スプーンと元素周期表

窒素、毒ガス

窒素から肥料を作り出すことに成功したフリッツ・ハーバー、しかし彼の本当の興味は爆薬のための安価なアンモニアだった。第一次大戦勃発後ドイツ軍の毒ガス戦部門に起用される。
ハーグ条約に縛られた軍部は、条約をどこまでも細かく読んで最終的に曲解することにし、「窒息性または有害性ガスの拡散のみを目的とした投射物の使用を禁止する」この条約は霰弾とガスを両方ばらまく砲弾を対象としていないと、着弾時に蒸発してガスになる液体臭素を充填した15センチ弾、別名「白い十字架」を開発。1万8000発をロシア軍にお見舞いするも、ロシアの寒さで臭化キシリルが凍って固体になり失敗。ハーバーは臭素に見切りを付け、塩素に着目。

[原子量が臭素の半分以下の塩素は]
体細胞をより機敏に攻撃できる。塩素は犠牲者の肌を黄や緑や黒に変色させ、目を洪水のような涙で覆う。実際、死に至る場合は肺に水がたまって溺死する。

1919年、大戦中に中断されていたノーベル賞の1918年化学賞を人工肥料発明で受賞するが、翌年国際戦犯として裁かれた。その後は大戦前に開発していた殺虫剤ツィクロンAで注目される。ユダヤ人ハーバーが国外追放された後も研究は続き、ツィクロンBは何百万人ものユダヤ人に浴びせられた。

ポロニウムポーランド

新元素の発見者として、キュリー夫妻は命名権を得た。この奇妙な放射性金属が呼び起こしたセンセーション(発見者の一人が女性だったからではない)を利用しようと、マリーは二人が単離した最初の元素を、存在しない祖国にちなんで――ポーランドラテン語名であるポロニアからポロニウムと名付けた。それまで政治的な意図をもって名付けられた元素はなく、マリーは自分の大胆な選択が世界の注目を集めて、ポーランド人による独立闘争に勢いを与えると思っていた。ところがさっぱりだった。その件について世間はちらっと見てあくびをしただけで、代わりにマリーの私生活の下世話なネタばかりを貪るように追いかけた。
(略)
苦難だらけの私生活を送っていたマリーが、ささやかな喜びを見出すときがやってきた。第一次大戦の激動とヨーロッパ列強の分裂でポーランドが復活し、ここ数世紀で初めて独立の喜びを味わったのだ。しかし、発見した最初の元素を彼女がポーランドにちなんで名付けたことはまったく貢献していない。それどころか、はやまった判断だったと言える。ポロニウムには金属としての用途がない。あまりにすぐ崩壊するので、逆にポーランドをあざける喩えになりかねなかったほどだ。またラテン語が過去のものとなった今、この名前が連想させるのはポロニアではなく、ハムレットから「こうるさい老いぼれ」呼ばわりされたポローニアスだ。もっと悪いことに、彼女が発見したもう一つの元素、ほのかに青く光るラジウムは、たちまち世界中で一般消費者向けの製品に使われだした。
(略)
ポーランドを何度も征服したロシアだけが、今でもわざわざポロニウムを生産している。だからこそ、[元KGBのスパイはポロニウムをまぶした寿司で毛髪が抜け落ちた]

レントゲン

バリウムを塗ったスクリーンを立て、手近にあったものをクルックス管のそばに置いてビームを遮ってみた。本を置いてみたところ、彼はぎょっとした。しおり代わりに使っていた鍵の輪郭がスクリーンに映し出されているではないか。なぜか透視できたのである。なかに物を入れてふたを閉めた木箱で試しても、やはりなかの物が見えた。だが、彼が金属の塊を拾い上げた時に、実に恐ろしい、まったくもって黒魔術のような瞬間がやってきた――自分の手の骨が見えたのだ。この時レントゲンは幻覚の可能性を捨てた。自分が完全に狂ったと思ったのだった。彼がX線の発見をあれほど悩んだことは、今の私たちには微笑ましい。だが彼の立派な態度に注目されたい。何か斬新なものを発見したという都合のいい結論に飛びつかず、レントゲンは自分がどこかで間違いを起こしたと考えた。恥じ入った彼は自分の間違いを突き止めるため、みずからを実験室に閉じ込め、他人との接触を断って七週間もこもった。
(略)
彼は冗談で妻のベルタに「今やっている仕事が世間に知られたら、『レントゲンは老いて気が触れた!』と思われるに違いない」と漏らしている。その時レントゲンは50歳(略)
彼がどれほど自分を信用していなくても、クルックス管は相変わらずバリウムのスクリーンを毎回光らせた。そこで、レントゲンはこの現象を記録し始めた。(略)客観的な結果だけを追い求めた。そしてついに、少しだけ自信を持った彼は、ある日の午後にベルタを実験室に呼んでその手にX線を当てた。自分の骨を見て彼女はたじろいだ。死の予兆だと思ったからだ。それ以降、彼女は死の気配漂う夫の実験室に二度と入ろうとしなかったが、彼女の反応はレントゲンに計り知れない安堵をもたらした。(略)どれも自分の空想ではないと証明されたのだから。