アメリカと戦争

イラク戦争まで扱っているが、米西戦争あたりまでを引用。

アメリカと戦争 1775‐2007―「意図せざる結果」の歴史

アメリカと戦争 1775‐2007―「意図せざる結果」の歴史

  • 作者: ケネス・J.ヘイガン,イアン・J.ビッカートン,Kenneth J. Hagan,Ian J. Bickerton,高田馨里
  • 出版社/メーカー: 大月書店
  • 発売日: 2010/06/01
  • メディア: 単行本
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独立宣言

は実際、圧倒的に強力なイギリス軍に対するレトリカルな身ぶり以外のなにものでもなく、また革命派はすべての植民地人から支持されているわけでもなかった。多くの植民地人は英国王に対して忠誠を抱き続けており、慈悲深く、利益をもたらしてくれるリベラルな保護者であるイギリス政府から分離するという考えに戦慄していた。事実、独立戦争は、抑圧的で邪悪な帝国に対する戦争ではなかった。マッカローによれば、植民地人は、自分たちの支配者であるヨーロッパ人よりもはるかに豊かな生活水準を享受していたのである。

独立してはみたが

かつての植民地人は、いまや譲渡された領土を自力で防衛しなければならなくなったのである。彼らはヨーロッパのあらゆる諸国と自由に貿易することを望み、北アフリカ、バーバリ地方の「海賊」がはびこる地中海にアメリカ商船を送り込むことを主張していた。(略)
しかしながら、緩やかな結合を謳う連合規約の下にあった弱体で分権化された政府が、国境地帯の安全を確保することも、一貫した外交政策を遂行することも、また北アフリカの海賊の攻撃からアメリカ商船やアメリカ人乗組員を守ることができないことも、すぐに明白になったのだ。

カナダと独立反対派

[独立後最初の事件は]イギリス北方植民地であるカナダを13植民地に参加させられなかったことである。(略)13植民地の構成員250万人のうち、半数近くがイギリス国王に忠誠を示していた。実際に武器をとった推定6万人の王党派と、ほとんどすべての植民地で求められた革命派の大義に対して忠誠を拒絶した人々は、捕らえられ、強制収容所に監禁され、厳しく罰せられ、追放された挙句に土地財産をすべて没収された。こうした抑圧措置によって幾多の独立反対派が殺戮されたため(略)定住地開拓のため、戦争終結と同時に英領カナダヘと遁走したのである。

常備軍軍事独裁

[戦争後不況で]独立戦争時の陸軍大佐を務めたダニエル・シェイズの率いるマサチューセッツ西部の貧困層が武力によって裁判所を強制的に閉鎖するためスプリングフィールド兵器工場を襲撃した(略)シェイズの反乱は、志願騎兵隊によって容易に鎮圧されたが(略)植民地時代に確立していた社会的・政治的安定が崩壊したことによってもたらされた混乱と西部フロンティアにおける先住民との抗争に直面し、連邦議員の多くは常備軍創設の必要性を確信するに至ったのである。
 各州は、民兵組織を州の防衛機関であり同時に州権の象徴であると見なしていたため、州民兵を放棄することを望まなかった。唯一の解決策は、州による民兵組織の維持は許可するが、最高司令官としての大統領の指揮下にこの組織が置かれるという措置であった。(略)
アメリカ人の多くは、フィラデルフィアで起草された憲法は独立や自由を求めた人々の情熱を満たすものではなく、イギリス本国とは異なる別の軍事独裁の脅威に取ってかわったと認識するようになった。

第二次米英戦争

[カナダ併合という好戦派の計画は開戦一ヶ月のデトロイトでの敗北で潰えた]
1812年の戦争は、アメリカ国内に深刻な分裂を生み出した。(略)ニューイングランド諸州の激しい反対を受けていた。連邦議会の決議した貿易制限は、海上貿易に基礎を置く当地の経済をほとんど荒廃させており、結果、1814年末の戦争終結までに、沿岸部地域は連邦離脱の瀬戸際にあったのである。(略)幸いにも、戦争は数週間のうちに終結したが、この戦争の意図せざる結果の一つであった連邦解体という亡霊は消え去ることなく、1861年に激しい敵意とともに再現することになる、

奴隷貿易

イギリスは、奴隷貿易業者の活動を停止させることに関してはアメリカ合衆国よりもはるかに先取的だった。英海軍戦艦は、アフリカ沿岸海域での定期的なパトロールを通じて奴隷貿易禁止法を遵守させていた。1812年の戦争勃発後もイギリス政府は奴隷を積んだアメリカ貿易船を追跡する権利を主張し続けた。しかし、それはパトロールを偽装して正当なアフリカとの貿易を妨害しているとアメリカ合衆国では一般的に信じられていたのである。

米墨戦争

 アメリカ=メキシコ戦争は、ある意味、アメリカ人によって無視されてきた。なぜならこの侵略的戦争の起源、指揮のあり方、その戦争結果に関しては、ある種の道徳的困惑が存在し(略)先住民に対する土地略奪戦争と1812年の戦争におけるカナダ侵攻を度外視するならば、メキシコに対する戦争はアメリカ合衆国が外国の土地で戦った最初の戦争であり、征服戦争であった。(略)他国の体制変革を引き起こし、以後半世紀にわたって敵国だったメキシコを政治的不安の泥沼のなかに放置したことに見られるように、きわめて不当に処理された戦争でもあった。(略)
[マサチューセッツ州議会は「征服戦争」と非難]
1848年1月3日、下院議会は、この戦争は不要で憲法に違反して開始されたと宣言し、メキシコからの米軍の速やかな撤退を求める決議を85対81の僅差で票決した。(略)
この戦争は、南北戦争の第一段階にほかならなかった。(略)南部出身大統領ジェイムズ・ポークによって煽動されたものであった。(略)志願兵の大多数は南部から殺到した。(略)
アメリカ政治上最大の難問を再燃させた。新たな領土は奴隷州であるべきか、自由州であるべきか、という難題である。

米西戦争

[講和でグアム、フィリピンが米に譲渡され]
 アメリカ=フィリピン戦争の間、双方の側で蛮行が犯されるようになっていた。(略)「水攻め」が反乱の容疑者に実施され、容疑者のうちかなりの人々は親指のみで吊るされた。その他の人々は馬に引きずられるという拷問を受けた。吊るされたフィリピン人の傍らで火責めがおこなわれた。村々は放火され、村単位での虐殺がおこなわれ、略奪が横行した。(略)
スミス将軍は、「すべてを燃やしつくし、すべてを殺せ。おまえが殺せば殺すほど、私は満足するだろう」と命じたと報告されている。(略)
ヴェトナム戦争において米軍が採用した戦略村計画の原型と見なされる作戦によって(略)村の「地区」の小さな居住区に包囲された。住居、家具、荷車、家畜はすべて燃やされ、これらフィリピン人は何カ月もの間捕虜として監禁された。
[キューバ救済の名目で始まったスペインとの戦争は、アメリカをカリフォルニアから南シナ海に至る帝国へと変容させた]