ジャンゴ・ラインハルトの伝説・その4

もう少し色々あるのですが、力尽き手抜きで終了。

ジャンゴ・ラインハルトの伝説 音楽に愛されたジプシー・ギタリスト

ジャンゴ・ラインハルトの伝説 音楽に愛されたジプシー・ギタリスト

ビバップ

[1946年春届いた]郵便物はドローネーにとって特別の意味を持つものだった。というのも、戦争中は四年もの長きにわたってアメリカの新しいジャズのレコードを聴くことができなかったからである。ドローネーは興奮を抑えながら封を切った。(略)最初に再生したとき、彼は自分の耳が信じられないほどの衝撃をうけた。「ソルト・ピーナッツ」は、現代のハーレムの活気あふれる喧噪のうえに、何十年も前から商いを続けている物売りが声も枯れんばかりに売り口上を叫んでいるといった街の風景を音楽にそのまま移し替えたようなリフ中心の曲だった。(略)
真ん中が血のように赤いレーベルの黒いレコード盤には「アフリカ系アメリカ人の音楽の未来が刻印されている」のであった。ジャンゴですらその音楽を聞くと感嘆と陶酔で首をかしげ、何度も何度も「こいつらは速い、まったく速い演奏だよ」と繰り返した。
 その音楽は確かに速かった。と同時に、このギザギザとした、大胆な半音音階の音色と魅惑的なリズムがぶつかりあう音楽は、まさにサイドマンとしての音楽人生に対する革命であるとともに、スウィングのサウンドからの新しい飛躍だった。

SALT PEANUTS by Dizzy Gillespie with Charlie Parker 1945

Dizzy Gillespie - "Salt Peanuts" - 1947

1946年、人気凋落、子供の死、ジャンゴは絵画に没頭

ジプシーの生活風景を描いたものは、写実的であるとともにノスタルジックでもあるような、牧歌的な風景を追想したものだったが、その一方でフランスの田園風景や海岸の風景を描いた風景画もあった。彼がもっとも好んだ主題は女性の裸体だったが、これはジプシーにとっては完全にタブーなテーマだった。ジャンゴの裸婦画は記憶に基づいて、そしてある程度は物憂い想像力に力を借りて描かれた。彼はモデルを使うことはめったになく、女性のシルエットや形を大きく強調することで、ルーベンス的でもありモディリアニ的でもあるような官能的なオダリスクを描いた。ジャンゴはたいてい率直かつわかりやすい像を描き、そのイメージを豊かな色彩によって強調していた。ジャンゴの絵画は(略)ゴーギャンマティスのスタイルの影響も受け(略)真の意味で野獣であった。彼は絵を学んだこともなく、絵画の技術や遠近法の問題などに興味をしめすそぶりも見せなかった。(略)まるで子どもがうまく描いた絵のようであった――ある作品では、風景の上にせりだしてくる太陽に眼を書き入れてしまったほどである。(略)
[貴方の絵の調性は?と問われ]
短調だね」(略)
「なぜって、その方がよりミステリアスだからさ」

1946.10.29、エリントンの招聘で、ハリウッドスターのような成功を夢見て米上陸するも、商業的成功は得られなかった。しかしジョニー・スミスやレス・ポールとのジャム、エリントンとの共演はジャンゴの音楽に新しいものをもたらした。
1.大ホール用にエレキを導入、愛用のセルマーとはまったく別の技術が必要とされ、そのアジャストに苦戦。
2.エリントンはステファンを含めたクインテットを招聘したのだが、ジャンゴは自分だけへのオファーとした。フルオーケストラとの共演を期待していた一部ファンは不満を抱いた

ジャンゴにはエリントンが当然連れて来ると思っていたバックミュージシャンがいなかった。エリントンと楽団の編曲を務めるビリー・ストレイホーンは、きめ細かい楽譜を作って百科事典のような多彩なアレンジを施すことで知られていたが、ジャンゴは楽譜が読めなかった。それであっても、エリントンはまた「プレイヤーがどういう演奏をするかを知らなければ、適切な編曲をすることは不可能だ」と考えており、ジャンゴの手持ちの札がどのようなものであるかをまだ知ってはいなかった。リハーサルのための時間がほとんど取れなかったことから、エリントンは物事を単純にした。ジャンゴのために楽団のリズム・セクションの一部を独立させ、クインテットとして演奏させたのである。そうすることで、スポットライトがジャンゴのギターに当たるようにさせたのである。(略)
[ジャンゴはエレキのフィードバックに悩まされており]大ホールでの公演では小規模のアンサンブルで音量を上げずに演奏するのがよいだろうと考えた可能性もある。
 最後に、音楽それ自体の問題もあった。(略)アメリカでは、最先端の音楽ファンの間ではスウィングは過去のものだった。(略)ジャンゴがアメリカに着いた時、彼の音楽はすでに流行遅れだった。(略)ジャンゴの音楽スタイルにスポットライトを当てるためには、バックにはリズム・セクションだけを配置してジャンゴにソロ演奏を行わせることは理にかなった戦略だった。

ノーマン・グランツから1953年秋、米、欧、日本ツアー参加、「ジャズの饗宴と将来的レコーディングの壮大な計画」を聞かされ有頂天のジャンゴ、しかし53年5月脳出血で死去。享年43歳。

 ジャンゴの死後、弟ニンニンは自分のギターをケースにしまって鍵をかけ、二度と演奏しないと誓った。その後ニンニンは姿を消した。ジプシーたちが暮らすフランスの地下社会に戻り、フランス社会の片隅で同族の仲間たちと一緒に暮らした。彼はニニーヌ・ヴェースと共にスクラップの鉄くずを集めて売った。(略)
妻ナギーヌと息子バビクは、パリの顔のない貧者の一群に過ぎない存在となった。(略)
[死後まもなくパリを訪れナギーヌの貧困を目にしたレス・ポールは]レコード会社に働きかけ滞っていた著作権料の支払いを回復させた。

1959年ジャズマニアがニンニンを見つけ出し録音を勧める

「私は皆がよく知っている兄の特徴を真似したくはなかった。有名なジプシー・スタイルの枠組みのなかで、自分の独自性の証となるものを作り、自分の個性を確立したかったのです。このため、兄が作曲したテーマに基づいて、いろいろなアレンジを施した曲を用意しました。しかし、私のレパートリーには自分の新曲もいくつか含まれているのです」
(略)
ニンニンは1982年にこの世を去ったが、遺骸はサモアの町でジャンゴの横に埋葬された。

Joseph Reinhardt - Nuages (1978)

著者あとがき

私以前にも、ジャンゴの一生を解明しようとした人々はいた。そのひとりが『地上より永遠に』をヒットさせた小説家のジェイムズ・ジョーンズだ。(略)『地上より永遠に』の成功後、ジョーンズは1958年にパリのサン・ルイ島に転居して、ジャンゴの一生をもとにした二作目を執筆しようと試みた。彼はナギーヌ、ニンニン、その他の関係者ににインタヴューを行い、あらすじを考え、「No Peace I Find」というタイトルもつけた。だがいろんな人から聴いた話が食い違っていたり、あまりにも突飛な逸話が数多く出てきたため、途方に暮れた彼は小説を完成させられずに終わった。ジプシーにとっては、好奇心をそそる作り話のほうが事実よりも大切なことが多いのだ。