頭脳警察、蘇る封印歌謡

蘇る封印歌謡(CD付)

蘇る封印歌謡(CD付)

 

頭脳警察

ホリプロと一ヶ月で喧嘩別れ、弘田三枝子のバックバンド、ザ・モージョに参加。それも続かず19歳の大学生PANTAは犬を舞台に上げるヴァン・ドックスのリーダー千葉と出会い、TOSHIを誘ってスパルタクス・ブント結成。これも数回のライブでポシャり二人は頭脳警察に。新左翼の千葉さんは、後に警官をリベット銃で撃ち新宿鋲打ち銃事件として新聞に。
友人に曲をつけてほしいと頼まれたブレヒト赤軍兵士の詩』を赤ヘル赤軍派集会で披露するつもりで日比谷野音に行けば、そこは白ヘル革共同12000人の大集会。

「あの時、履いてた太めのベルボトムの中では、右足が震えてたのを覚えてますよ。現場ではヤジや歓声、拍手、怒号が渦巻いてた。左右の階段には、突撃隊の旗持ちが50人くらいずついるんですよ。その中の1人でも突っ込んできたら俺はおしまいだ、なんて思いながら歌いましたね(略)でも今になってから思うと、あの異様な雰囲気と怒号は、単に『こんな集会でギターなんか持って歌ってんじゃねえよ!』的なものだったかもしれまぜんけど。少なくとも、俺だったら文句を言うね(笑)」

ビクターの洋楽レーベルMCAからオファー、こんな歌詞だし無理でしょうと断るも、「大船に乗った気で」と押してくるので受諾。しかし1st発売中止、2ndは一ヶ月で回収措置。

MCAの部長は、上からの命令で仕方なく回収措置を出したけど、その裏では追加プレスを注文してたらしいですけどね[その抵抗も続かず店頭から消える]

後半3年間は過激な新左翼バンドというパブリックイメージに縛られ「嘘を書かなければいけなく」なり苦しむ。

三億円犯人ジャケの真実

 発売中止となったアルバム『頭脳警察1』を、何とかして聴いてもらおうとしていた事務所のスタッフは、ある音楽雑誌に「ファーストアルバムを自主制作し販売します」という広告を掲載していた。そのため、頭脳警察の事務所には、全国から現金書留が届けられていた。
「当時のスタッフが、勝手に広告を載せちゃったんですよ。たしか『ミュージックマガジン』に掲載されたのかな。現金書留が600通くらい送られてきて。さすがに困ったんだけど、まあいいや作っちゃえって」
 もちろん『頭脳警察1』の音源の版権は、ビクターが持っていた。
「その音源、何とかなりますよね。何しろ、俺たちが演ったんですから」
(略)
[だが事務所の金庫の制作資金がドロンで計画は頓挫]
ああやって金を集めた以上、このままでは終われない。カタを付けたいと思って、解散前にレコードを作ったんですよ。その時に初めて、ジャケットをどうするかっていう話になって。デザイナーの発案で、三億円事件の犯人のモンタージュ写真にしたんです」
 ジャケットは決まったが、制作資金が足りない。せめて郵送用のパッケージ代だけでも浮かせようと、そのパッケージをそのままレコードジャケットにした。
「1975年の大晦日だったかなあ。渋谷の郵便局で、俺、直径30センチの大きな袋に必死にスタンプを押してましたよ。だから、郵便局内が三億円事件の犯人の写真だらけなの。おかしかったなあ」
 わずか600枚だけの自主制作盤ではあったものの、それでも『頭脳警察1』は形になり世に出た。発売中止となってから4年目のことだった。(略)
意外にもビクターはクレームを付けず沈黙を守ったという。

[重要ポイント]ビクター1stはジャケ作成前に発売中止、三億円犯人ジャケが登場したのは自主制作の時。したがってジャケが理由で発売中止になったわけではない。

  • 印税

つぼイノリオ

金太の大冒険』は5万枚、『ジョーズ ヘタ』は1万枚ほど売れたのだが、発売元のエレックレコードが倒産したため、つボイには一銭も入らなかったのである。
海援隊の『母に捧げるバラード』も、印税は半分しか支払われていないそうですよ。僕が主張したいのは、レコード会社が潰れた時はJASRACがそれを肩代わりしてくれってこと。代理店としてマージンを取っているのだから。

克美しげる

[いやいや受けた『エイトマン』主題歌の仕事、現場ではダメ出し連発、指示用マイクがONになっていると知らず]
サブにはディレクターのほかに、作曲家の萩原哲晶、作詞家の前田武彦らがいたが、彼らは「これじゃあ使えないよ。克美はダメだなあ」とボヤいていたのだ。楽団の連中の中には、それを聞いて笑う者もいた。
「心の中で叫びましたよ。だから、漫画の主題歌なんて歌いたくなかったんだって」
(略)
[『さすらい』60万枚ヒットで生活は一変、ジャズ喫茶のギャラが1ステージ5千円から1日60万に]

ビーチ・ボーイズとスキヤキ

[自分への御褒美で毎年米旅行]
 ある年、克美はボビー・ダーリンに会う。(略)
「僕のカタカナ英語に、ボビーは大喜びしていました。僕が『マック・ザ・ナイフ』をスタジオに置いてあったピアノで弾き始めたら、ボビーが歌い出して、最後は合唱になりましたよ」
(略)
1962年には、ザ・ビーチ・ボーイズのスタジオで記念すべき瞬間に遭遇した。
「メンバーとキャピトルの幹部連中が、日本のレコードを聴いてたんです。『おいカツー、この曲は日本でどのくらい有名なんだ』とか、質問攻めにされました」
 数曲目、北島三郎の曲が流れた。すると、全員が驚いたという。
「初めて体験するサブちゃん節に、ビックリしたわけです。そして次の曲が流れると、今度は全員が身を乗り出したんですよ」
 その曲こそが、坂本九が歌う『上を向いて歩こう』だった。

TBSの糾弾

 [愛人殺害、求刑15年も玉川良一村田英雄等の嘆願で懲役10年の温情判決。模範囚で刑期2年8ヶ月を残し出所。玉川良一の公演で歌うと非難殺到]
その後も、マスコミの取材攻勢は激しさを増していった。その中でもNET(現・テレビ朝日)は好意的だったが、TBSは糾弾の急先鋒だったという。すでに罪は償っているが「それでお前は終わりにするのか。良心は咎めないのか」と言われ続けた。
「ある時、そのTBSの〈被害者の両親に会う〉という企画を、断れずに受けてしまったんです」 マリ子の両親が待つ岡山のホテルの部屋を訪ねると、なんとTBS以外のレポーターも揃っていて、克美を取り囲んだ。
「騙されたって思いましたが、後の祭りです。リポーターたちは、口々に私を責めるわけです。両親にきちんと謝罪しろと。もちろん謝罪しましたよ。でもカメラマンたちは、もっと怒った表情をしないとダメだとか、マリ子の両親に注文を出すんですよ。そんな周りの異常な熱気に煽られ、マリ子の父親は、眉を吊り上げて怒鳴りましたね」(略)
その後、マリ子の父親から克美に電話がかかってきた。「あの時はレポーターたちに乗せられて、つい過剰な行動を取ってしまった。やりすぎました」と謝ってきたのだ。

黛ジュンとひばり

[高嶋弘之談]『真赤な太陽』は、原信夫が書いてた。原信夫はフリーですからね。調べたら、コロムビア音楽出版の第一号著作権なんです。当時はJASRACに登録した曲は、著作者側の希望で、2年間は他社がレコーディングできないようにする制度もあったんです。万が一、コロムビア音楽出版がそれをやってたら、話はおしまい。ところが「どうぞお使いください」と、色よい返事が返ってきたんです。それで僕は、パッと作ったんですよ」(略)
[カバーを知った]ひばりのお母さん、「東芝から『真赤な太陽』が出たら、ひばりはコロムビアを辞める』とまで言ったんだそうです」
 コロムビアは説得に必死だった。K文芸部長が東芝を16回目に訪れた時、東芝はついに発売中止を決定した。だが、その時すでに20万枚の予約が入っていた。
(略)
[日本では不文律だが「アメリカではカバーレコードというのは名誉なこと」と会長に談判するも、何か誤摩化すようなバツの悪そうな顔]
 会長が妙な表情を浮かべたのには訳があった。東芝は、日本コロムビアから500万円を受け取っていたのだ。
「(略)ほかに童謡の著作権も付けてきたそうですよ。経理の連中は『高嶋さん、全然謝る必要ないですよ」ってかばってくれましたね」
 この500万円が入金されてから間もなくすると、東芝の重役用の車が、何台か一新されたという。この時、高嶋の月給は手取りで10万円以下である。当時の500万円は、今の金にすると4000万円位の価値があったかもしれない。

下記にて荒木一郎が『鉄砲玉の美学』で頭脳警察を使った話をしている。
kingfish.hatenablog.com
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