ノーザン・ソングス・その2

前日のつづき。

解散後の著作権

[ポールとリンダ共作「アナザー・デイ」がNo1ヒット]
マッカートニー夫人はノーザン・ソングスと契約していなかったため、彼女の作家としての印税は夫が契約しているノーザン・ソングスとは別の、外部の会社[マッカートニー・ミュージック・インク]へ支払わなければならなくなる。ATV会長グレードはこれをインチキだと考え、マッカートニーの新しいコラボレーターが純然たる共作者ではないとして訴訟を起こした。
 レノンもすぐにあとに続き、ヨーコと曲作りを開始する。(略)「ハッピー・クリスマス(戦争は終った)」である。イギリスでの発売が一年遅れだったのは、オノのクレジットを巡るATVとの対立のためだ。(略)
[さらに『ジョンの魂』収録曲は、ノーザン・ソングスではなくマックレン・ミュージック管理曲としてクレジットするべきと主張。それに対し、ノーザン側は命令状を発行。73年2月までレノン&マッカートニーは]
既存の音楽出版契約に縛られていること、1965年の契約によってノーザン・ソングスが出版したいかなる「音楽作品」についての著作権を主張することを彼らに禁じるものであった。(略)
マッカートニーは[『ラム』収録の]自分の単独作五曲(「ラム・オン」の二ヴァージョンを含む)をノーザン・ソングスのクレジットとすることには同意したものの、妻との共作曲に関してはマッカートニー・ミュージックと表記すべきだと言って譲らなかった。(略)     
ノーザン・ソングスはEMIが11曲すべてを自分たちに許諾申請しない限り、単独作品5曲の許諾も出すつもりはないという意思を明らかにした。
 しかしEMIに補償を確約したことと自分たちの懐に印税が入ることもあって、五月の初めにはノーザン・ソングスは許諾を出し、それから一ヶ月もしないうちに『ラム』はUKアルバム・チャートで首位に立った。五ヶ月後にはレノンのソロ・アルバム『イマジン』もトップに輝く。このアルバムにはレノン作九曲、レノンとオノ共作一曲が収録されていたが、クレジットはすべてノーザン・ソングスである。

なぜATVと再契約したのか

[弁護士のマイケル・イートン談]「あのふたりがATVと再契約した理由は、ゆくゆくはノーザン・ソングスなりATVミュージックを買い戻すのに有利だから、という憶測があった。ただし妙だったのは、第一優先権なり追従オファーのオプションについての含みを書面に一切入れていなかったことだ」(略)
[ATVの]ヒースは慎重に付け加えた。「私はすべての話し合いに出たわけじゃないが、ふたりはある程度の権利を取り戻したはずだし配慮もしてもらったはずだ」。(略)当のオノの記憶は、「知り合いの悪魔のほうが、素性のしれない悪魔よりもまし」というものだった。
(略)
レノンとマッカートニーはそれぞれの新しい出版社経由で、レコードの売り上げからはこれまでの25%ではなく27.5%を受け取ることになり、共同出版者としてのレノン&マッカートニーはATVに対して55:45の分配率となった。この有利な条件をATV、ノーザン・ソングスから引き出すために、ふたりの元ビートルは代償を支払っている。(略)
 1973年、マッカートニーはATVのテレビで『ジェイムズ・ポール・マッカートニー』というスペシャル番組に出演した他、『ズー・ギャング』という新シリーズのために主題歌を作った。それには負けられないとばかりにレノンも、1975年にニューヨークで開かれた『ルー・グレード卿に敬意を』というチャリティで、自身最後となるステージに立っている。

  • MPL

音楽出版の仕組みと旨味を身をもって実感したポールは、義父の指導を受けMPLを設立、音楽出版ビジネスに乗り出す。バディ・ホリー、『グリース』『コーラスライン』。1979年コロムビア・レコードと契約した際には、フランク・レッサーの曲を含む出版カタログをプレゼントされる。

  • チャンス到来

一方グレードの関心は映画に向かい、ピンクパンサーがヒット、ソフィーの選択も高評価、調子に乗った『レイズ・ザ・タイタニック』がコケて大損失。ノーザン・ソングスを2000万ポンドでどうかとポールに打診。自分が無から産み出したものに大枚はたくことにポールは躊躇。ヨーコに共同購入を持ちかけるも、ヨーコは500万ポンドまでという回答。その渦中、豪の実業家ロバート・ホームズ・ア・コートがACC(ATVの親会社)の筆頭株主に。ポールはチャンスを逃し、グレードは追放。

[ポールは]初の主演映画『ヤァー・ブロード・ストリート』(略)で「イエスタデイ」を使いたかった。(略)もはや彼は曲の所有者ではなかった。(略)世界でもっとも有名な曲を書いた本人が、自分の映画にその曲を使うための許諾をATVミュージックに申請しなくてはならなかった……しかもシンクロナイゼーション料までかかる。

共作した際にポールが音楽出版ビジネスをレクチャー。

 マッカートニーは「枯葉」「ラック・ビー・ア・レディ」「アンチェインド・メロディ」といった曲の著作権を持つことの御利益についても、自分が保有している曲が録音されたりラジオでかかったりライヴで演奏されるたびに使用料が手元に入ることについても、確実に説明したはずだ。(略)この時点でのマッカートニーの自作以外の管理楽曲からの収入は、年間四千万ドルという規模だった。

『スリラー』マネー運用として、まずスライ・ストーンの「スタンド!」「エヴリデイ・ピープル」をゲット、さらにディオン、レン・バリー、ソウル・サヴァイヴァーetc、プレスリーアレサ・フランクリンの曲も。

  • 和解

1984年、100万ドルと印税率アップと引き換えに、レノン&マッカートニー側はノーザンへのあらゆる訴訟を取り下げることに。ノーザン契約下での解散後ソロ作品権利は返還された。逆にATVはノーザンを障害なく売却できることになった。そしてマイケルが登場。ホームズ・ア・コートは合意に達しそうになるたびに売値を吊り上げ最初の価格から1000万ドルアップの4750万ドルで、85年、ATV全カタログを売却。
[その際、むかつくホームズ・ア・コートのあほうは、娘の好きな“ペニー・レーン”プレゼントしてくれなきゃ売らないとゴネ、マイケル側が激怒し契約が御破算になりかけている。さらに豪パースでのチャリティ・イベントにマイケルを呼びつけるという傲慢ぶり]

 のちにマッカートニーは、自分はATVカタログを買えたはずだったが「ヨーコとのいざこざで買えなかった」と釈明している。その一方でジャクソンが楽曲を所有していることについては、「僕よりマイケル・ジャクソンのほうが“イエスタデイ”の権利割合が多いというのは腹立たしい。困ったもんだ」と語っている。(略)
 ジャクソンから買収の件を聞いたことは絶対にないと譲らないマッカートニーは、買収契約の締結以降にジャクソンとはほとんど口をきいていないことを認めている。

[マイケルは全曲は入手できなかった]
エプスタインがディック・ジェイムズに渡した「プリーズ・プリーズ・ミー」「アスク・ミー・ホワイ」の二曲は、DJMの他の音楽出版ビジネスと合わせて1986年にポリグラムヘ売却されている。一方ビートルズのデビュー・シングルだった「ラヴ・ミー・ドゥ」「P.S.アイ・ラヴ・ユー」は、最終的にポール・マッカートニーのものになった。
[80年半ば、キャピトル復帰条件のひとつとして手に入れた]

  • 注意点

所有権はマイケルにあるが、レノン&マッカートニーは全世界で50〜55%(米では33%)の作家取り分の著作権印税を得ている。

 買収から十年後、そして「アース・ソング」が大ヒットするほんの一ヶ月前、ジャクソンはATVミュージックとソニー・ミュージックの合併を発表し、音楽業界をあっと言わせた。この提携で彼は一億一千万ドルを受け取り、新たな巨大会社の株式の50%を保有することになった。(略)
[ノーザン・ソングスは1986年に有名無実化、1995年に正式に解体]
 ジャクソンヘの蔑視なのか、あるいはソニーATVミュージックという名前をアルバムに入れないための単なる手段なのか、『ザ・ビートルズ1』の中でソニーATVが所有している25曲の出版社クレジットは、ノーザン・ソングスとだけされている。実際には五年前に消滅した会社なのにである。
 二年後、マッカートニーはレノンと共作したビートルズ時代の20曲が含まれているライヴ・アルバム『バック・イン・ザ・USライヴ2002』を発売し、クレジットを巡ってのオノとの対立をわざわざ再燃させた。「ジョンが僕の曲だと言ってくれたものについては、僕の名前を最初にするのがフェアだと思う」と理由を説明し、コンポーザーのクレジットを「ポール・マッカートニージョン・レノン」としている。出版社クレジットはまたしてもノーザン・ソングスである。