「ピュタゴラスの定理」の真実

ピュタゴラスの音楽

ピュタゴラスの音楽

数と抽象概念

紀元前4世紀、アリストテレスピュタゴラス派を研究していたとき、数と抽象概念を結びつける一覧を見つけた。6と8に何が結びつけられたのかは、アリストテレスは発見できなかったようだ。
1.心 2.意見 3.全体の数 4と9.正義 (略)10.完璧
 なぜ「心」が1で、「意見」が2になるのかを理解するのは難しくない。「正義」が二つあるのは、平方との関係による。ギリシア人は1を数とは考えなかった。「数」とは複数、1よりも大きいものを意味した。そこで、ギリシア人にとって、自然数の平方でいちばん小さいのは4だった。奇数の平方の最初の数は9なので、9も「正義」と結びつけられた(略)「結婚」(5)は、最初の偶数と奇数(2と3)の合計だった。7と「正しい時」、「しかるべき時期」との結びつきには、もっと広い意味でギリシア人の物の見方が表れている。人生には7がつきものだった。子供は子宮で七か月を過ごすと生まれることができ、生後七か月で歯が生え、十四歳で思春期になり、21歳で顎ひげが生えた。

ピュタゴラスの定理」

ピュタゴラスの定理」が最初はいつどうやって発見されたのかは誰も知らないが、それはピュタゴラスよりもずっと前のことだ。考古学者は、紀元前第二千年紀の前半に遡るメソポタミアの粘土板にこの定理を見つけている。ピュタゴラスの生きていた時代の千年も前だ。当時すでにこの定理はよく知られており、書記の学校で教えられていたほどだ。(略)
土地を思い描いてみよう。なんといっても、ピュタゴラスはサモス島のゲオモロイの家庭で育ったのであり、ゲオモロイという名称は、彼らの土地の区画法に由来するのだから。土地の小区画九つに、一六の小区画を加えると、二五の小区画の土地が得られる。図を描くとそれがわかる。

ピュタゴラスのイメージを損なう説もある。この定理をバビロニア人から学んでおきながら、自分が考えついたことにしたという説だ、ヘラクレイトスによると、ピュタゴラスは「誰よりも多くの探求を行ない、それら多くの書き物のなかから選び出して独自の叡智とした。ただの博学で、ごまかしにすぎない」というわけだ。

ピュタゴラス

紀元前三世紀に始まった偽ピュタゴラス本の作成は、いつのまにか徐々に広がり、紀元前一世紀には紛れもない一大産業になっていた。ピュタゴラスか最初期の弟子、あるいはピロラオスかアルキュタスが書いたという触れ込みの本の需要は絶えることなく、発行者も著述家もそれに応えようとしたのだ。ローマとアレクサンドリアでは、こうした書物が盛んに売買され、収集されていたが、それに飛びつくのは地元の読者だけではなかった。ローマで教育を受けたヌミディアのユバ二世は、とりわけ熱心な収集家だった。
(略)
ピュタゴラスの文献は数世紀にわたって現れ続け、たいへんな人気を博した。したがって、「ピュタゴラスの学説」の知識を得たつもりでも、それがじつは、ほんとうに古い素材に、プラトンアリストテレスを簡略化あるいは要約して合体させて、ストア派の思想をたっぷり混ぜ、そして(もっと後の本では)新プラトン主義の見方を加えたものであるという事実に気づいていなかったり、その事実を無視していたりすることもありえた。