人権がもたらした差別

何故あっさり「女性の人権を創造する」としないのか不思議だぜと読まずに済ませたフェミ本、返却前にフラッシュ引用。

人権を創造する

人権を創造する

公開処刑の是非

 伝統的な理解においては、身体の苦痛は個々の囚人に全面的に属するものではなかった。それらの苦痛は、共同体の救済と修復というより高次の宗教的・政治的目的をもっていた。身体は権威を刻み込むために切断されたり、精神的・政治的・宗教的秩序を回復するために破壊されたり、焼かれたりすることがありえたのである。いいかえるならば、犯罪者は、その苦しみが共同体に完全性を回復させ、国家に秩序を回復させることになる一種の生け贄として役立ったのである。(略)
 処罰が生け贄の儀式だったために、お祭り気分が恐怖にともない、ときとして恐怖を凌駕した。公開処刑は、犯罪の危害からの共同体の回復を祝うために何千もの人びとをあつめた。(略)
イギリスの教養層は、タイバーンでの処刑にかならずともなった「もっとも驚くべき酩酊と放蕩の光景」への非難をますますはっきりと表明した。(略)
 苦痛、処罰、そして苦痛を公開の見せ物とすることはすべて、18世紀の後半にはその宗教的支えを失った(略)
ベッカリーアは刑罰の緩和に賛成する議論をしたけれども(略)処罰は公開でなされるべきだと主張していた。彼にとって人前で見せることは、法の透明性を保証するものだったのである。(略)
刑罰は、罪を償うよりもむしろ、社会に「負債」を返済するものと考えられるべきであり、切断された身体からはどのような補償もなされえないことは明白だった。(略)
このような見解の変化の一事例として、イギリスの北アメリカ植民地の裁判官の多くは、財産にたいする犯罪にたいして鞭打ちの刑よりもむしろ罰金を科しはじめたのだった。(略)
イギリスの法律家ウィリアム・イーデンは、犯罪者の死体を人前にさらすことをこう告発した。「畑の畦のかかしのように、われわれはおたがい死体を腐敗させるままにしており、絞首台は人間の死体でいっぱいだ。そのようなものに無理やり慣れ親しませることは、感情のはたらきを鈍化させ、民衆の好意的な偏見を破壊する以外の効果をもちえないことを、ゆめゆめ疑ってはいけない」と。1787年までにベンジャミン・ラッシュは、最後の疑念さえはねつけることができた。「犯罪者の矯正は公開処刑によってはけっして実現されえない」と彼はきっぱり断言した。公開処刑はあらゆる恥の感覚を破壊し、態度の変化をなんらうみださず、犯罪の抑止として働くどころか観衆に反対の効果をおよぼす、と。ラッシュ医師は、死刑に反対する点ではベッカリーアに同意したが、刑罰は私的に、監獄の塀の向こう側で執行されるべきものであり、犯罪者の更正、つまり犯罪者の社会復帰と、「あらゆる人間にとてきわめて重要な」彼個人の自由の復活をめざしてなされるべきだ、と論じたとき、ベッカリーアとはちがう見解をしめしたのである。

ルソー、人権ブームにうんざりするの巻

1760年代初頭に「人間の権利」にかんする広範な関心をかき立てたのち、ルソー自身は人権への熱がさめた。自分の宗教的信念について1769年1月に書いた長大な手紙において、ルソーは、「「人間性」というこの美しいことば」が過度に使用されていることに不平をのべた。俗っぽい物知り、「もっとも人間味のない人びと」が、そのことばをじつにしばしば引き合いにだすので、その言葉は「無味乾燥な、ばかげたものにさえなった」。人間性は書物の紙面に印刷されるだけでなく、人間の心に刻みつけられねばならない、とルソーは強調したのだ。「人間の権利」という語句の考案者は、アメリカの独立の影響のすべてがわかるまでは生きなかった。

ナポレオン

ナポレオンは、自分が支配した地域ではどこでも、宗教的寛容と宗教的少数派にたいする平等な市民的・政治的権利を導入した。しかし彼は、フランス本国ではあらゆる人の言論の自由をきびしく制限し、出版の自由を基本的に排除した。フランスの皇帝は、「人間は生まれながらに自由なのではない。……自由は、大衆よりも高貴な知性を付与された少数の人びとによって感じられる欲求である。したがって自由は、罰を受けることなく抑圧することが可能なのだ。他方、平等は大衆を喜ばせる」と信じていた。彼の考えでは、フランス人は真の自由を望んではいなかったのであり、ただ社会の頂点に昇りつめることを切望していただけなのである。彼らは、法的平等を守るために政治的権利を犠牲にするだろう、と。(略)
 ナポレオンは、人間の権利と伝統的な位階社会との混成物をつくりだそうとしたが、しかしけっきょく、双方の側が混成の所産を拒絶した。ナポレオンは、宗教的寛容、封建制の廃止、そして法の前での平等をあまりにも強調したために伝統主義者を満足させることができなかったし、あまりにも多くの政治的自由を切り詰めたためにもう一方の側にもアピールすることができなかったのである。

人権が招いた、差別の生物学的説明

 ナショナリズムが民族性とより密接にからみあうようになるにつれて、差別を生物学的に説明することがますます重視されるようになっていった。(略)
要するに、権利がけっして普遍的でも平等でも生得のものでもないとすれば、その理由があたえられなければならなかったのである。その結果として19世紀は、差別の生物学的説明の急激な増加を目の当たりにすることになった。
 したがって皮肉にも、まさに人権にかんする考え方そのものが、より悪質なかたちの性差別や人種主義、さらに反ユダヤ主義への扉を、はからずもひらいてしまったのである。じっさい、あらゆる人間の生得的な平等についての徹底的な主張が、生得的な差異にかんする同様に全面的な主張をひきだし、人権への伝統的な反対者よりも強力で危険をはらむ、新種の反対者をうみだした。これらのあたらしい形態の人種主義や反ユダヤ主義、そして性差別は、人間の差異が生得のものであることに生物学的な説明を提供した。

サド、人権の不吉な双生児

18世紀のなかば以後、まさに人権という観念が出現したために、そのような緊張がいっそうはげしいものとなった。奴隷制、司法手続きとしての拷問、そして残酷刑に反対する18世紀後半の運動家たちはみな、感情的に悲痛な語り口で残酷さをきわだたせた。(略)
ふつうの少女たちの労苦に人の注意をつよく引きつけた小説は、18世紀末までにより不気味な他の形態をとるようになった。マシュー・ルイスの『修道士』を典型例とするゴシック小説は、近親相姦、強姦、拷問、そして殺人のシーンを特色にしたのであり、これらの煽情的なシーンは、内面の感情や道徳的結果の学習よりもむしろ、ますます小説の力の入れどころになったようにみえた。サド侯爵はゴシック小説をもう一歩すすめて、苦しみにかんするあからさまなポルノグラフィに仕立て、リチャードソンの『クラリッサ』のような以前の小説の長い、延々とつづく誘惑のシーンを切り詰めて、故意に性的な核心部分だけを残したのだった。サドは、以前の小説に隠されていた意味をあらわにすることをねらったのだ、つまり、愛や共感や慈悲心よりもむしろ、セックスや支配や苦しみや権力を、である。彼にとって「自然権」とは、できるだけ大きな権力を手にして、その権力を他者にふるうことを楽しむ権利だけをたんに意味していた。サドが彼の小説のほほすべてをフランス革命期の1790年代に書いたのは、なんら偶然ではないのである。
 人権の観念は、そのようにやつぎばやに不吉な双生児をもたらしたのだ。普遍的で、平等で、生得の権利への要求は、新しい、ときとして狂信的な差別のイデオロギーの発達を刺激した。共感的な理解を獲得する新しい様式は、暴力にかんする煽情主義に道をひらいた。