シュタイナー、支出税のススメ

1919年の講演録。

社会の未来―シュタイナー1919年の講演録

社会の未来―シュタイナー1919年の講演録

長いけど、これでも5ページ分を短縮
P43-

 社会主義者たちが一番誤解しているのはこの点なのです。(略)
これまで生じてきた禍は、個人の所有者が生産手段を私有化した結果なのだから、生産手段を私有化せず、共同体が生産手段を管理するようになれば、禍がなくなるだろう、というのです。(略)
けれども、たとえば郵便や鉄道のような生産手段を国有化した結果はどうだったか。国家が資本家になったことによって、禍が除去されたなどと言うことはまったくできない。
 実際、国有化することは決して望ましい方向へ向わなかったのです。生産手段は国家共同体によっては管理できません。さらにまた、商品を求める人たちが消費組合を組織することによっても、多くを期待できません。消費を規制し、そして消費財の生産をも規制しようとする人は、社会主義の観点から言っても、消費と生産の専制君主になってしまいます。ですから国有化も市町村有化も、さらに消費組合による管理も、専制を招く結果になってしまうだけです。生産者は消費者の奴隷になってしまうでしょう。ですからすでに人びとは新しい共同体管理の在り方として、労働者生産連合体、労働者生産組合を組織することを考えています。その場合、労働者自身が連合して、自分たちの意見、自分たちの生活原則に基づいて、自分たちのために生産することになります。
 その場合社会主義者たちが経験したのは、個々の資本家の代りに、資本主義的な態度で生産する多数の労働者を出現させてしまった、という事実でした。資本主義的に生産する労働者は、個々の資本家と同じことしかできないのです。したがって労働者生産組合も失敗に終わりました。(略)
そこで特定の国家、特定の封鎖的経済領域の社会全体が、一大代組合組織となり、その参加者のすべてが生産者であると同時に消費者であるような場合を考えました。つまり、共同社会のための生産を、個人が自主的に行うのではなく、共同社会そのものが生産と分配をきめていくのです。(略)
けれども国家社会全体を含む大組合組織になると(略)全体を見通すことができないために、小規模の範囲内なら容易に認められる誤謬でも、つい見通されてしまうのです。問題はここにあります。
(略)
今日の時代に必要なのは、経済生活に取り入れようとしているこの仕組み全体が、経済生活にとってはまったく異質なものだ、と洞察することです。ところが、経済生活を改革どころか革命しようとさえ考える人のほとんどは、もともと政治家であり、自分が政治の分野で学んだことを経済生活の管理に適用できる、という迷信から出発しているのです。けれども、私たちの経済循環の健全化は、経済生活を経済自身の条件から考察し、形成するときにのみ、可能になるのです。

支出税≠間接税
P66-

 現代は、貨幣を独立した経済対象と考えるような時代だからこそ、貨幣収入のなかに課税すべき対象を見ようとせざるをえないのです。しかしその結果、課税者は抽象的な貨幣経済の加担者になっています。本来現実の財でないもの、財のための単なる記号にすぎないものに税をかけるとき、人は経済的に抽象化されたもので働かされているのです。貨幣は、それが支出されるとき、はじめて現実的な力となります。そのときはじめて、貨幣は経済過程のなかに入っていきます。
(略)
私たちが収入をどれだけ得たとしても、それだけでは何の役にも立たないのです。(略)支出できる可能性だけが社会の役に立つのです。(略)それゆえ、税制によって経済過程のなかに寄生虫的な存在を作り出すのではなく、一般社会に本当に役立ちうるものを生み出そうとするのならば、貨幣が経済過程のなかに移される瞬間に課税しなければならないのです。そこで一見奇妙な要請をすることになります。つまり収入税は支出税に変えなければならないのです。どうぞこのことを間接税と取り違えないでください。間接税とは現代ではしばしば統治者の願望として、直接税、収入税では十分ではないという理由だけから用いられています。(略)支出税と言うときには、私の獲得した貨幣が経済過程のなかに移される瞬間に、つまりそれが生産的となる瞬間に課税の対象となるということです。

完全な国家
P192-

カール・マルクスの思想形態の特徴のひとつは、事柄がどうなっていくかを積極的に提示しないで、その思想形態のなかに事柄を溶かしてしまうということなのです。(略)
確かなのは君たち資本主義的思想家が君たち自身の生き方により、君たちの社会活動により、みずからの没落を用意していることだ。そのときプロレタリアートがどのようであるか、何を為すか、私は知らない。他の誰もそのことを知らない。それはおのずと明らかになる。
 今述べたところに、マルクス主義の思想形態の特徴があるのです。つまりただただ周囲の外界に現れている事柄を取り上げて、それを考察し、追求するのです。しかしその思想が行きどまりにまで達しますと、その思想内容は崩壊し、無と化してしまうのです。
(略)
この最高に完成された国家はどんな特徴をもっているのか。
 ここでレーニンはそう問い、そして真のマルクス主義者として、次のように答えるのです。完全な国家の特徴は、その国家が生じるとき、その国家がブルジョアジー体制の究極の帰結としてプロレタリアートによって生じるとき、その国家そのものが死滅する。(略)
 これがレーニンにおける特徴的な思想形態なのです。すでにマルクスのなかにも見出せるものがいわば累乗されています。形成された思想がますますはっきりと無のなかへ消えていくのです。ただレーニンは非常に現実的な思想家ですので、国家は歴史的な経過を辿って完成へ向って発展していく、と言います。国家は不完全だから死滅するのではないのです。国家は不完全である限り、不完全な自分のなかから生命力を引き出せるのです。プロレタリアートが国家を完全なものにするとき、そのプロレタリアートが国家に漸次的な死滅の根拠を与えるのです。