吉本隆明はなぜ「マチウ書」としたか

吉本隆明は自分をエラソーに見せるためにフランス語使ったとか適当なことを書いている呉智英に教えてあげたいw

「関係の絶対性」

キリスト教の歴史は虐げられた者や貧しい者の歴史でなければいけないのに、中世のどこかで一種の支配者宗教になっていきます。新教、旧教といろいろあるのでしょうが、自分が富士見町教会で感じたあの雰囲気、もうできちゃっている雰囲気とか、牧師さんの言っていることがどうしても納得できなかったこと、そうしたことが全部自分のなかでつながってきたわけです。人間のもつ理念や思想、宗教性を根底のところでつかさどっているのは「関係の絶対性」であり、これはどのように読み替えようとも一種の宿命論に近いもの、動かしがたいものなんじゃないかという実感がとてもあったんです。そこのところをもとにして、聖書の面白い部分を、自分が文学的に感得したある徹底性を中心にして論じられるんじゃないかという考えになっていったと思います。
 自分のなかにはマルクス系統の考え方から読書によって感得した階級性という考え方があって、この階級性という考え方が自分のなかで共通に見えてくる地点がありました。そこから見ると「関係の絶対性」は一面では宿命のように動かしがたく見えるけれど、そういう否定面だけじゃなくて両面から考えなければダメなんじゃないかと思って、そこが論の中心になったと思います。だけど、そのときに僕がほんとうにやりたかったのは、聖書を文学的な観念をもとにして読んだらどうなるかということでした。
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新約聖書は絶望性に対してどういう考え方をしているのか、というのが僕の言う文学性で
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 経済的な認識を外の世界を理解するための勉強と考えると、これは内の世界の勉強に該当すると思います。その両方が僕のなかではそんなに矛盾せず、戦争中までの自分の軌道を修正するための主なやり方としてあって、今でも同じようなものだと言えます。マルクス主義者がえてして宗教的になってしまうのはなぜなのかという問題も含めて、宗教的な信仰と不信の問題、それと経済学的な問題は、今でも同じような関心のレベルにあるような気がします。
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キリスト教の歴史的な展開と言ってもいいけれど、そのどこかで、虐げられた者、貧しい者の宗教でなくなってしまった地点があるわけです。「それはいったい何なのだ。おかしいんじゃないか」という疑問符がありまして、それが「関係の絶対性」という考えをもち出してくる動機になったと思っています。

「マチウ書」にしたわけ

 キリスト教的な観点から言うと、聖書を文学的に論じるなんてとんでもないことだという観念が一般的にありましたし、僕らも自分の中に、こういう信仰の教典を文学的に論じていいのかというわだかまりみたいなものがありました。だから、ほんとうは『マタイ伝』という言葉があるにもかかわらず、この言葉を使うのはもうやめようと思って、『マチウ書』と勝手に呼び換えちゃったんです。
 イエス・キリストのことも勝手な呼び方をして、「お前、それは発音が間違っているぞ」と言われましたが、勝手な呼び方をしようというモチーフは変わりませんでした。根拠はあるんです。信仰の書をいかがわしく論じているととられたくなかったから、それで全部呼び換えてしまったわけです。キリスト教に対する一種の畏敬の念があって、言い方から何から全部変えちゃえというモチーフになったのだと思います。外側からはあまり重要でないと見えるでしょうけれども、自分の中ではそれがけっこう重要なことだったんです。

芥川龍之介西方の人』、太宰治「駆け込み訴へ」

 芥川龍之介の『西方の人』や『続西方の人』も戦争中に読んだと言いたいところなんですが、読んだという記憶がなくて、戦後に読んだんだと思います。太宰治の「駆け込み訴へ」を読んで、それから逆に芥川龍之介の『西方の人』や『続西方の人』を読んだのだと思います。僕はそれほど感心しなかったんですが、ただ、イエス・キリストという新約聖書の主人公を優れた宗教的ジャーナリストと見る観点を貫いていて、キリストから信仰性を全部剥ぎ取っているという意味で立派なものだと思いました。話がうまくて比喩がうまい、真実を穿つのが巧みなジャーナリストという観点を、芥川はとっていると思います。
 太宰の方は文学書としての記憶がいちばん残っています。ユダの語りとして言っていることが鮮やかであること、それからキリストの神性を全部剥奪しちゃっていることに感心しました。太宰の場合は芥川のように人を動かすことがうまいジャーナリストだと言わないで、世間知らずのおっとりした宗教家だとしています。

オウム

この人たちはどこまで信仰として言っているのかについて何も考えないで、非道の極悪集団だと言っているだけじゃダメだと思うんです。僕らはそのことだけを言ってきたわけで、どうして極悪非道が救われるんだということについては言っていません。それを消極的に言いますと、現在あるところの市民社会の倫理は危なくなって、絶対的ではなくなってきた。20世紀の終わり頃になってそこまできたわけで、何が善であり悪であるかについて確とした返事をすることは、誰も難しくなっています。少なくとも、そういう場所に我々は入りつつあるということだけは言えると思うんです。
 市民社会の倫理で断罪できることは、自分も市民の一員であると思っていますから肯定しますが、「それでお前、終わりか」と言ったら、そうじゃない。この倫理は危なくなってきているんです。(略)
こういう問題意識があるものですから、極悪非道で片付けちゃダメだと思っているんです。これはこれとしてどういう意味があるのか、教義としてどういう理念をもっていて、それがどうなっているのか、ということだけは、はっきりさせなきゃいけない。それだけが、かろうじて僕らのもちえている問題意識です。

終戦

国家についての観念がそのときに実感的にはっきりしたということがあります。国家というのは、戦争の時はもちろん大変なものとしてあったわけです。ことごとく国家の命令で動いてきた。だけど、国家というものがなくても、けっこう生きてやれるもんだという感じを、そこではじめてもったんですね。
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 そのときに、国家というものはこういうものかと、はじめてわかったんです。後になって考えて、「ヘーゲル流の『国家と社会』とは違うぞ。社会の方がずっと大きくて、国家はそれに比べれば小さいんだ」と

国家機関の官僚たちは、それまでの国民一般への行政的な事務遂行の機能を停止し、ここまできて、国家の共同幻想は解体し、国家意志は失われました。代行したのは連合軍の軍政当局、主として占領軍政局です。これが臨時の国家意志の担当なわけです。
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共同意志としての国家はいつの間にか分担するメンバーがいなくなったために機能しなくなりましたが、共同幻想のほうは少なくとも核の部分でみる限り、解体しろといわれるまでは明治憲法そのままに存続していたわけです。そういう境目には、総合的な共同幻想を構成していたものはみんな解体して、それぞれの機能で分解していくということになります。それが共同意志としての解体の仕方です。
 これによって、共同幻想としての国家は共同意志としての国家と解体の仕方が違うんだと言えてしまいます。
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それ以前は、この強固な構図は他のものが解体しても――家族が解体しようが、個々の意志が無茶苦茶になろうが絶対に残るものだと思っていました。ですが敗戦によって、国家の共同意志と共同幻想で解体の仕方がそれぞれ分離しているのを、しかも個々の軍事力や行政力が解体して別々に壊れていくのを初めて体験したわけです。