生物多様性〈喪失〉の真実

エコ同様、「生物多様性」も食い物にされているわけDEATH。

ボッタクリ「緑の革命

1960年代に施行された一連の政策の総称で、これにより、主として先進国で開発されたこの近代農業システムは、「改良された」作物品種、化学的農薬、肥料などを含む技術パッケージの形で南側諸国に輸出された。緑の革命推進者たちの主張は、この近代農業システムは南側諸国の農業生産を変貌させ、何百万もの人々が人口過剰の結果としての絶え間ない飢餓に陥る危険から救うことになる、というものだった。だが、いまも世界規模で蔓延している飢餓は貧困の結果であって、人口過剰の結果ではない。これについては、有り余る証拠が当時すでにあったし、いまでもある。緑の革命の究極の目標は、農業に必要な仕込み材料(種子、殺虫剤、肥料など)をさばくための海外市場を開拓することであって、飢餓と闘うことではなかったのだ――そして、実際、緑の革命の技術は、飢餓をなくすというよりも、悪化させる傾向があったのである。
[しかも同じ研究機関が遺伝子組み換え作物による「緑の革命2」で再度ボッタクリ中]

森林再生サギ

[「伐採して放置された」地域が自然に回復しているのに比べ、「森林再生がおこなわれた」地域では製紙用の成長が早い樹木を植えたプランテーションができている]
これが「森林再生」と言えるのだろうか。(略)何もしないよりもはるかにひどいような気がする。何百種もの樹木、またそれを食糧としている無数の昆虫、計り知れないほど多様な落ち葉などの中で生きている数えきれないほどの生きもので構成されていた森林が、単作のプランテーションに変えられてしまっている。生物多様性の損失はほぼ完璧になってしまった。
(略)
[確かにプランテーションにより自然林伐採が減る一面はあるだろうが、プランテーションを「森林再生」と偽ることで森林伐採の批判をかわそうという会社側の目論見は確か。コスタリカ政府が森林再生には税金を免除しているので、ストン林業社は建材用樹木プランテーションを「森林再生」事業だと主張している。]

生物多様性」利権

 雨林破壊に関する近視眼的でエリート的な見方は、残念ながら、世界の熱帯雨林が失われていくことに歯止めをかけようと真剣に望んでいるというよりも、生物保全の分野における肩書きや、潜在的な資金提供者とのよい関係を保つのに都合のよい意見の場合の方が多い。

バナナ、チョコレート、コーヒー、トマトといった、あって当然と現在では思われている多くの食品や薬の原料植物などは、もとはと言えば、熱帯の生物多様性を利用して一儲け企んだ起業家、海賊、政府の思惑からもたらされたものなのだ。(略)現代の薬品の多くも、雨林から採取した植物性原料で作られているのである。(略)
[この図式は継続しており]
製薬会社が、市場に出せる製品の原料がないかと、いまも残っている熱帯雨林の中を探し回っている。コスタリカの国立生物多様性研究所の中心課題は、製薬会社に売ることのできる産物の探索なのである。

ポリティカル・エコロジー

主流派環境保護運動では、保護されて島状に残っている熱帯雨林を買い上げたり、新たに保護するために、大量の募金活動をしてきた。(略)
見渡すかぎり殺虫剤まみれの近代農業によるプランテーション、低賃金にあえぐ地方労働者、家族を何とか養う手立てを求めている大量の土地なし農民たちの存在する地帯という海に囲まれながらも、島のように熱帯雨林が点在する(略)
 私たちが提案するアプローチ、つまりポリティカル・エコロジー的戦略は、点在する保護林のあいだの土地と人々を重視したものである。

自然保護バックラッシュ

ジョン・テボークの『自然へのレクイエム』と、ジョン・オーツの『自然保護の神話と現実――アフリカ熱帯雨林からの報告』は、専門的な文献ではいくつか厳しい批判を浴びているが、概して、一般メディアではべた褒めされている。(略)こうした、いわゆるバックラッシャーたちの基本的論点は、地元の人々のニーズに力点を置いた環境保護計画はまったく機能していない、というものだ。(略)
彼らが述べているように、こうした計画の大半がまったく失敗だったという点では、これら著者たちの全般的な批判に大筋で同意見だ。だが、彼らの型どおりの結論――解決策としては、人間の影響を排除し、高度に保護された自然の生息地という、孤立した保護区域を設置するしかない、という意見にはどうにも納得できない。
 これらアナリストの意見のうち的を射ているのは、熱帯雨林破壊を減らすために工夫されたほとんどすべての環境保護計画がとんでもない失敗を重ねている、という点だ。だがその反面バックラッシャーたちは、これらの計画が地元住民を巻きこんでいようといまいと失敗していただろうという、明らかな(だが決定的な)事実を見落としている。(略)
ゲートで仕切られたコミュニティまがいの原生自然を夢見ている連中は、原生自然の破壊は社会政治的解決策を必要とする社会政治的問題だ、ということを理解する必要がある。(略)
最近の生態学的な研究は、森林の孤立した小区画を守るだけでは大規模な絶滅を防ぐには十分ではない、ということを強く示唆している。(略)
自然の生息地のばらばらな小領域のあいだに生物の拡散のための「回廊」を保障する環境計画が、種の長期保存のためには必須だということだ。(略)
 農民が雨林を切り倒しているというイメージは、過去においては強力なものだった。[そこから産児制限で全ては解決するという単純な主張が生まれたりもした](略)
 私たちはこれまで、土地をもたない農民たちの農業活動は多くの森林伐採に直接責任があるものの、それ自体が何か別の問題の結果なのだ、ということを証明しようと大いに骨を折ってきた。(略)政治経済的構造が、そもそも否応なく土地のない農民を生み出しているからだ。

熱帯雨林の復元力

かつて熱帯雨林というのは、大昔から存在し、とても想像もできないほど長い年月を経た幹の数々が塔のように聳え立つ、ゆるぎなき大聖堂のようなもので、人の手にはほとんど触れられることもなく、自然の有為転変にもびくともしない場所だという、ロマンチックな想像で彩られた場所だった。だが、この想像はまるで的外れである。(略)
[嵐、地滑り、自然火災、人間の活動etcで]
文字どおりの「手つかずの」森林を見つけることなど、およそ夢物語に近い。
これは重要な論点だ。熱帯雨林は、長期にわたる大量の物理的被害に耐えられる。見た目は脆弱のようだが、実は復元能力が高いということも、現在ではわかっている(略)
大きな嵐の後でも、地滑りの後でも、小作農の農耕の後でも、ちゃんとまた元の姿に成長してくる。土地のない農民が森林の小区画を伐採して二年ほどそこでトウモロコシを育て、それからその場所を放棄する、ということをしても、長い目で見た場合、ほとんど影響はない(森林はちゃんと元どおりになる)。しかし、バナナ会社が物理的に土壌の構造を変え、化学的に土壌の成分を変え、生態系全体を殺虫剤まみれにしてしまうと、その影響ははるかに大きい。そして、一部の土地でもセメントで覆ってしまうと、もう、よほどの長い年月をかけないかぎり、熱帯の森林として回復することはないだろう。

熱帯雨林での農業の難しさ

冬と水不足がない熱帯雨林地域は農業に適していると思われがちだが

[酸性で有機物の含有量が低い土壌に対応して、熱帯雨林は自らの組織に栄養素を貯蔵している]
そこで、森林を伐採して燃やすと、植えた作物に、燃やした植物の中の栄養素がたちまち行き届く。
まるでさまざまな肥料を一度にまとめて与えたような効果が出る。すると作物は、最初はとびきりの収穫をもたらすが、一年目のシーズンのあいだに使われなかった栄養素は、やがてその土壌系から流出してしまう。二年目のシーズンになって初めて、その土地は「不毛」だったことが明らかになる。比較的安定した土壌の土地に住んでいた人が、こうした熱帯雨林地域に移住してきてこのパターンに遭遇すると、ことさらいまいましい気分になる。着いた最初の年はたいてい豊作に出くわすことができるので、ぬか喜びをしてしまう。ところが、かりに二年目に大不作に見舞われることはなくても、三年目か四年目にそうなることはほぼ間違いなく、そこで農夫は否応なく場所を変えて、森林の別の小区画を伐採するしかなくなってしまう。
 二番目の問題は、害虫、病害、雑草だ。(略)湿潤で高温な環境[は害虫や雑草にとっても天国]

熱帯雨林地域で農業を計画する際に従うべき一般原則が三つある。第一は、酸性度の非常に高い土壌では基本的な穀物の生産は試みるな、ということだ。第二には、最も貧弱な土壌では樹木を植えろ、ということ。第三には、多年生植物(たとえば調理用のバナナとか、果樹など、実をつけてから一年で枯れてしまうことのない作物)を、どんな農業計画の場合でも取り入れることだ。(略)
[一年生だと枯れている間に土壌から栄養素が流れてしまう]