橋本治が大部屋で入院してたんですよ

出版社のおエライさんが橋本治を見舞いに行ったら大部屋だったゼエ、ワイルドだろう。(あくまで想像)

橋本治という立ち止まり方 on the street where you live

橋本治という立ち止まり方 on the street where you live

 

病名は顕微鏡的多発血管炎

という数万人に一人の東京都指定難病。

 面倒臭い病気で入院し、退院してから十ヵ月がたちます。その初めに医者から「完治のない病気」と言われたのでそこは理解していますが、余病併発体質みたいになっちまって、それが面倒です。以前とは別の形で脚が痛くなって、歩けなくなったりしました。「なかなか立ち上がれない」と思うことから、かなりの鬱状態にもなってしまいました。

私の病気は毛細血管がただれて、その結果いろんなことが起こるという病気で、何年か前まで「一体これはなんの病気だ?」というんで対処が遅れて死んだりする難病になっていたらしい。今じゃ別に治療法もあるから心配はないということで、私はただ眠っております。

まず「腎臓がダメージを受けている」と言われた。その結果、病院で出される食事は、塩分、タンパク質抜きの、味がまったくないものになってしまった。でも私は、小学校二年の冬に腎臓病になって、一ヶ月絶対安静で塩分ゼロのおかゆばかりを食べ続けていた経験があるので、それを「いやだ」と思う前に、小学校二年の時期にタイムスリップをしてしまった。
(略)
入院して二ヵ月くらいの間は「昭和三十年代の初頭以前」というところにさまよっていた――というより、「自分のいる現在は、そういう時間なのだ」と、うっかりすれば信じ込むような状態になっていた。

2011年一杯、私は杖がなければ歩けないとう状態で、放っておけば陰々たる鬱状態になってしまいました。
それでもまだ現実は続いて行きます。しんどいけど、歩き出すしかありません。

定年退職した団塊の世代は「本を読む」だろうか、

いやしない、それなら「書く」だろう

どうしてかというと、「本を読む」ということは、「読んだ結果をどうするか」ということとからんでいると思うから。
 若い時に本を読んで、「居ても立ってもいられない」という状態になったことはよくある――というか、「居ても立ってもいられないような状態になるような本しか読みたくない」と思っていた。自分をどこかでプッシュしてほしい――どこをどうプッシュされたのか分からなくて、「そういうプッシュの仕方もあるのか」と思えるようなプッシュがほしいと思っていた。私が一番本を読んでいたのは二十代の頃で、詮じつめれば「自分がどう生きてったらいいのかよく分からない」と思っていた結果でもある。
(略)
なにか衝撃はあるのだが、それがいかなる衝撃かはよく分からない。分からないから、「居ても立ってもいられない」になる。
 「この“衝撃を感じてしまった自分”をどう扱えばいいのか?」が分からない。衝撃を受けてしまった以上、自分の中には「それに対応する部分」がなかったということになる。
(略)
 本というものは「人を動かすもの」で、人を動かしておきながら、本というものはその「答」をくれない。つまり、「どっちに行けばいい」ということを言わない。私は、簡単に「こっちへ行けばいい」と言うようなものをあまり信用しない。言うんだったら、せめて「複雑に言う」にしてほしい。
(略)
[定年になって]本を読んで動かされた自分が「今現在、格別になすべきこともない」という状況にいたら、それはつらいことになるだろうと思う。

「狂気」でさえもがバーチャル

日本の社会が「豊かさのピーク」というところに辿り着いてしまってから、「心の病」というのは激増してしまっているような気がする。現実に「豊か」であるかどうかとは無関係に、「自分のあり方は保証されていなければならない」という思い込みだけが強くなって、それがどこかで「軋み」を生むのではないかと、そんな気がする。「狂気」でさえもがバーチャルであるような――。
 現実が「現実を実践して行かなければならない」と働きかける力を希薄にして、バーチャルなものに侵食されてしまっているような気がする。不必要に瑣末なものを突つき出して、それを「意味あるもの」のように見せてもいるが、やはりそれは「そんなことをしてすんでいられる」という余裕の賜物ではないのだろうか。

大部屋を希望したらナースステーションの横で呼び出し音やらがやたらとうるさく、若い看護師達は女子校の文化祭のように騒がしい。

「名のある作家が入院して大部屋なんかに入っちゃいけません」などと、昔風の人は言ったりしますが、私はさして「名のある作家」でもなく、「一人個室に入って己が病と向かい合う」という趣味もないので、「この際、“病人”というものがどういうものか知っといた方がトクになる」と思って、差額ベッド料なしの大部屋――六人部屋を希望しました。

同室患者の呻き声

その苦痛の声に対する同情心というのが、一向に生まれないのです。下手をすれば、「死ねばいいのに」と、胸の中で毒づいています。そんな毒づき方をするから罰が当たって、この私にも、「ヒィイ、痛いよ、苦しいよ」という状態は襲って来たりもするのですが、それでも他人の苦痛には同情心が湧きません。なんでかというと、その理由ははっきりしていて、大袈裟な苦痛の声を上げるジーさんの声が、みんな「エラソー」なのです。(略)
[入院しても]「社会的地位」や「体面」を身につけたまま横になっている人が、結構います。そういう人の苦痛の声は、エラソーなオヤジがデスクの向こうから部下を「バカヤロー」呼ばわりして怒鳴りつけるようで、とても不快です。「苦しい時くらい、社会的な地位や体面なんか捨てちゃえばいいのに。その方が苦痛だって少しは減るだろうに」と、私なんかは思うのですが、「苦しんでいるその時に於いてさえもエラソー」というオッサンは、結構いるのです。
(略)
 私なんかは、病院の先生に「入院」と言われた途端に、「じゃ生き方少し変えよう」と思っちゃった人間なので、入院しても「まんま」の人間が、実はよく分かりません。エラソーなのは男だけじゃなくて、女の人にもいます。年を取ってエラソーな女の人は、「私が病気であるのは不本意だ」というような、不快そうな表情をいつもしている。

病床で島崎藤村『夜明け前』を読んでみたら

びっくりした。こちらの勝手な思い込みを引っくり返して、『夜明け前』はショッキングでさえあった。
 まずそれは、「没落する旧家のドロドロ」を書いたものではない。黒船の来航によって始まる幕末から明治の動乱――というか変転を中仙道木曽の馬籠宿を中心にして書いたものである。
(略)
『夜明け前』のすごさは、黒船来航から王政復古実現に至るまでの日本の騒々しさをきれいに相対化してしまったことにある。江戸と京都を結ぶ街道の中間地点にある馬籠には、直接的な「動乱」や「事件」は起こらない。ただ、江戸から京へ、京から江戸へ、なんらかの事態が通り過ぎて行く。
(略)
[藤村の父がモデルの主人公青山半蔵は平田篤胤を信奉している]
本居宣長を源流とする平田篤胤復古主義だが、「建武中興へ戻れ」などという中途半端なことは言わない。「戻るのなら、人の世の天皇の最初とされる神武天皇へまで戻れ」と言うのが、平田篤胤の思想でもある。(略)
平田派の人間は、「徳川を倒す武士が権力を得れば、武士の常で徳川幕府の二の舞になる」と考える。そして、「戻るなら、日本に於ける人類の始まりにまで遡れ」と言う。(略)
その思想には「戻ってどうするのか、戻るとどうなるのか」という具体的なものがゼロだからだ。「そこへ戻れば、すべてがOKになる」だけではどうにもならない。「役立たずの思想」というのはこういうものでもあろうかと思われて、「復古」というモチベーションだけを倒幕運動に利用された平田篤胤の思想は、新しく出来た明治維新政府によって簡単に裏切られてしまう。(略)
[挫折した半蔵は]
 力を失った平田篤胤の思想の痕跡をフラフラと求め、庄屋としてのあり方を放念してしまう。(略)
 定年退職ですることをなくした男が、若い頃に彼を支えた思想の中に再び迷い込んで行って、現実の中で空回りをする。あるいは、具体性を欠いた「思想」というものに全幅の信頼を置いた男が、その思想が風化する時代の中で儚いものに変わって行く。私にとって『夜明け前』は、そんな現代的な物語だ。

「東大話法」

「東大話法」の中には、《どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。》というのがあって、私なんかはこれが得意で、いつでもメチャクチャなことばかり言っている。
 私の場合は「ふざけた口をきく」「メチャクチャなことを言っている」という自覚があるけれども、「東大話法」の使い手達は、「ふざけた口をきいている」とか「メチャクチャなことを言っている」という自覚がない。真面目な顔をして辻棲の合わないことを言っているから、タチが悪い。昔の私は、そういう人達は「頭が悪いから自分達の論理的欠陥やズサンさに気がつかないんだ」と思っていたが(まだ若くてウブだったので)、どうもそういうものではない。とてつもなくタチが悪い。
 そういう人を相手に論争をしても、絶対に勝てない。それはもう理屈ではない。相手は、「私はあなたよりも優位で強固な立場の上にいますが、あなたにはそういうお立場がおありですか? 私を納得させるような、どこかで正式に公認されている立場ですよ」というような立ちはだかり方をするので、名刺も持たない自由業の私には歯が立たない。
(略)
 立場主義者の人達は、「私は言っています」の一方通行だから、言われた相手に理解されなくても困らない。「分かりません」と言って質問をすれば、「この相手はバカだな」とジャッジする。(略)「人の理解」を前提にしていないから、言いっ放しで、言いっ放しにされた人間は「あれはバカだから放っとけばいい」という括りに入れられる。
 原発問題で一番危ないのは、原子力発電所の設備より先に、それを操る人達の頭の中で、それを言ったら、日本中そういう人だらけだ(略)勉強すればするほど「人の話が聞けなくなる」という人達が増えてしまうのは問題じゃないだろうか。

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