もう一つのスイス史

スイス人は「敬虔なドイツ人」?

彼らはあくまでも、自分たちの「国語」はスイスドイツ語とみなした。貴族からも恐れられた無骨な農民の盟約者団は、外国の支配者に対しても自国のドイツ語を臆面なく強要した。1516年のサヴォワとの傭兵契約はラテン語でなくドイツ語で締結すると主張したし、中世時代の法秩序とラテン伝統の最高位にあった法王とすら、ドイツ語による文書交換を要求した。
(略)
 ドイツ語それもスイスドイツ語こそ自国語と誇る盟約者たちには、フランス王という強力な力添えがあった。なぜか? 時代のフィルムをもう一度巻き戻してみよう。
 15世紀半ば、盟約者団はヨーロッパの一大勢力にのしあがった。(略)彼ら雇われ戦士に対する国際傭兵市場の需要は高まり、市場価格も釣り上がった。
 このスイス戦士にとりわけ関心を抱いたのがフランス王であった。(略)たった1500人のスイス人戦士は4万人のフランス軍相手に数時間にわたり抗戦した。フランス軍の最高司令官であった皇太子(後のルイ11世)がこのスイス人戦士に感銘し、フランス王室のためにこの勇猛な戦士団を利用する決心をしたと伝えられる。(略)フランスと盟約者団の協約は19世紀まで続いた。この間、フランス王のために数多くのスイス人傭兵が命を落とした。(略)
当初、ルイ11世はスイス人の「ドイツ気質」の熱烈な擁護者だったようだ。1486年の王政令でスイス傭兵隊からフランス語を話す者や「ドイツ人」でない者は一掃され、闖入者には絞首刑が科せられた。王はドイツ語を話す者だけをスイス人と認め、しかもドイツ人やオーストリア人が紛れ込んでスイス兵団の戦闘力が損なわれないよう厳しく見張った。
 フランス王のゲルマン化令は「ブランド保護」のためで、スイス傭兵は優良商品扱いされたのである。
(略)
 ところがスイスの多言語化が進むにつれ「スイス=スイスドイツ語」とは言えなくなった。おまけにフランス王がスイス傭兵の増員を必要とした場合、言語規定はかえって障害となった。(略)
[よそ者も採用されるようになり]
 スイス連隊ではこうしてしだいにフランス語が話されるようになった。さらにヨーロッパでは17世紀以降フランス語とフランス文化の威信が高まり、言語の才に乏しいドイツ語圈スイス人も、日々の糧を与えてくれるフランス王の言葉を下手ながら話す努力をした。

ツヴィングリとルターの対立は神学上の対立の前に

言語上の「解読問題」のせいであった。ルターが自分の見解の根拠を述べるために、聖書のある箇所を引用したところ、ツヴィングリは「ノー、ノー、ルター博士、聖書のこの箇所は貴殿の首をへし折りますぞ!」と反駁した。ツヴィングリは「身を破滅させることになる」というような意昧で言ったのだが、こんな言い回しを知らないルターは、「ここはヘッセンであり、簡単に命を危険にさらすようなスイスではない」、と応じた。(略)
 ルターとツヴィングリの訣別後、チューリヒ人は聖書の独自出版に踏み切った。しかしルター訳とは言語的に相当な違いがあった。チューリヒの改革者たちの言葉は、ルターに言わせれば「がさつで粗野なドイツ語」、ドイツ人のドイツ語とスイス人のドイツ語の違いはこうして明白となった。