発信するほど孤立するプチ・ルソー

最終章からの引用。
オチみたいなものなので、読みたくない人は避けた方がよいかも。といって、ネタバレ改行もしないけど。

今こそルソーを読み直す (生活人新書)

今こそルソーを読み直す (生活人新書)

「真実の私」を分かってもらおうとして、ブログやツイッターなどで“発信”を続け、その行為によってかえって、社会から孤立していく

第2章で検討したように、法を誰がエクリチュール化=起草するのか、法が一般意志を本当に反映しているとどうやって確認するのか、という手続き的な問題を掘り下げて考え始めると、疑問がどんどん生じてくる。(略)
多くの批判者がルソーに対して感じる危険というのは、法というエクリチュールを実体視・絶対視してしまう危険と見ることができよう。(略)
既存の社会に嫌気がさしている多くの近代人は、単なる「見せかけ」ではない、本物の「自然と秩序の永遠の掟」が、万人の心の奥底に「書き込まれ」ていて欲しい[と願い](略)そうした「心のエクリチュール」を、「法」という可視的なエクリチュールへと完全に転記しようとする欲望を抱いた人々が権力を握る時、政治の悲劇が起こりやすくなる。(略)
ジャン・スタロバンスキは、その主著『透明と障害』(1957)で(略)コミュニケーションの「透明性」とそれを妨げる「障害物」という視点からのルソー理解を試みている。
 スタロバンスキによれば、ルソーはその生涯にわたって、「外観」や「見せかけ」のような不純物を含まない純粋なコミュニケーション、観念的な「記号」を介さないで通じ合えるような、他者との純粋な交わりを求め続けた。(略)
 世間的な社交が苦手であったルソーは、(自分自身も使っている)社会の中で流通しているエクリチュール化された言語を憎み、そのようなエクリチュールが支配する場から身を引こうとする。しかし、にもかかわらず、あるいは、だからこそ、自分の存在を社会に認めてもらうため、(自分自身が切実に体験している)エクリチュールの害毒を人々に伝えるために、独自のエクリチュールを生産し続けねばならなかった。そこにルソーが抱えている矛盾の本質がある。
(略)
 「真実の言語」によって現実の他者たちと交流することができないルソーは、その「代補」として。自らのエクリチュールーの中で、“透明なコミュニケーション共同体”を想像しようとする。
(略)
 この“透明な共同体”は、単なるフィクションではない。「法=一般意志」という、(「自然状態」あるいは「幼年時代」の)危険な「代補」は、“我々”に、未だ実現したことのない「完全な民主主義」の夢を見させ続けている。ネット技術の発展を通じて、“私”たち相互のコミュニケーションが限りなく透明に近づき、いつの日にか直接民主主義が現実化すると夢想する現代のネット知識人たちは、この「代補」に感染してしまった人たちなのかもしれない。
 無論、“透明な共同体”を夢想しているのは、ネット政治を推奨する知識人だけではない。「真実の私」を分かってもらおうとして、ブログやツイッターなどで“発信”を続け、その行為によってかえって、透明なコミュニケーションを阻害する「障害」を自ら作り出している人たちは、プチ・ルソー的な存在だと言えよう。(略)
透明な共同体に固執するあまり、かえって社会から孤立していく、ルソーの「病」の患者は増殖し続けているような気がする。