの海賊が海を荒らし回り、キリスト教徒は板一枚海に浮かべることができない、とカリフの首席補佐官が豪語したほどだった。
(略)
シャルルマーニュの帝国は短期間で崩壊し、バイキングがスカンジナビア半島から繰り返し苛烈な攻勢を仕掛けてくるようになった。やせた土地に次々と石の城が出現し、まばらな人口が城壁のもとに集まるようになると、ヨーロッパは大洋とイスラームの緑の海[イスラーム国家の旗は緑色を含むことが多い]の間に危なっかしく載った後進的な半島になった。この状態に陥ってそれ以外に選択肢がなくなったために、ヨーロッパはアイデンティティを発見したといえる。近代のヨーロッパの概念は地理的なものや共通の宗教だけから生まれたのではない。イスラームとの戦いという共通の目的を見つけた、さまざまな気難しい人々の寄せ集めのなかにゆっくりと現れたものなのだ。
 新たに興ったこのアイデンティティには、否応なく目立つ例外があった。イベリア半島はまだ堂々たるイスラームの帝国に支配されていたのだ。キリスト教徒の反撃が始まると、そこにはどこよりも熱狂的なカトリックの国が生まれることになる。そのわけは恐ろしいほど簡単だ。キリスト教イスラームは姉妹宗教で、イベリア半島では長い間肩を並べて生きてきた。もし自分の姉妹を家から追い出すとしたら、他人を追い出すよりもずっと、独善的なほど熱烈に信心深くならねばならない。
 当時、世界の西の端と思われていた地域で、原理主義勢力がキリスト教ムスリムの両方で放たれようとしていた。その波紋はその後何世紀にもわたって影響力を及ぼすことになる。

ジハード

キリスト教軍が南に進軍してくるにつけ、イベリア半島に残っていたムスリム統治者たちは自分たちに残された日が少ないことを恐れ始めた。(略)アンダルスはついに外国からの応援を求めることにした。
 これは致命的な間違いだった。
 ムラービド人はサハラ砂漠の過激なムスリム宗派で、厳しい規律と定期的な鞭打ちを主張する強硬派伝道者の周囲に興った部族だ。(略)ムラービド人たちはやってくるや否や、スペインのイスラームは腐敗した好色な人間たちだと決めつけ
(略)
[キリスト教徒を打ちのめした]ムラービド自身がやはり腐敗して、セウタから攻め込んできた無敵のベルベル王朝ムワヒッドによって権力の座から追われるまでのことだった。
 ムワヒッドはムラービドよりさらに狂信的な原理主義者で、アンダルスをジハード国家に転換すべく着手した。(略)
ムスリムムスリムと戦ううちに、力ずくの聖戦自体の効力も色あせてきた。それでもムワヒッドはそのような弱さを許さず、仲間のムスリムに厳しい制限を加えるだけでなく、スペインのキリスト教徒とユダヤ人に対して永遠のジハードを宣告した。
(略)
 西洋のキリスト教も同じような転換を経験した。キリスト教ユダヤ教の分派的宗徒の運動としてひっそりと始まった。しかしローマ帝国の正式な宗教に採用されると、じきに戦争を認めるようになる。(略)
アウグスティヌスは正義の戦いというコンセプトを初めて考え出したキリスト教の思想家で、権力や富のための戦いは重窃盗罪と同じだと糾弾した。しかし、平和を保つためには暴力には暴力で対処しなければならないことも認めた。
(略)
少なくともムスリムは、かなり見当違いの点があるにせよ、キリスト教を自分たちの宗教の先駆者だと認めてはいた。しかし、キリスト教徒にとっては、より新参の宗教であるイスラームに、あなたたちはまるで間違っていると言われるのは許せなかった。
 二つの宗教がどれほど異なっているにせよ、対立を引き起こしたのは違いではなく似ている点であった。ほかの主たる宗教と異なり、両者とも神のみが最後の啓示を表す力を持つと主張する。ほかの宗教と違い、両者とも信者でない人々に異端者とレッテルを貼り、伝道しようと努める。キリスト教イスラームも世界的な宗教で、しかも地理的に隣り合わせだから自然と競争相手になる。(略)
イスラーム世界は砕けて、いくつもの尖った破片になり始めていた。ヨーロッパはとうとう動き始めた。

エンリケ航海王子

[ポルトガルジョアンは]
熟考の末、息子たちの騎士デビューを、馬上槍試合、一騎打ち、ダンス、ゲームを合む丸一年間の饗宴、そして招待したヨーロッパ貴族たちへのぜいたくな贈り物で祝おうと決めた。(略)
[一方、若い王子たちは]ゲームをするのは自分たちの誇り高い血統にはそぐわない、とささやき合った。(略)三人は父王のところへ行って、何かもっとふさわしいこと――勇気と命にかかわる危険を伴い、敵の血を流すような英雄的行為――を考え出してくれるように頼むことにした。
(略)
 大臣の召使がジブラルタル海峡のアフリカ側の港町セウタから帰ってきたところだった。
(略)
そこを奪い返すことはキリスト教世界にとっての最高の復讐だった。それに、と父王の大臣は指摘した。セウタはすばらしく裕福だ。
(略)
不意を襲うのが成功の確率を上げるという点で、軍事評議会はまず一致した。(略)
王の身近な部下だけがこの計画にかかわっており、さまざまな噂が飛び交い姶めた。攻撃対象としてアラゴン領地のイビサ島、あるいはシチリアムスリムが支配するグラナダ、あるいはカスティーリャ支配下セビリアの名さえ流れた。やがてメンバー全員での評議会が開かれ、既成事実としてこの計画が知らされ、秘密を守ることを誓わされた。ジョアンと昔ともに戦った者たちは年をとっていたが、90歳の男たちまでが、戦場で暴れ回れる最後のチャンスと飛びついたという。「ともにやろう!ゴマ白ひげのみんな!」と一人の老評議員が叫び、みなが大笑いした。(略)用心のためにジョアンはヨーロッパの騎士仲間にそっと情報を流した。騎士道にそった高潔な冒険がほどなく起きそうだと。
 王の指示により国内の船舶の数と状態が調査された。報告はあまり喜ばしいものではなかった。王家の所有する山林からかなりの割合の木を切り倒し、大工、甲板などの継ぎ目を詰める作業員、桶職人をできるだけ多く雇うようにという命令が出た。ポルトガルの船大工は特権階級だった。(略)
じきにわかったのは、大きな艦隊を短期間で集めるには借り受けるしかないということだった。そこでジョアンはスペイン、英国、ドイツに使節を送り、できるだけ多くの大型帆船をかき集めてチャーターするように言った。代金支払いに充てるため、ポルトガルの塩製造者に在庫を市価以下で王に売るように命じ、王はそれを売って大きな利益を出した。そしてさらに費用を捻出するため、銅や銀を備蓄している者たちに差し出すよう命じた。造幣局が昼夜を問わず明かりを放って音をたて、通貨価値は密かに切り下げられた。この国の商人たちの多くにとって、この企てはべらぼうに金のかかる騎士道のたわけた行為に見えた。
 大きな艦隊を人目につかないように準備するのは難しいので、王の家来たちは目をそらす方法を考え出した。ポルトガルの商人がオランダで商品をちょろまかされたという些細な口実で、オランダに戦争を布告しに特使が送られた。到着するなり、特使はオランダを統治する伯爵と隠密の会談を手配し、本当のことを打ち明けた。秘密を打ち明けられたことに気をよくした伯爵は、戦争が現実に迫っているかのように振る舞うことに同意した。あらかじめ決められたとおりのシーンを宮廷で演じたとき、あまりに真に迫っていたので顧問たちはもうちょっと抑えて、と言わねばならないほどだった。そしてオランダは戦争に備えるふりをした。
 ポルトガルでは王子のなかでいちばん年下ながら、企てにもっとも熱心なエンリケが、船隊の半分を集めるために北部の古代都市ポルトに派遣されていた。次兄のペドロは同じ任務をリスボンで与えられた。王は武器大砲の監督で忙しく、国務は長男のドゥアルテに任せた。(略)
 国中で武器が磨かれ、仕立て屋や職工がどんどん制服を作り、大工が釘を打ちつけて弾薬箱を組み立て、縄職人が麻をなった。船員の主食になる乾パンは巨大なかまで焼き上げられた。大量の牛が屠殺されて肉をはがれ、塩漬けにされて樽に詰められた。埠頭には内臓を出されて塩を振られた魚が銀色の花弁のように天日干しになっていた。いったいなんのために、と国中がさまざまな噂で持ちきりだった。英国と手を組んでのフランス攻撃、聖墳墓教会奪還のための聖地への十字軍、オランダとのまさかの戦争までささやかれた。
(略)
 六月初め、若いエンリケの完成したての艦隊は錨を揚げ、ポルトガルの荒れる大西洋沿岸を南下した。(略)
 ニュースが広まるにつれ、海上のページェントを見ようと人々が町から押し寄せた。26隻の貨物船と数え切れないほどの軽帆船が先に立ち、6隻の二本マストの船が続いて、やがてトランペットが鳴り響くなか、ついに三本マストのガレー軍艦7隻が姿を現した。王子の旗艦が最後尾だった。すべての船舶は十字軍の八角十字の紋章を付けた軍旗をはためかせ、一方、小ぶりの旗には金色の地にエンリケ王子の記章が付いていた。

ガマ、インド到達

 一年間男ばかりの船に閉じ込められていた探検者たちは、インドの女性たちをぶしつけにじろじろ見た。彼女たちは上半身裸だったが、首、脚、手、足にたくさんの宝石を着けていた。大きく穴の開いた両耳には金と宝石がいっぱいで、耳たぶを最大限の長さにするのが最高のおしゃれらしかった。ある旅行者の報告ではザモリンの王妃の耳は乳首まで垂れていたという。船員たちはじきに結婚が上流・中流カーストの大部分では神聖な結びつきではないことを知り、喜んだに違いなかった。女性たちはいちどきに何人かの「通いの夫」を持つことができる。もっとも人気のある女性は10人以上持っていた。男たちは共同出資して妻を彼女自身の住居に住まわせておく。一人の夫が泊まっていくときはほかの夫たちに近寄らないようにというしるしに、ドアの外に自分の武器を立てかけておく。
 女たちもポルトガル人をじっと見つめ返した。彼女たちも、窮屈そうな服を着て暑さの中をスポンジのようにびっしょりになっている男たちが不思議だった。
(略)
ヴェネツィア人旅行家ニッコロ・デ・コンティは多くの店に行き当たり、そこの女性経営者たちが金、銀、真鍮でできた小さなナッツくらいの大きさで、鈴のような音のする妙な物体を売っているのを見た。コンティは説明する。「男は妻をもらう際、こういう女性たちのところへ行き(そうしないと結婚は破談になる)、男根の皮を何箇所も切って皮と肉の間にときに12個もの『音のする物』(数はお好みで)を埋め込む。切った箇所は縫い合わせると数日で治る。これは女性のみだらな欲求を満たすためである。これらの腫瘍のような盛り上がりによって女性は結合の際大きな歓びを得るのだ。男根が両脚のずっと下のほうまで下がっていて、歩くと音がするのが聞こえる男もいる」。(略)
[コンティは]「男根が小さいので女たちにばかにされ、矯正するよう誘われた」が、ほかの者に歓びを与えるために自分が痛い思いをするのは気が進まなかったので、断った。