ジャンゴ・ラインハルトの伝説・その3

前日のつづき。

差別

世間は音楽的良し悪しよりもミュージシャンが黒人かどうかだけを問題にしていた。黒人でさえあれば、ジャズができるとフランス人は思い込んでいた。(略)
多くのフランス人にとって、ジプシーは「賤民」であり(略)ジャンゴに回ってくる仕事はあいかわらず伴奏ばかりで、スターは黒人ミュージシャンだったし、そのうえギタリストが主役のジャズ・バンドなど、誰も注目しなかった。

オスカー・アレマン

 1930年代のはじめにパリで、ホットなジャズ・ギターの手法を開拓したのは、ジャンゴだけではなかった。オスカー・アレマンという名の、アルゼンチン出身クレオール人がパリにいて、ジョゼフィン・ベイカーやフレディ・テイラーなどのバックでギターを弾いていた。(略)
[1909年生まれ、11歳で家族離散浮浪生活、一時はボクサーに。1924年にガストン・ブエノ・ロボとロス・ロボスを結成。ハリー・フレミング一座に拾われ、1929年欧大陸ツアー中にジョゼフィン・ベイカーがスカウト]
(略)
[ジャンゴはピックを使ったが、アレマンは]五本すべての指を使い、バンジョー奏者の親指用のピックも嵌めていた。(略)アメリカ製で三角形のボディのメタル・ギターを弾いていた。このギターを指弾きすることで、抑えの効いたパーカッシヴなサウンドになり、音色はジャンゴのものよりも柔らかかった。
 アレマンのジャズ・スタイルは、マルチな芸人だった彼の経歴に負うところが大きい。彼はギターだけでなく、歌もダンスもできたし、彼の音楽は、ちょうど初期のジャズがそうだったように、ダンス・リズムと密接な関わりをもっていた。アルゼンチンで生まれ育った彼は、ラテン・リズムをジャズの世界に運んできた。ラテン・リズムがまたジャズにとって非常に珍しい時期である。だがそれ以上に、彼のギターには強烈なスウィングのリズムが備わっていた。
 ジプシーが伴奏にポンプの技法を用いるのに対し、アレマンは伴奏でオスティナートを多用する傾向があった。つまり単音による短いフレーズを繰り返して、主旋律を支えるのだ。これに対してジャンゴは、ジプシーの繊細な感受性とヨーロッパ的・装飾的な形式を持っていながら、同時に、コード・チェンジのたびごとにシンコペーションを多用するという点で現代的でもあった。(略)
 アレマンは独創的なギター奏法を工夫し、良いバンドで良い仕事をしていたにもかかわらす、[後ろ楯がなく録音は8曲のみ](略)
ジャンゴの場合は、一応フランス人に分類されることから、フレンチ・ジャズの発展を企図するオット・クラブの後援を得られたことがたいへん大きな力となった。(略)ヌリーとドローネーの支援がなかったら、ジャンゴはひょっとするとまったく無名のまま終わっていたかもしれない。(略)
1934年から35年にかけて、初期のジャンゴのクインテットは、オット・クラブのおかげで存続していたと言っても過言ではない。最盛期においてすら、おもにレコードによってバンドは存在していた。

凄いなYT。まさに百聞は一見に如かず。
Oscar Alemán Live

1937年が明けると、

彼はパリの花形スターになっていた。ブリックトップの店からサル・プレイエルまで、ジャズ・ファンも上流階級も、一様に彼の音楽を讃えた。(略)名門ロスチャイルド家は彼を雇って夜会で演奏させ、映画スターたちは彼の音楽に合わせて踊り、王族すらジャンゴの魔法の手と握手しようと列を作った。(略)彼は不世出の神童として、あるいはジャズの化身、洗練されたパリに放たれた高貴なる野蛮人として、驚きとともに語られた。彼の存在自体が神話となりつつあった。あらゆる驚異を飲み込んで、パリの街は沸騰していた。(略)白いタキシードを着たジャンゴには、まるで東洋の王子のような、神秘の香りが漂っていた。そして生まれたときから王であったかのように、非常に尊大にふるまった。褐色の肌、目尻のつり上がったアーモンド形の目、大きくアーチ形を描いた眉。

文盲

 ジャンゴは自分が読み書きできないことを、恥だと思っていた。駅の標識が読めないので地下鉄を使うことは避け、レストランのメニューや契約書は読めるフリをした。(略)何より驚くのは、彼はフランスの作詞家・作曲家・音楽出版社協会(SACEM)の会員にー度もならなかったことだ。権威ある協会が行う筆記試験に合格できないためだった。(略)
[サインだけでも覚えたらとステファンが提案]
すると彼はすぐに乗り気になった。ただし、人には絶対に内緒にしてくれという条件で。僕は彼にまずアルファベットを教えようとした。しかし彼にとってはそれすら難しいので、大文字だけを教えた。(略)もちろん『ジャンゴ』からやり始めたんだが、なかなか書けるようにならなかったので、僕はこう言った。『ジャンゴと書けなくてもいいよ。Dだけでも充分だから』。彼は最初、名前を全部書くことにこだわっていた。ジャンゴという名前をすごく気に入っていたし、音の響きが好きなんだと言っていた。(略)でも結局彼も疲れてしまい、Dだけで済ますという僕の意見に従った。(略)それでも彼は、絵を描くようにして形を憶えて、どうにか書けるようになった。いったん書けるようになると、いくら紙があっても足りないくらいだった。どこを見てもD.Reinhardtとそこらじゅうに書いてあったよ。(略)
 こうして最初のレッスンが終わると、ジャンゴは、いろんなフランス語の言葉を、声に出して発音して、その綴りを紙に書くことに興味を持ち始めた。(略)正しい綴りがどうなのか、ということはあまり気にしていなくて、耳で知っているだけの言葉を書いてみる、ということが面白いと思っていたようだった。

下記リンクに著者インタビューがあって、トピックスの下に、友達の米兵ギタリスト・フレディに贈ったサイン入りポートレイトがあります。朴訥な字で「POUR FREDDY、〜」。
Michael Dregni, author of Django: The Life and Music of a Gypsy Legend - Jerry Jazz Musician
ナチスはジャズを嫌悪したが、ドイツ高官にも大流行、大衆懐柔策として徹底的に排除はしなかった。

[灯火管制下]パリの深夜は以前にもまして狂乱状態となり(略)戦線から帰ってきたドイツ兵たちはナイトクラブを徘徊し、将校たちは(略)公費を濫用して遊んだ。(略)[客席の占領軍兵士たちは]ジャンゴの一族を、「疫病のジプシー」呼ばわりして迫害しているナチスの手先なのだ。そしてジャズを禁止しておきながら、ここでジャンゴに金を払ってジャズを聴き、アメリカのジャズをやれと次から次にリクエストを叫んでいるのだ。
(略)
[ドローネーはナチスの検閲を逃れるため米語タイトルを仏語に変換]
Tiger Rag」を「La rage du tigre(虎の怒り)」と訳し、古いフランスのカドリールに基づく曲だと真っ赤な嘘を(略)「Honeysuckle Rose」を「La rose de chevrefeuille(スイカズラ)」に(略)意味はまったく無視して音の響きだけでタイトルを変えたものも(略)「I Got Rhythm」は「Agatha Rythme」に。[セント・ルイスの仏語読みサン・ルイとパリのサン・ルイ病院の悲惨を掛けて]「St.Louis Blues」が「La tristesse de Saint Louis」

ザズー

[戦時中ジャンゴを求める集団が発生]
ドローネーは自分の目を疑った。「僕が見たのは、フランスでジャズが突然爆発的に大衆性を得た瞬間だった」。この若者を、フランスの新聞は冷やかし半分に「小さなスウィングたち」と呼んだ。だがすぐに若者は、もっといい名前を自分たちで発案した。「ザズザズザズエ」と聞こえるキャブ・キャロウェイスキャットの歌い方を愛する彼らは、自分たちを「ザズー」と名乗った。
 「ザズー」にとってスウィングはライフスタイルだった。キャロウェイのズート・スーツに憧れて同じようなスーツを着たり(略)髪を長く伸ばして首の後ろに垂らし、頭のてっぺんには昔のポンパドールのような大きな髷を結っていた。少年たちはジャンゴを真似て口髭を生やし、きれいな曲線になるよう念入りにカットして唇の上を飾った。バギー・パンツと長いスーツ・コートをはおり、コートの下には太い立ち襟のついたシャツと派手な色のベストを着ていた。陰鬱な戦争中には非常に目立つ服装だった。(略)
彼らにとってスウィングは、政治的な意思表示でもあったのだ。サングラスでさえも、抵抗のシンボルだった。濃い青のレンズは、パリの灯火管制で青く塗られた窓を意味し、彼らの親の世代と、その世代が引き起こした戦争に対する批判を皮肉を交えて表していた。当時のフランスとその若者を支配していたヴィシー政府と占領ドイツ軍は、ザズーにとってもっとも大きな批判対象だった。

1941年「ヌアージュ」が大ヒット。モーリス・シュバリエ級のスターに。
Nuages - Django Reinhardt

 「ヌアージュ」はフランス全土を席巻した。このソフトでビタースウィートな魅力を持つ曲は、誰でも口笛で吹くことができ、食料配給カードと夜間外出禁止令と灯火管制を強いられた当時のパリジャンの心に深く染み入った。メロディは簡素でありながら、悲しげで、かつての楽しかったパリに対する夢見るようなノスタルジアを、聴く者の心に呼び起こした。

ウディ・アレン「ギター弾きの恋」

ギター弾きの恋 [DVD]

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  • 発売日: 2001/10/26
  • メディア: DVD

元ネタでは星でした

占領下のフランスでサーカスはひとつの黄金時代を迎えていた。これを見たジャンゴは、ギターを弾きながら光り輝く星形のブランコに乗って舞台に降りてくる自分を想像した。スターである自分にぴったりの演出だと思ったのだ。バンド仲間にもけしかけられたジャンゴは、サーカス団に頼んで星のブランコを作らせた。「すっごくアメリカ風だろ!」と彼は得意満面だった。だが、いざブランコができあがり、試しに空中で乗ってみるという段になって、バンドの誰かが冗談で、ブランコのロープがあまり強くはなさそうだねと言うと、ジャンゴは急に怖がって、その後みんながどんなになだめても、けっしてブランコに乗ろうとはしなかった。
 結局ジャンゴは、豆機関車に乗ってステージに登場した。頑丈な鉄のレールの上を走る、高さ数十センチしかない安全な乗り物だった。

暗黒街のバロ

[1940年代半ば「永遠の二番手」に見切りをつけ、数曲のワルツを残し、バロはギャングとなり闇商売で成功]
その前衛的な形式は、のちに「ヴァルス・ビバップ」と呼ばれるようになった。(略)バロの卓越した技量を持つギターの音が、当時の暗い路地裏や物騒な裏通りに流れる――テーマの伴奏には、まるで不吉な影のような奇妙な和音が使われ、剌すような変則的なリズムと、聴く者の度肝を抜くような奇抜なオブリガートアコーディオンの後ろで踊っている。ビバップのリズムを伴奏にいち早く取り入れたのだ。その結果、不思議で気だるい雰囲気と強烈な印象を持つ曲が生まれた。それはバロの性格と、ジャンゴにどうしても勝てないことへの彼の不満とが反映したものだった。いわばジャズのシュルレアリスムともいえるもので、これには類似したものすら、現在まで地上のどこにも存在しない。
[戦後計20年ほど刑務所に、1966年出所し、録音を残す。経営するクラブの閉店後、セルマーのギターでジャムった]

明日につづく。