臆病者のための裁判入門・その2

前日のつづき。

地裁敗訴

人手不足を補うために、裁判所では、実務経験5年以上の判事補に「特例」として判事と同じ権限を与えることが常態化しているのだ。
 私たちの事件を簡裁から回された民事部は、特例判事補になったばかりの若い裁判官に面倒な話を押しつけたのだった。

 判決は敗訴だったが、私はこの若い裁判官になんの悪印象も持っていない。裁判官は外国人の本人訴訟という特異な状況を考慮して、トムが不利にならないよう、書面の提出と和解協議だけで訴訟が進行するよう配慮してくれたし、私が和解の場に同席することも認めてくれた。
 「裁判官は傲慢だ」とか「世間を知らない」とかよくいわれるが、今回の裁判所体験を通じて私は、日本の裁判官は総じて優秀で公正だと感じた。
 そもそも日本の裁判所は、外国人が本人訴訟をするような仕組みになってはいない。それにもかかわらず彼らは、できるかぎりトムの便宜を図ろうと努力してくれた。それと同時に、自分に面倒がふりかからないようあれこれ画策したわけだが、だからといって外国人というだけで門前払いされるような不愉快な体験はいちどもなかった。

「揚げ足」と「心残り」

新井さんは、「事故に遭ったのはトムなのだから、彼にとっていちばんいいように処理してほしい」とこたえたはずだという。新井さんが強調したのは、「自分はトムの友人であり、彼が保険金の請求を望んでいるのに、それを無視してA損保と自損自弁で合意することはぜったいにない」ということだった。(略)
 ところが裁判になると、陳述書で栗本は、「新井さんからは電話で自損自弁の同意を得た」と主張しはじめた。
(略)
判決では、この部分を取り上げ、栗本が新井さんから自損自弁の同意を得たという陳述の「信用性を直ちに否定することはできない」とした。また新井さんの陳述書に対しては、最初は栗本との会話を覚えていないといいながら、後になって自損自弁の合意を否定するのは不合理で、「(陳述を)採用することはできない」とされた。

[判決文を見せた弁護士は]あっさりといった。
「なるほど、ここで揚げ足をとられたんですね」
 彼によると、判決文というのは最初に結論があって、それに合わせてつじつまを合わせていくものだという。裁判所は、つねに揚げ足をとる機会を狙っている。その隙を見せないように論証することが、弁護士の腕の見せどころなのだ。

私たちが「揚げ足をとられた」のは、最初にA損保に送った文書で「新井さんにはあいまいな記憶しかない」と記したことだ。プロの法律家ならぜったいにこんな脇の甘いことはしないだろう。(略)
 そもそも裁判で事実認定が問題になったのは、A損保が顧客と担当者の会話を録音するなどの証拠保全措置をいっさいとっていないからだ。(略)
私たちはあまりにも素人だったので、「法律の世界では、相手が嘘をつくことを前提として行動しなくてはならない」ということにまったく気がつかなかった。これが第一の反省点だ。

高裁控訴にあたり、ゴビンダさんの弁護士・佃さんにすがる。さすがプロ、T海上の記録に栗本からトムに自損自弁で納得してもらったとの説明があったことを発見。

 主任裁判官はきわめて聡明な女性だった。そして明らかに、トムに同情していた。彼女はこれが、日本で暮らす外国人が、日本語の能力や保険の知識がじゅうぶんでないために、大手損保会社の担当者に嘘をつかれた悪質な事件であることを正確に理解していた。
 地裁の判決は、A損保は保険金を払うのだからそれ以上の法的義務はない、というものだった。控訴理由書では、これでは万引きを見つかっても商品を棚に戻せばそれで許されるといっているのと同じだと批判した。高裁は私たちの主張に理があることを認め、A損保に対してきわめて厳しい態度を示していた。
[形勢不利とみたA損保は20万円で和解に方針転換](略)
このときのトムのこたえは立派だった。
 「自分はずっと、A損保に対して和解での解決を求めてきた。だが彼らは、いっさいの金銭支払いはできないとして私の要求を拒否し、事故から3年ちかく経ってしまった。私としては、もはやA損保から解決金をもらおうとは思わない。たとえ数万円の損害賠償でもいいから、この事件に対する日本の裁判所の判断が知りたい」(略)
 わずか12万円の保険金請求で、それも実損害のない事件なのに、高裁で3人もの証人尋問をするのはきわめて異例なことだという。(略)
 だが証人尋問の当日には、さらなる驚きが待っていた。

 トムが事故のときに乗っていたバイクには搭乗者傷害保険が付帯していて、それによって保険金の請求が可能になった。だがこれは車両保険ではないから、A損保が直接、トムの物損に対して損害を賠償するわけではない。
 保険契約によれば、トムが保険金を請求すると、A損保は相手方(マセラティのドライバー)に対して、合意した過失割合に基づいて損害額の2割(50万円)を支払う。それと同時に、相手方の損害保険会社であるT海上が、トムに物損の8割(12万円)を保険金として支払うことになる。
 このように考えれば、トムの保険金を払うのはT海上なのだから、債権債務関係はトムとT海上との間にあり、法律的にはA損保にはトムに対する債務はない。(略)
この論理では、A損保には債務がないのだから、そもそもトムには訴える理由がなくなる。
 佃弁護士によれば、高裁の判事がこのことに気づいたのは、証人尋問の直前だったという。そこで急遽、A損保に保険契約の開示を求め、保険金がT海上からトムに支払われるものであることを確認した。(略)
 このようにして、最後の最後で私たちは掌中にしていたはずの勝訴の判決を逃すことになった。

それでも裁判長はA損保の対応には問題があり、A損保に和解で解決すること求めるとした。

裁判所が法廷の場で和解を勧告したばかりか金額まで明示することは「きわめて異例」のことであり、裁判長はA損保に対し、「その意味を重く受け止めていただきたい」とまで述べた。
 形式的には和解の勧告だが、実質的には判決と同等の重みがある、といっているのは明らかだった。
(略)
法律の専門家がこの和解内容を知れば裁判所がどのような判断をしたのかは一目瞭然だ、との説明があった。
 これで、裁判所の立場がはっきりした。判決で勝たせることはできないが、和解で実質勝訴にしたのだから、それで矛を収めるように、というのだ。

判決にすれば勝てたA損保がなぜ和解にしたか

「相手が和解を断ったらどうなるのか」という栗本の質問に、「最高裁に持っていかれて、そこで(嘘をついたかどうか)事実認定されるとやっかいだ」と説明していたという。(略)
 A損保がもっとも怖れていたのは、「担当者が嘘をついて事故の被害者を騙していた」と高裁で事実認定されることだった。
(略)
 判決の結論はどうであれ、「担当者が保険金を請求させないよう嘘をついていた」と高裁判決に書かれたら、それだけでも大きな不祥事だ。業界関係者のあいだでは当然話題になるだろうし、判決の該当部分だけを取り出して報道するメディアがあるかもしれない。(略)
[仮に最高裁で逆転勝訴すれば]
A損保にとってその衝撃は甚大なものになる。最高裁が、「交通事故の被害者を担当者が騙していた」としてA損保に損害賠償を命じたなら、金融庁の処分は免れず経営陣の首が飛ぶような事態になるかもしれない。「どんな弁護士だってそんなリスクはとれませんよ」と、佃弁護士はいった。
(略)そのダメージを考えれば、和解は高裁がA損保を救済したということでもある。
[高裁は三方一両損で収めた]