カノッサの屈辱とユダヤ迫害

中世の国家と教会―カノッサからウォルムスへ 1077~1122

中世の国家と教会―カノッサからウォルムスへ 1077~1122

新しい信仰

封建世界の教会の硬直した信仰のなかへ、未だ聞いたこともない、新しい思想を持ちこんだのも、商人たちであった。(略)イタリアから来た人びとは新しい信仰をひろめ、その聴聞者たちに、教会の秘蹟なしにえられる霊魂の救いを約束した(略)この世界から逃避し、――洗礼も、聖餐も、贖罪もなく――自分の労働によって生きようとおもっていること、が明らかにされた。(略)
新しい信仰は、都市住民層に彼らにふさわしいイデオロギーを伝えようと、おずおずと、手探りで努めつつ、教会という制度をもたない、ただ聖書にのみ基礎をおいた信仰共同体の存在を宣言したのであった。(略)
アキタニアでは、反教会的な教えがすでに1018年に現われており、マルヌではおそらくそれより早く、またオルレアンでは1022年にそれが出現している。いたるところで、新しい純化された信仰のための闘いがなされていた。こうした教えがすでに11世紀の中頃ザクセンにまでたっしていたことは、増大するコミュニケーション、広くひろがっていく商業が、商品だけでなく、ビザンツブルガリア起源の、カトリックの教義を疑問視するような思想をも伝えるものであった、ということを示している。

下僕制

農民の大部分は、隷属状態にとどまり、領主の経済外強制につよくさらされたままであった。教会はこの状態を承認し、それを神の欲し給うところであるとした。(略)
下僕制は、良い人間を教育するための、神の試練にほかならない(略)階級支配のこうした正当化は、中世全体を通して、聖職者の重要な任務に属したのである。

グレゴリウス七世

彼以前のどの教皇にもみられないほど、グレゴリウス七世は、自分に用いられうるあらゆる手段をもって、権力教会のために立ち向った。この権力教会においては、ただ聖職者だけが支配し、命令し、国王も、諸侯も、ましてや農民、市民も発言権をもってはいないのである。
 他面において、グレゴリウスとその一党は、新しい世界像をもって、神格化されたドイツ王権から神秘的救済者観、奇蹟実現者観をはぎとった。(略)
グレゴリウスによって強調されたこの新しい帝国・国王概念には、国政的意義があった、というのは、これによって彼は、ドイツ国王の支配をイタリア、ブルグント、ハンガリーボヘミアの支配から分離したからである。

カノッサの屈辱

国王は国王で、憎むべき成り上り者によって強制されたこの地位の降格を十分に意識していた。それは、カノッサの食卓での、彼の振舞いにも示されている。陰うつに、言葉少なく、彼は食卓に坐り、なにものにも触らず、爪で食卓の板を掻いていた。もちろん彼は、帝国における王冠をめぐる綱引きを、自分の有利なように決定しうる時間を獲得したと考えた。しかし、彼の父の精神にあった帝国改革という高邁な理念は、現実のまえに、粉々となって砕け散った。彼は瓦礫の山のまえに立ち、完全に最初から始めねばならなかった。彼がともかくもう一度始めることができたこと、彼が再び政治的に行動能力をえたこと、これを彼はカノッサ行に負うている。この行動の自由は高価についた。しかし、彼にほかにどんな可能性があったのであろうか? グレゴリウスもまた、彼の勝利を心からは喜んではいなかった。グレゴリウスは、相手の廃位を堅持しなければならないそのときに、相手を破門から解き、和解し、釈放しなければならなかった。このことに、情容赦のない諸侯がどのように反応するであろうか?
(略)
ロンバルディアの司教たちがハインリヒに対して反抗した。(略)しかし、その非難の声はながく続かなかった。彼らはすぐに、ハインリヒが再び行動能力を回復したことに気付き、彼の周囲に集まった。(略)
もっとも不満な態度をとったのは、ドイツの諸侯であった。(略)[ハインリヒ復活]の責任を教皇に帰した。彼らの考えによれば、教皇はひとのいいなりになり、しかも約束を破る人物とみなされた。(略)フォルヒハイムにおいて、グレゴリウスの関知するところなく、ただし教皇特使の同意をえて、シュヴァーベン大公ルードルフを対立国王に選出した。つまり、教皇の判決を待たなかったのである。
(略)
グレゴリウスは権力を握ったのが彼ではなくて、反対派諸侯であること、彼にはただ支援者の役割しか残されていないこと、について見誤ることはなかった。
(略)
フォルヒハイムの舞台は、真の力関係を明らかに示した。教皇は、地方権力との抗争におちいった国王を木っぱみじんにすることができたが、彼自身も、貴族戦線の意志に対しては無力な存在であった。貴族たちは、彼らの支配領域においては、ノルマン人やフランスの領主と同じように、教皇の脅迫に楯つく手段と可能性をまさしく行使することができた。彼らにとっては、教皇は認知手段、権力をめぐるゲームの切り札としてのみ重要であった。(略)[グレゴリウス七世]にとって、フォルヒハイムは、ハインリヒにとってのカノッサと同様、少なからざる苦い味をもつものであった。 
(略)
 意地悪く、1077年春と夏、不意をおそったのはノルマン人であった。誓約やあらゆる種類の教会の罰に遠慮することなく、彼らは教皇領に侵入し、サビーヌ人の土地をこえてティボリに進み、ベネベントを囲み、ローマをさえ脅かした。ここでは、破門と教会外追放もなんら助けにはならず、ただ懇願と祈願が残されているだけであった。

王の逆襲

ハインリヒに対する都市の同情は、道徳的だけでなく、物質的支持となってあらわされた。市民共同体は、ハインリヒに敵対的な司教を追放することによって、彼を援け、また彼に金を寄付し、ハインリヒはそれを傭兵徴募のために使った。(略)それによって、家臣の供出兵に依存しなくなっていた。また彼は、困難なときに農民を軍事奉仕に動員した。(略)
彼はグレゴリウス七世の鼻をつまんで、意のままにふりまわした。教皇は、相変わらず、ドイツにおける諸党派の仲裁裁判官として登場するという目的にしばられ、身動きできなくなっていた。ハインリヒは、グレゴリウスを引き留めておくえさとして、この固定観念を利用した。すなわち、彼は口先では思い上った仲裁裁判官の役割を認めながら、実際には、これを妨害するためにあらゆることを行った。ハインリヒは、ルードルフ派の諸侯たちが教皇のこの態度を怒り、ルードルフとザクセン間に亀裂が生じるにいたったことを知った。彼は見せかけの平和交渉をつうじて、教皇特使に服従を顕示しながら、他方、舞台裏では、敵に対して新しい打撃を与えるべく武装を強化していたのである。

1084年3月、ハインリヒは、ついにクレメンス三世と軍隊とを連れて、聖都へ入った。復活祭の日曜日、クレメンスは彼に聖ペテロ教会で皇帝の戴冠を行った。グレゴリウスは、サン・タンジェロ城でなすところなく、人民が彼を呪い、新教皇と皇帝に讃歌をおくるのを見守るほかはなかった。
 そこへ、ようやくロベール・ギスカールが、ノルマンとサラセン人の部隊をひき連れて、救援にかけつけた。皇帝側は、躊躇することなく都市を去り、北方へと引き上げた。結局、ハインリヒは目的を達し、優勢なノルマンと事を構えようとは考えなかった。 三日間のあいだ、不幸な都市には、強盗、放火、殺人が支配した。勝利者が引き上げたとき、残ったのは瓦礫の山であった。グレゴリウスにとって、この「解放された」都市に留ることが、どうしてできただろうか。そんなことをすれば、彼は市民によって八つ裂きにされかねなかったろう。

論争文書

 混乱したこの時代で新しいことといえば、改革派が武器として論争文書を用い、グレゴリウス七世が自分の書簡を宣伝手段として利用したことだけでなく、国王の官房もまた同じ手段でしっぺ返しをしたということである。ハインリヒ四世の書簡が比較的多数保存されているのは、いうまでもなく、それが宣伝の目的で書かれ、流布されたということから説明されうる。それは、味方を獲得し、自分の立場を正当化し、相手の立場を不条理へ導くために役立てられた。
 もっとも鋭いペンをふるったのは論争文著述家であったが、彼らは、相手の立場の弱点すべてを情容赦なくあばき出し、自分の立場を、自由に使えるあらゆる権威、たとえば聖書や教父からの引用文によって、擁護した。

教皇派が国王攻撃のために、反ユダヤ感情を煽った

もし皇帝に忠実な司教たちがユダヤ人保護を支持するというのであれば、国王に打撃を与えるためには、教皇派としては、それを掘りくずさなければならない。こうしてユダヤ人は、欲しなかったにもかかわらず、叙任権闘争の渦のなかに巻きこまれてしまった。グレゴリウス七世の時代には、彼らはハインリヒ四世の側についた。改革派がユダヤ人を中傷する場合、じつは目標は国王にあった。そのさい、改革派は民衆の声を巧みに、「イエスを殺した者」の方向へ操っていったのである。
 民衆は、はじめ、反ユダヤ的感情にとらわれておらず、迫害の行動などには出なかった。教会改革者が、はじめて、憎悪と熱狂を大衆にもちこんだのである。