ルジャンドルとの対話

わたしは社会、文化、また文明といったものと等価になるような概念として〈テクスト〉というものを提唱してきました。(略)
わたしたちは冷凍商品めいた、地球のどこでも消費できるような理論を生産してきた。そこから西洋の知識人に一種の利権が生じるのでもあります。それは、とどのつまり、暗黙のうちにせよ、西洋以外の世界に対して、わたしたちの思考にしたがうか、「停滞した」まま留まるかのどちらかだと迫ることだからです。結局はそうなのです。これに対して〈テクスト〉という概念からすると、あらゆる文明は平等に扱われることになります。表象の生、言語の論理の前にあって、わたしたちはみな平等だからです。

ルジャンドルとの対話

ルジャンドルとの対話

権力

 権力の問いについて、西洋人もかつては非常に凝った考えをもっていました。中世ラテンの専門用語では「auctoritas」と「potestas」というふたつが区別されていた。前者を「権威」と訳してよいでしょう。ただ、この場合、権威とは保証を与える者が位置する場所のことです。それから後者は「権力」を執行するということです。会社でいえば、前者が最高経営責任者、後者が最高執行責任者にあたります。つまり、権力には複数の水準があるわけです。ということはまた、ひとつの論理がある。「auctoritas」というのはエンブレムの場所、保証を与える者の場所のことであり、そこから向こうは空虚なのです。こうして構造が問題となります。この構造の局面を、西洋は、古くから、とくにローマの法律主義から受け継いだ言葉で「宗教(religion)」と呼んできました。

国家

西洋にはローマ=教会法という巨大な構造体があります。これが西洋にとってはもうひとつの聖書を構成している。ローマ法、そして教皇庁を頂点とする教会システム。両者にまたがるこうした中世の構築物が近代の主要な制度を素描したのです。とくに国家という概念はそこから出てきた。しかし、それらすべてをまるで存在していないかのように思いなす、そうした錯誤のなかにわたしたちは置かれている。

ダンス

ダンスというのは、禁止の刻印を受けたものだからです。なぜそんな刻印を受けたのでしょうか。魔法や非理性的なものの抑圧という名目のもとで禁止の刻印を受けたのです。ダンスは空を飛ぶことと同じように禁止された。17世紀ドイツのイエズス会士で大学者であったアタナシウス・キルヒャーは、小さな飛行物体を作りました。すると、ローマから、あいつは自分でも空を飛ぼうとしているのではないかと疑いの目を向けられた。危うく袋叩きに遭うところだったのです。踊ること、飛ぶこと、それは侵犯的な素地をもった征服行為なのですね。

キリスト教

キリスト教は、本質的には規範を欠いた宗教だからです。キリスト教ユダヤ教に由来する。けれども、キリスト教ユダヤ教に固有の規範性を切り捨てました。だから、社会的な規則を欠いた状態にあったわけです。では、キリスト教はどこに自身の社会的、つまり規範的な支えを見出したのか。それがローマ法だったのです。この点をしっかり見なくてはなりません。教権はローマ法に接合された。それだから教権は帝権に似かようことになる。
(略)
わたしたちは、ビザンティンに対する否認に養われています。それがわたしたちの姿なのです。わたしたちには東方の政治文化というものがわからない。近代国家、強力な国家があり、それが世界中で、いわばクローニングされた制度として増殖していることは見えている。けれども、その母胎は見えていない。つまりキリスト教的な帝権が世俗化され、西洋による心理的支配を生み出しているということが見えていないのです。世界を己の制度モデルに改宗させるのは自身の当然の権利だという西洋の信仰、それはつまるところこうした盲目に由来している。