福田恒存「民衆の心」

吉本隆明についていい加減なこと書いてんなよ呉智英」の流れで、「大衆の原像」とか「転向」に絡んで使えるかなあと、福田恒存を引用してみたけど、やっぱ使わないかな。
入力が大変なので旧漢字を新漢字に、ついでに旧かなも勝手に変換しちゃいました。他意はないので福田ファンの人は怒らないで下さい。

民衆の心(1946年)

[戦後日本人の道義退廃を嘆く日本の文化人]
かれらは知っているであろうか、手を汚さずにすむ自分たちの暮しが、じつは反面の醜悪な現実によって支えられているという事実を。
(略)
[日本の]経済的、社会的な発展は他から規制せられながらもあくまで現実に即して進行していったが、思想的には欧米自由主義の表象がそのまま借著のように与えられたのであった。かくして、わが国の文化人ははじめから生活者としての世界人を軽蔑すべき存在として見なさざるをえなかった。
(略)
現在もまた祖国の敗戦をよそに自己の利害をのみ追求するものに対して、知識階級はただ絶望的な軽侮の眼をむけることしか知らないのである。
(略)
民衆のエゴイズムに眼をそむけた政治はいきおい強権の発動となる。そこには独善と押しつけとがあるのみだ。欧米自由主義の表象を棒持しながら、政治がついに専制と封建との世界に低迷せざるをえなかったゆえんである
(略)
たしかにこの努力が不可能にぶつかったのちの絶望は予期されてはいない。それがかれら[アメリカ]のオプティミズムであろう。しかし、すくなくとも絶望を予想しての罷業はけっして認められぬのである。はじめから絶望という観念を与えられて現実との接触を避けたわが知識階級、そしてそれゆえに狭小な高度と深度とを保証された近代日本の文化をかえりみるとき、ぼくたちはいづれに安易なオプティミズムの刻印を押さねばならぬであろうか。
(略)
現実から遊離した表象は、その無責任な通貨的融通性のゆえに、あらゆるところで混乱を惹き起す。クリスト教の愛と仏教の慈悲とは容易に合一せしめられる。このようにしてわが国の知識階級の教養は、戦後の前夜を通じて、左翼や自由主義から国粋主義、復古思想への転向を可能ならしめたのであり、そこにはたんなる保身の術以上の本質的な性格が認められるのである。逆にいままた自由主義への転向がおこなわれたとしてもふしぎとするにはあたらない。
(略)
率直にいってしまえば、わが国の自由主義は現実と民衆との背景をもたぬままに、たんなる個人的な権力欲や自己満足と結びついてしまったのである。(略)この本来的な傾性のゆえに、おなじく民衆の心理に眼をそむけた強権政治と容易に手を握ったのである。小さな権力欲の満足を与えられれば、かれらは政治の現実に対する無能力に眼をつぶり、混乱と矛盾との原因を民衆の精神的欠陥に帰し、高踏的な説得をこととしたのである。
(略)
ぼくたちと現実を隔てているもの、それらを一切除去してかからねばならぬ、敗戦の現実は醜く惨めである。しかし、それがいかに醜く惨めであろうと、ぼくたちはこれ以外の場所に自分の立ち上がるべき地盤をもたないのだ。民衆がいかに頼りなく見えようとも、またいかに背徳と退廃とのうちに陥っていようとも、それはけっして鞭打すべき対象としてではなく、そのまま自分の姿として、そのうちにぼくたち自身の生活の根を置かねばならないのである。

人間の名において(1947年)

(略)プロレタリア作家たちをして、自己の生活的な現実の錘をむぞうさに切り棄てることにより「正しい世界観」の獲得とその理論的正確さの保持とを可能ならしめたものは、その容易に切り棄てうる錘の軽さとあえてそれを切り棄てる性格の冷酷さにほかならなかった。
(略)
文学の倫理性は世界観のうちにあるのではない。文学は対象としての現実のたんなる客観的反映ではない。倫理は作家の創作行為そのもののうちに求められ、現実は主体とのかかわりにおいてのみ描かれねばならない。
(略)
民衆の無智とエゴイズムとからみづからはまぬかれているものと考え、かれらを指導し啓蒙するという立場から、そのそとに立って民衆の心を眺めていたことが、ついにプロレタリア作家をして民衆から遊離せしめたのである。
 その傾向は転向文学に至って顕著なものとなった。ここでは現実も民衆も完全に忘れはてられている。(略)
が、この転向文学はプロレタリア文学の裏切りではなく、ただそのよけいな飾りを脱ぎ棄てた正体そのものにほかならなかった。大切なのは現実でも社会でも民衆でもない――旧態依然として自己の真実をめぐっての自意識のひとりずまいである。
(略)
ぼくたちの見のがしてはならぬことは、プロレタリア文学も自己喪失者の文学であったといういう事実である。
(略)
[今日民主主義文学を唱える人びとはかつてプロレタリア文学を主導していた]
その人間性への侮辱、肉体と快楽との否定、民衆の無視、倫理の欠如についていかなる責任をとるか、それらを民主主義文学の発想といかに結びつけるか、そのことについてあえて問いたい。(略)