吉本隆明が最後に遺した三十万字

kingfish.hatenablog.com
上記に追加した完全版「吉本隆明が最後に遺した三十万字」上巻と下巻。
高橋源一郎の泣けるあとがき。
聞き手は渋谷陽一

[上巻]

『「反核」異論』

――(略)反核運動の奇妙な広がりは一体なんなのか、ここを解決しない限り、反核メッセージの問題点を指摘しているだけでは前に進めないぞというふうに思われて、『マス・イメージ論』や、『ハイ・イメージ論』という次の大仕事へ向かう大きな動機づけになったんじゃないでしょうか。


吉本 (略)戦争中、自分なりの理屈を編み出して、こういう理由があれば戦争やるべきじゃないか、「こういう事態まで追っ詰められたらやる以外にないじゃないですか」って思ってきた自分がいる。
(略)
僕の経験論の一番核心にあるもので戦争中、日本列島の住人のひとりとして勝つぞ!って一生懸命戦争に参加した人もいるんです。だけど、平和運動、それから反核運動の中には、彼らは出てこない。積極的に戦って死んだ人たちのことに触れずにいるのは、この戦争があったっていうこと自体を無視するのと同じことでしょう。そんなのはなんの意昧もないよって思うんです。それは僕の世代的な宿命でしょうけど。貧しさやなんかに追い詰められたら、死んだって負けたっていいからやろうじゃねえかっていう人たちがいる。そうでないと戦争が起こるわけがないわけですよ。だからあいつ、戦争中は戦争やれやれって言って、今は「戦争自体が悪だ」なんて勝手な論理を編み出して、両方の辻棲を合わせようとしてるっていうふうに言われたら、その通りだって答えてます。僕はそれを、ごまかそうと思ったことはないんですね。だから、ただその批判を肯定してるわけじゃないんです。僕のやってることはそんなものじゃないんだよって。(略)
[マルクスは]後進国における社会革命っていうのは、必ずナショナリズムの形を取るっていうことを明言しているんですよ。日本でも右翼の軍人の反乱軍の革命、二・二六事件なんてありました。戦後になって、左翼の専売特許のように言われたけれど、そうではなくて、右翼の軍人みたいな人たちが革命を志すと、必ずナショナリズム革命になるんです。(略)


――ナショナリズムそのものが非常に反革命的なものだみたいな、そういう一面的な理解というのは、全然意味がないんですよね。それをただ単純に、吉本隆明ナショナリストから革命家に転向した、という図式でどうこう言われたんじゃあ、たまったもんじゃないですね。

『マス・イメージ論』

――だから吉本さんの中においては、時代を浮かび上がらせて、時代という影の作者を浮かび上がらせるという視点は常にあるんですが、お書きになっているようにそう簡単に時代の作者は出てこないわけですよ
(略)
ただ吉本さんがすごいのは、この『マス・イメージ論』で書いているように、実は犯人がいないっていうことが犯人なのかもしれない、っていう、そこまでの目線を吉本さんは持ちながらやっていたわけで。

源氏物語論』

――僕は『源氏物語論』を読んで、ほんとにすごいなあと思うのは、なぜ『源氏物語』が書かれたのか、あるいは何ゆえ紫式部は『源氏物語』を書かされたのかって言う、そこが基本になっているところなんですね。(略)紫式部という人が、この時代において物語が書かれるべき必然を、一番ちゃんと取り込んでいったというところが、『源氏物語』のすごいところだよと。ちょうど社会的な構造の変化があって、貴族社会そのものも変質していく中において、その社会構造の変化を内に取り込みながら、この巨大な物語ができ上がっていくっていうところを、吉本さんは、非常に立体的に、他には誰も書かれていない形で読み解いているわけで。(略)
ちょうどその頃吉本さんは『マス・イメージ論』を書かれているわけですよ。そこでは吉本さんは、ひとりの作者としての個別性と同時に、時代によって書かされているなにがしかの必然性とのせめぎ合いというところで、作品は評価されていかなければいけないし、そこに意味があるということを、それこそ大江健三郎から椎名誠まで、いっぱい例を挙げて……たとえば、「時代の反映ということであるなら、マンガだってそうだよ」っていう形で、分析なさっているわけですね。

『超西欧的まで』

吉本 (略)丸山眞男さんのお弟子さんたちを主として、他の学者さんたちは日本の戦争中の、やや後進的なナショナリズムのことをファシズムと言ってるんですよね。でもそれは厳密じゃない。これは戦後、僕の主な主張だったんですけど、あれはナショナリズムであって、日本で唯一ファシズムという名に値する考え方を持っていたのは、中野正剛の東方会だけです。何が違うのかといえば、ナショナリズムというのは言ってみれば一国主義のことです。(略)ファシズムの名に値するのは、資本主義と調和したというか和解したナショナリズムのことです。ドイツとイタリアはそうだったんですけど(略)[日本は]後進国ナショナリズムだったと言ったほうがいい。
(略)
よく僕は、戦争中は軍国主義ファシズムだったのに戦後は左翼みたいな顔してるじゃないかと批判されましたし、現在もされているのかもしれませんが、そういうことじゃないですね。僕らが戦争中に思っていたのはナショナリズムで、まだファシズムまで行かなかったんですよ。そこまで行っていたのは東方会、中野正剛だけで、だから戦後すぐ中野正剛の息子の中野達彦が真善美社を作って、野間宏とか第一次戦後派の錚々たる人たちの作品を出版できた。なぜそうしたことがすぐにできたかといえば、それは西欧のファシズムと同じぐらい資本主義を受け入れていたからです。だからすぐに戦後の資本主義に適応できたんですよ。

高橋源一郎 あとがき

「十四歳の思想」

(略)
 わたしは、待っていたのだと思う。いや、人間なら誰にでもそういう時間が、時期があるのだと思う。誰かが、あるいはなにかが、まだ眠ったままの自分を揺り起こしてくれるのを待つ季節が、である。十三歳から十四歳は、それにもっともふさわしい年齢なのかもしれなかった。
(略)
 もう少しわたしが幼かったから、それはあまりに難しく、それ故に、遠ざかることになっていたかもしれない。もう少し、わたしがおとなだったら、もうわたしには、わたし独自の(と思いこんでいる)考えがあって、それがなにであれ、頑なに、他人の「思想」を拒んだのかもしれない。
 でも、わたしは、すべてを受け入れる準備ができている年齢、「十四歳」だったのだ。吉本さんの「思想」は、わたしのような少年だけではなく、もっと幅広い世代に、圧倒的に受け入れられた。あんな風に熱狂的に、一つの「思想」が、(若い)人びとをとらえたことは、この国では、例がないように思う。それは、吉本さんの「思想」が魅力的であったからである以上に、その時代、一つの世代を中心に、「出会いを待ち望む」若者たちがたくさんいたからだ、とわたしは考えるようになった。
 誤解を覚悟の上でいうなら、あの頃、時代そのものが「十四歳の感受性」を持っていたのだと思う。
(略)
 「十四歳の感受性」は、おそらく誰にも訪れるだろう。けれども、それはいつか失われてしまう運命にある。だが、吉本さんの「思想」には、誰よりも濃密な「十四歳の感受性」が、失われないまま、流れていたように思う。おそらく、その中身はわからなくとも、わたし(たち)は、そこに流れているものを「感じる」ことはできたのだろう。
 そこには、わたしにとってもっとも切実と感じられる「なにか」、わたしだけが感じているかもしれないと恐れていた「なにか」があった。書かれていることば、それが表現している「思想」の奥深くにあって、それを支えている、柔らかく、温かく、脈打つものを、わたしは感じた。
 十四歳のわたしは、「十四歳の思想」に出会った。わたしは、それ以上のものに出会ったことがないし、これからも出会うことはないように思えるのである。

[下巻]


1999年、江藤淳自殺後のインタビュー

[溺れて入院した後、前立腺で再入院]
前立腺の痛さっていうのは、いわゆる切った張ったの痛さとは違うんですが、痛いっていうより他に言葉がないわけです。痛いっていうのと不安っていうのと、それから不安定っていうんでしょうかね、そういうのと、生きる意欲を失わせるような不快感も入るんです。それが入り交じっている痛さなんです。「これは堪んねえなあ」っていう痛さなんです。これはやっぱりきついんですよね。で、僕はそれと目が見えなくなる――見えなくなるっていうか、活字も読めなくなるというのもあって、もう、一時期は、江藤さんみたいに自殺するまでは考えなかったけど、「こんなんで生きているっていう意昧はないんじゃないか?」って思いました。(略)だけど、「それじゃあ死んじまえ」っていうまでは、僕は考えなかったんです。それはなんでなのかというと、いい加減だからだと思うんです(笑)。だけどひとたびはやっぱり「こんなんで生きていることはおかしいんじゃないか」って、「親鸞がどうとかお前カッコいいことばっかり言ってるけど、こんなんで生きてるっていうのは全然お話にならんじゃないか」っていうことは、自問自答しました。

――(略)[数年前の対談で]江藤さんが「小林秀雄は独りだったけれども、俺たちは吉本隆明江藤淳って二人いるからいいですよね。やっぱり僕らにとってお互いはかけがえがない」というようなことをさかんにおっしゃっていたのに対して、吉本さんが「ええ、まあ」「う〜ん」というような困った受け答えをされていたのが僕は印象的だったんですが。
(略)
吉本 (笑)そうそう、いや、あのねえ、あの時は――僕も対談に行くまではさ、今日も侃々諤々また対立か、とか(笑)、そういうつもりで行ったわけだけど、なにせあの時の江藤さんは、初めっからその気がなかったんです。あの人自身「もうこれが吉本と対談する最後だな」っていうふうに思ってきたんではないかと思うんです,もう初めっから、とても温和な口調で……何て言いますかね、世間話の延長みたいな、そういう感じでもってね。最後に、何て言ったかっていうとね――僕は、今でも何でそんなこと言ったのかな、と思うんだけど、「吉本さん、僕が死んだ時には線香の1本も上げてくださいよ」とかって、言ったんですよ。

2000年の吉本の執筆?状態

[法然の文書も弟子が書いたものという流れで]
――なるほどね。そのうち吉本さんの著作も、吉本さんじゃない人が書いた、なんていうふうな説が出てくるかもしれないですね(笑)。


吉本 そういう言い方をすると、僕が出した本の中で、これ自分が書いたっていうふうに言えるのは、去年くらいからあんまりなくてね(笑)。(略)
まあ、僕が書いたには違いないんですけどね(笑)。編集者にはずいぶん何回も、起こしてもらっちゃあ僕が直して、またそれを起こしてもらってまた直して、っていう。そうすると、起こしてくれた編集者の文体が全部なくなっちゃうんです。ところが、そういう編集の人は僕の本なんかわりに読んでいて、吉本の文体はこうなんだって自分なりに持ってて、それに近いように似せて起こしてくれるわけです。そうすると逆に、これは似てて違うのは困る(笑)、っていう感じでもってまた直しちゃうんです。だから編集者は内心ではすごく不満だろうなあ(笑)。(略)
不満だろうなあと思うんだけど、仕方がない。悪いなと思うから、精いっぱいあとがきでは断ったりしてるんですけど、本当そういうのばっかりだから、もし僕がくたばっちゃったあと、誰かが「これは吉本の名前になっているけど俺が書いた」って言いだして(笑)、「その証拠に……」とか指摘されちゃったら、まあそう認められるかもしれません。そこはとても難しいところです。