完全競争論の世界に敗者はいない

コンペティションとエミュレーションという「二つの競争」の違い。
いきなりあとがきから引用しますよ、スマンソン。

あとがき

コンペティションは「負けないようにする」競争観であるのにたいし、エミュレーションは「勝とうとする」競争観であると言っていいでしょう。
 この二つは、けっして同じものではありません。勝つことのできる人は、最終的にはひとりしかいませんが、負けなかった人は、競争に参加した人全員であってもよいのです。完全競争論の世界は、一見、荒唐無稽なものに見えますが、結果として、そこには競争の勝者というものがあらわれず、同時に競争の敗者というものも、ひとりとしてあらわれませんでした。その意味で、完全競争論は文字どおり、コンペテイションとしての競争観を体現したものであり、そこには確かに、競争の目的を、勝敗の決定とは別の次元にもとめようとする、ひとつの思想的結晶が感じられたのでした。

淘汰を経て残るのは企業ではなく「情報」

市場の効率化が不効率な企業の淘汰によってはかられるものとすれば、競争力に劣る企業が淘汰されていくにしたがい、市場は早晩、独占に近づくはずです。(略)それはもはや多数による競争的な市場とは言えなくなるわけですから、効率化と競争は、もともと矛盾していたことになるのではないでしょうか。
 事実、ある時期までの経済学は、この問題を非常に深刻な問題として受け止めていました。この矛盾を避けるには、独占や寡占の形成と同時に、これを法的な強制力をもって解体するしかないわけですが、それはすべての企業に向かって、「一生懸命、競争しなさい。そして競争に勝ったら、文句を言わずに解体されなさい」と呼びかけるようなものですから、これでは真面目に競争する企業がいなくなってしまいます。(略)
 しかし現在の経済学は、こうした考えかたを必ずしもとりません。というのは、淘汰をくぐりぬけて生き残ったのは、優秀な企業の生産方法であり、経営手法なのであって、企業それ自身ではないと考えるからです。競争を通じて明らかになるのは、どの企業がもっとも優秀だったかということではなくて、こういう品質のものを、このくらいの価格で提供しない限り、いまの消費者は反応してこないという一種の「情報」なのであって、それを実現するには、どのような生産技術や、どのような経営手法を身につける必要があるかという、これもまた一種の「情報」なのです。
(略)
 つまり、競争の成果は、独占企業の支配的な供給によって市場に還元されるのではなく、競合企業による「模倣」を通じて広く普及していくものと、現在の競争論では考えるはずです。それゆえに、競争と独占の矛盾も生じないのです。市場競争とは、勝者を決めるためのものではありません。誰が勝つかということは、私たちにとって、あるいは経済学にとっては、まったくどうでもよいことです。そうではなく、市場は競争を通じて、資源をもっとも有効に活用できる技術と手法を手繰りだすのであって、それを、企業のインセンティヴを維持しながら、どうやって社会全体の共有物に変えていくかを考えるのが、経済学の課題だと考えられているのです。

功利主義VS新自由主義のはずが

 功利主義は、誰かが不利益をこうむったとしても、他の誰かがそれを上回る利益を得たのであれば(その利益で不利益をカバーすることができるはずだから)、それは社会的には正当化されてよいとする、あくまで社会単位でものどとを考える思想です。そして、それでは不利益をこうむる人の、個人としての尊厳が軽んじられてしまうのではないかと言って問題提起をしたのが、そもそもの新自由主義だったはずなのです。
 その主張はやがて、個人と個人を量的に比較する方法一般への懐疑につながり、功利主義にもとづく介入政策の基礎論(厚生経済学)への全面的な批判に発展して、不介入主義を説く市場主義へと発展していくわけですが、その新自由主義の大きな影響下にあるはずの積極的競争論が、いま述べたような功利主義的な論法を一方で使いつづけてきたことには、たんに興味深いと言うより、思想としてのある種の不徹底さを感じなくもありません。そして私見では、こうしたあたりに現代競争論の落とし穴があるので、それについては次章から検討を始めます。

てなところから始まって、色々あって、第4章ではアダム・スミスコンペティションとエミュレーションをどう使い分けていたかが説明されます。
以下、いきなり最終章。
 

フーコーであれば……

 ミシェル・フーコーであれば、次のようなことを言うかもしれません。
 競争とは、受益者のため、当事者のためを装いながら、じつのところ、競争を通じてあるルールを浸透させようとする「統治者」のためにあるのだと。(略)
 それまでうえからの叱咤と威嚇によって、かろうじて維持してきた動機づけを、競争心という横の関係が自動的に与えてくれるようになります。統治者が求めてやまない労働の成果も、ほおっておくだけで、彼ら・彼女らが競って上げるようになるでしょう。(略)
 そしてなにより、ルール違反にいちばん厳しくなるのが、それによって不利益を彼ることになる彼ら・彼女ら本人になるでしょう。統治者が一人ひとりを直接監視しなくても、一人ひとりが互いに互いを監視し合って、ひとりでにルールが維持されるようになるでしょう。

コンペティションの思想

エミュレーション的な要素を強めている現代の競争論は、競争を競い合いの目線で捉え、市場淘汰の過程についても、競い合いのなかから一時的な「勝者」があらわれるにすぎないこととして、すこぶる肯定的な評価をするようになっています。
 「淘汰」とは本来コンペティションの概念で、競争のひとつの「結果」あるいは「終点」を意味する概念ですから、「終点」のない過程として競争を捉えるエミュレーションが、本来語るべき概念ではない
(略)
 それにたいして、スミス的なコンペティションは、そうした勝者や強者が一時的にせよあらわれることを当然視するものではなく、むしろその出現自体をむずかしくするための抑制装置として競争を捉えています。各人が各人の適性に応じて人生をまっとうする自由を担保するものとして、競争を捉えていたと言ってもいいでしょう。
(略)
 すなわちそれは、同業者に後れはとるまいと必死に努力はするが、あえてそれ以上を求めようとはしない、そういう人びとで作られる社会の姿です。そういう社会のありかたと整合的な競争観が、本書の考えてきたコンペティションの思想です。
 あるいは、次のように言ってもいいでしょう。
 他人の領分を侵そうとしたわけでもなく、自分の生業に手を抜いてきたわけでもないのに、他にもっと優れた人があらわれたから、もっと要領のいい方法が見つかったから、だからそれに及ばないあなたは退場するべきなのだ、そうすることが多くの人たちのためなのだ、というそのかぎりではじつにもっともな理屈よりも、人びとが生業をもって存在するということ、人びとが自己の領分に自己の尊厳をかけて生きようとすること、そうしたささやかな生のありかたに、絶対的な価値を見いだそうとする思想が、経済学の本来の競争観だったと思うのです。
 競争は誰のために? ともし問われたとしたら、それは、これといった強みをもたないただの人のためにある。私たちは、そう答えたいと思います。