荒川洋治の詩壇メッタ斬り

チラ見。ほのぼの淡々と昔の文学について語っている新聞掲載文が主体なのだけど、それに混じって結構disってる書下ろしが。

昭和の読書

昭和の読書

 すぐれた詩をかなりの数書いた人、つまり詩人として力のある人、好き嫌いではなく公平にものを見る人、そして批評の力だけではなく判断力をもつ人。これが詞華集の編者の条件だ。この10年ほどの間に、40代、50代の若手詩人によって戦後・現代の詞華集が何冊か出た。名前はあるが(せまい詩の世界では)、実はすぐれた詩をひとつも書いたことのない人、ことば上の革新的な仕事を十分にこころみたことのない人、書く詩が凡庸で、代表作ひとつもたない人。そんな人たちが選ぶので、詞華集も奇妙なものになる。
 詩の読者という立場でみると、詩の世界は、状況のない状態にある。動きがほとんどない。この20年ほど、一時代を画する詩人も現れていない。
 詩の才能のない人の数が、とても豊富になったのである。
 いま詩人たちが熱心にしていることは、いくつかある。自己満足と自己陶酔の朗読会(これをはじめた人はまず詩がだめになるのではなかろうか)。互いに傷つくのを避けるため、討論会はしない。うわべだけの国際交流(ただの観光旅行と、かたちだけの会議であることが多い。まったく不要なものだ)。保守的な仲間づくり(若い人たちに多い。他人との接触を嫌い、自分の詩を好きだといってくれる人とくっついているので、それ以外の人からの批判に弱い。保守的なので権威にも弱い)。確立しているのはこの三つである。
 盗作・俗用の詩人の活動を黙認したりとか、現実性のない戦後詩の検証の本や、ぶあついだけの人気詩人論の本を書くとか、こまかいだけで決定力のない惰性の詩論の書きっことか、ブログ仲間で互いの杜撰な詩をほめあってよろこぶとか。真剣さがどこにもない。
 書く詩は、単純なものが多い。類型的な語句や書き方に慣れ、そこに逃げ込む。現実の具体的なことがらにまみれて、苦しむ人は少ないのだ。論争ひとつないので、変化もない。みなで互いの詩をほめあう世界だ。こういうときに期待されるのは、詩論を書く人である。詩の内部にありながら、外側から見る力をもつ人たちだ。その人たちは、詩も書く。その詩は、何をかんちがいしているのか、自分の詩論とはまったく異なる無頼派ぶったもの。詩はロマン(詩のなかでいちばんつまらないところだ)なのだという考え方があるようで、いきなりしまりのないロマンチストになるのだ。読んでいて、おかしい。いつも書く詩論をそのまま行替えにしたほうがよほど詩になるのに、と思うのだが、詩と詩論が自分のなかで切り離されているのだ。ということは、どちらも、まがいものということになる。そういうものは人の心に届かない。結果的に、詩だけ書く人と同じ狭いところに入ってしまうので、役にたたない。こうして詩の世界は、詩を書く人だけの世界になり、衰滅の方向に行く。ぼくも書き手としてとても未熟であるから、批判をうけるべきもののひとりだが、詩の読者でもあるので、意見をもつことになる。詩人たちにも、詩誌の編集にも、天地をさかさにするくらいの思いきった意識改革が必要だろう。