新種発見に挑んだ冒険者たち

ジョン・ハンター「近代外科学の父」

彼は一生の間に「数千」の人間の死体、500種以上の動物を解剖した。そのため彼は墓から死体を盗む死体泥棒や種を追い求める人たちの上得意になった。そして死体から学んだことをすぐに生きているものに適用するようになった。

ハンターは、見世物小屋で見世物になっていた人間のあとを仲介者につけさせていた。それはチャールズ・バーンというアイルランドの巨人で、死の床にいたバーンは解剖室送りにならないように助けてくれと友人たちに懇願した。だが彼らはハンターの仲介者の賄賂を受け取った。仲介者は死体をこっそりアールズコートに運び、ハンターは銅製の大釜で死体を煮て肉を取り除いたと言われている。[現在もその骨格は展示されている](略)
ハンターの好奇心は動物を愛するドリトル先生におあつらえ向きのモデルになった(フランケンシュタイン博士の方がぴったりかもしかないが)。晩年に彼が住んでいたレスター・スクウェアの家は(略)ジキル博士とハイド氏の家のモデルにもなったと思われる。昼間には、治療を求める裕福な患者が、ハンターが居住し手術を行っていた優雅な表の館を訪れた。夜になると、裏にある薄汚れた館が跳ね橋を下ろして解剖室に死体を受け入れた。(略)
ハンターは骨が成長する方法、胎児の睾丸が下降してくる仕方、嗅神経が通る道筋を初めて実証した。すぐ近くに住んでいた詩人のウィリアム・ブレイクは、薄情にも血に飢えた「はらわた裂きのジャック」として彼をフィクション化したけれども、ハンターの研究はしばしば、不必要な手術を回避する方法に重点的に向けられていた。

リンネウス

彼は創造論の支持者であるばかりでなく「新しいアダム」でもあった。創造物を整理してその各部分に適切な名前を与えるように神が自分を選んだものと、彼は信じていた。(略)
彼は顕花植物を雄しべと雌しべ、つまり雄と雌の部分の数で分類した。(略)リンネウスの方法は、花をのぞき込んで数えることができる人ならば誰にでも、瞬時に植物の世界を開いた。(略)
リンネウスは抜け目なく、この分類の新方式を性的なほのめかしで少々味付けした。彼は花弁のことを、「花嫁のベッド」で、香しく「かわいいベッドカーテン」が掛かり、「花婿が愛する花嫁を抱擁するときを」待っていると説明した(略)
セックスは間違いなく新参者を植物学の魅力に引きつけた。
[分類法はそのわかりやすさで驚異的に広がった]
(略)
リンネウスは地元の田園地方へと採集目的の小旅行に定期的に繰り出し、一回に最高三〇〇人の学生が参加した。(略)一日の終わりには小太鼓や狩猟ラッパが、「リンネウス万歳」という叫び声と共に彼らの喜びに満ちた帰還を告げ、それは、やっかんだウプサラ大学の同僚が大学職員を焚きつけて止めさせるまで続いた。
 リンネウスには明らかに喜びを伝染させる才覚があり、それは明らかに反対のこと、秩序を極端に求めることと奇妙に組み合わさっていた。
(略)
個人的なところでは、喜びが時には見失われて暗く困惑した疑いの気持ちが表面化した。たとえば日付のないある日記では、花の生殖部分に関する喜びの底に明らかに横たわる性的嫌悪に落ち込んでいる。女性嫌いというだけでなく、神から与えられた我々の特性についての深い疑念も、そこでは表明されている。「ああ我々はなんという素晴らしい動物なのだろうか。世界中のその他全部のものが我々のために創造されているのだ。我々は汚らしい場所で泡立つ欲望の一滴から作りだされる。我々は大小便の間の管から生まれる。我々は最も卑劣な出口を頭から通ってこの世に放り出される。我々は裸で震えながら地上に放り出され、それは他のどの動物よりも惨めな状態だ。(略)我々の日々の仕事は、食物から汚らしい糞や臭い小便を作ることだ。最後には最高に悪臭を放つ死体になるしかない」

リンネウスvsビュフォン

ビュフォンを特別な存在にしたものは彼のスタイルばかりでなく、宗教的あるいは超自然的な説明を慎重に避けたところにもあった。(略)「甲虫の翅が折りたたまれる方法について神が忙殺される」と想像するのは馬鹿げていると考えた。彼は科学的に種を定義して、長い時間をかけて共に生殖する一群の動物であるとした。
 そのような正統説からの離脱は宗教的権威を怒らせた。(略)
進化の考えは持っていなかったが、種が生息地によって変形される様子について記述した。たとえばアメリカ両大陸では冷たく湿った気候によって人間を含む動物がより小さくなり退化したという誤った考えを信じた。(略)
[1740年代半ばの講演で]無秩序な自然界に人工的な秩序を押しつけようとする試みであるとして、彼はリンネウスの分類法を攻撃した。

「自然は気づかれることのない徐々の移行をもって進み、それゆえ自然はこれらの分割に関係することができない、なぜならば自然は一つの種から別の種へ、そしてしばしば一つの属から別の属へと、ほとんど気づかないほど、わずかずつ移行しているからである」と彼は書いた。
 彼は今日に至るまで科学者を悩ませている問題を指摘していた。リンネウスの分類法は、現代の形のものでさえも、完全と言うにはほど遠い。分類学名は新しい証拠の出現にあたって種を異なる属へ、あるいは全く違う目へと、しょっちゅう動かさざるを得ない。(略)
けれども発明したシステムにこれほど欠陥がありながら、リンネウスの名前は生き残った。一つには種名と属名による二名法が便利であったからだ。そしてもう一つ、リンネウスが特別に運がよかったからでもある。彼は神とか創造とかを考えていたけれども、そうして開発した初歩的な分類体系は、一世紀後に進化に関するダーウィンの新しい考え方に、よく適したものになっていた。
(略)
その一方で、ビュフォンは多数の新種に取り組む代わりの方法を提案しなかった。(略)
リンネウスは単なる収集家、そして分類屋だったのかもしれない。そしてビュフォンのような、生物間の関係や行動に対する洞察が、リンネウスに欠けていたことは間違いない。しかしビュフォンはどうしてか、近代のすべての科学者が理解している一つの点を見逃していた。つまり分類こそ必要な最初の一段階であることだ。自分が見ている種の行動について語り始める前に、まずその種が何であるかを知る必要がある。
 リンネウスに対する攻撃は主としてビュフォン自身を傷つけた。(略)熱心なリンネウス崇拝者がいるイギリスでは、『博物誌』の最初の訳本が現れるまでに二五年かかった。(略)一九七三年までビュフォンのすべての英語版では、リンネウスを攻撃する部分を含む前書きはすっぽり削除されていた。

明日につづく。