手塚番かく語りき

神様の伴走者 手塚番13+2

神様の伴走者 手塚番13+2

大阪万博初日逃走しようとする手塚と旅館2階で揉み合い階段落ち、激昂し駆け上がり手塚に馬乗り殴打。担当を替えろと編集長に電話するも、それならアンタを切ると言われ、仕方なくペンで枠線を入れる程度までやり再度遁走。そこで志波は原稿を無断で東京へ持ち帰りチーフにやらせようとするが当然チーフは手を出さない。そうこうするうち手塚帰京、無言で原稿を仕上げる。
この志波さんにはこんな伝説が。

仕事場のアシスタントの机の上に、いつまでも手つかずの原稿用紙がのってたんだって。ページ4分の1くらいの大ゴマで、「大きく樹」って書いてあって。あいつ、早稲田の漫研じゃない。コマいっぱいに、かっこいい樹、描いたんだって。そしたらね、「誰ですか、これ描いたのは?」って、手塚さんが怒鳴って、志波が、「はーい、僕です!」って。手塚さん、しばらく考えてて、OK出したって。単行本では直したらしいけど。

目線は机に向けたまま、原稿を肩越しに、さっとかざして、パッと手を離すんです。手塚先生の原稿用紙って薄いでしょう。それが、こう、ヒラヒラって宙に舞って、それを待ち受けてたチーフアシスタントがはしのところつまんてね、チョキチョキってコマ毎に切り分けて、ここは誰、ここは誰って、それぞれ得意なアシスタントに割りふって、上がってきたのを私が待ちうけてて、テープで止めてね。自分が手塚劇場の脇役のひとりになったような気がしましたよ。
(略)
[三日連続徹夜]
「私のそばに椅子を持ってきて、私が眠りそうになったら声をかけてください」って。で、先生の机のそばに椅子を逆向きに置いて、背もたれのところに腕を組んで座って、先生がうとっとすると、「ハイッー」、うとっとすると、「ハイッー」って、まるで餅つきですよ。それをやっているうちに、こっちも3日くらい徹夜してますから、つい、眠っちゃった。ハッと目を覚ましたら、先生が笑ってて、みんないなくなってるから、「うちの原稿、どうなりました?」って、あわてて聞いたら、「さっき持っていきましたよ」って、こういう時、妙に優しくてね。
(略)
[ギリギリ進行で写植が間に合わないので、手塚はボツネーム写植をカットアップして新しいネーム作成]
写植の切り口なんか見事でね、そこいらの編集者じゃ足下にもおよばない(略)
ネームを口述でとったことがあるんですけど、先生の言葉どおりに改行して、字体決めて、級数決めて、それを写植にして、あがった原稿のふきだしに貼ると、一つの間違いもなくピタリとおさまるから、すごいですよ。

  • 豊田亀市(少年サンデー)

少年週刊誌を企画したのは実は小学館が先、秘密裡に進めていたが、印刷所営業から情報を得た講談社に先を越された。

手塚にね、月刊連載4本切ってくれって、辞を低うして頼んだんですよ。切った4本分をね、お金を別に払うからって。原稿料とは別に。最終的には4本じゃなくて、月の原稿料、全部払うから、好きなのひとつふたつ残して、後は小学館だけにしてくれと。まず「少年サンデー」から始めて、3年後、学習雑誌に滑り込んでくれと。その時どういう漫画にするか、『もしもくん』ってタイトルまで決めてたの。(略)
[大卒初任給一万数千円の時代]
当時で200〜300万円かな。社長にいったの、「社長の月給よりはるかに高くなると思うけど、手塚を買い取りたい。(略)
おそらく社長も、手塚をテコにして小学館のイメージを変えたいって野心持ってたから。小学館の漫画を改造しないと学習雑誌も安泰じゃないですからね。「サンデー」創刊が学習雑誌にも良い影響を与えるだろうと
[だが手塚はそれを断る]

専属の謎

豊田さんのお話、私が思ってたことと少し違うんですよ。あの専属の問題。手塚先生にも確認したんですけどね、明言されましたよ、「サンデーの専属だから、マガジンは描けない」と。(略)
[『怪傑ハリマオ』漫画化について手塚に相談すると、石森を推薦され、不安なら内緒で構成をやってあげると言われ]
『怪傑ハリマオ』は手塚先生が構成しましたよ。ネームと、ごく簡単なラフが上がるとこっそりとね、ほかの編集者に気づかれないように裏口からもらって、石森さんのところに運ぶんですよ。これをずっとやってたんですよ。実際に全部隠れてやりましたからね。マガジンの編集部は手塚先生はサンデーの専属だって、それは疑いもなく信じてましたね。

W3事件以来疎遠だったが、リアル路線で漫画界からロマンが失われていると感じていた宮原はアトムの頃の手塚に戻ったら新しいものができるのではと、虫プロ倒産直後の手塚を訪問。三日前に少年チャンピオン壁村が医者ネタ連載を決めていた。宮原の意向にリアル路線じゃないと売れないだろうと手塚は執拗に抵抗。

最後に、「ウケるウケないは、絵柄じゃなくて、テーマの設定とか、キャラクターの魅力とかにかかってくるんじゃないですか。先生は、そっちの方向のものは、もう描きたくないんですか」っていったら、「いや、僕はそういうのを描きたいんです」って。「じゃあ、考えてください」って、別れたんです。
[一週間後、『三つ目』構想決定]

手塚とは関係ない話

若い人で、僕の目からするとまだまだなんだけど、人気のある女性作家がいたんですよ。なぜ人気があるかというとね、「先生の先月号のなになにチャンの髪型が良かったから、私もお母さんに結い直してもらいました」とかいう手紙がくるんです(略)
これは男の漫画家には無理でね。それからですね、左ページの上部に、ストーリーには全く関係のない、主人公のオシャレなスタイル画が入るようになったのは。その後、わたなべまさこさんとか、牧美也子さんとか入ってきて、女の子にオシャレをたっぷり教えていったんです。

  • 石井文男(COM)

漫画少年」現代版を狙ったCOMだったが

[手塚の入稿は]予想どおり遅れに遅れて、取次への搬入に間に合うかどうかさえヒヤヒヤもんでした。(略)やっとできあがった創刊号、編集長が勇んで手塚先生に届けたら、「なんですか、これ」って。「こんなみっともない本は出さないでください」って。(略)
自分のイメージと違ったんですね、きっと。手塚先生のイメージは、どこまでも「漫画少年」で。こう見てね、「なんか汚い本だなあ」と思ったんでしょう。もっとシャキッと締まったもんかできてくると思ってたんでしょうね。

  • 阿久津信道(冒険王)

失職中の昭和26年、秋田書店社長面接に際し、古本屋で見つけた『ロストワールド』を手土産に。早速社長は宝塚を訪れ学生服の手塚をゲット、その年の12月号から連載開始。当時は連絡手段はまだ電報

「ゲンツカズ ハヤクオクレ」って電報を打つと、「ゲンオクッタ」って電報が返ってくる。次の日も着かないと、「ゲンツカヌ テヅカオソムシ」って打つはめになる。3度目は「テヅカウソムシ」って。

神様にしたのは朝日w

私はね、みなさん方みたいに手塚さんを神様だと思っていないですよ。手塚さんが神様だっていうのは、お弟子さんあたりが創りあげたものに、「朝日新聞」なんかのマスコミが追随したんで、私は当時から友達みたいな感覚でやってましたから。

残り僅かだが明日に続く。