個人と国家/樋口陽一

チラ見。

“共和国”はグローバル化を超えられるか (平凡社新書)

“共和国”はグローバル化を超えられるか (平凡社新書)

個人と国家

樋口陽一
 しかし、国民国家の集権構造の基礎が1793年を伴った1789年によって定まった、という事実を確認することはできるだろう。報告者が国民国家の集権構造と言うのは、あらゆる中間集団を排除する個人と国家の二極構造のことである。1789年宣言16条のかの名高い定式は、そのことによってこそ、本当の革新性を得ることができたのだった。人権についていえば個人としての人一般を発見したからであり、権力分立についていえば、一般意思を表明する国民議会でしかありえぬ議会となったのだからである。
 近代個人主義の、あえて言えば偉大さと同時に苦悩が、こうして全きすがたを現わす。1793年によって補われた1789年は、国家と個人の二極構造を後戻りできぬまでに確立し、あらゆる伝統的な身分集団から個人を解放すると同時に、今や権力を一手に集中する国家に対抗して中間集団ならば提供できたはずの保護の楯を、個人から奪ってしまったのである。
 実は、近代の二極構造は、まずイギリスで構想されていた。トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』は、諸個人の意思の所産としての主権国家像の見事な記述であった。つぎにジョン・ロックが、「プロパティ」という鍵概念を用いて、集権的国家構造の自由主義版を示した。個人と国家の二極構造の論理を、そこに見てとることができる。
 歴史過程としては、しかし、17世紀のイギリス人たちは、マグナ・カルタと、貴族および庶民の代表という中世立憲主義の伝統を、王権に対する闘争の支えとして援用した。1689年権利章典は、「聖職貴族、世俗貴族および庶民」の「古来の権利および自由」を確認したのである。この定式は、私たちがさきに見た1789年の定式と鮮明なコントラストをなしている。
 諸個人の意思の所産ではない身分秩序への1689年による言及は、個人と国家の厳格な二極構造の論理を緩和するのに少なからず貢献するだろう。アメリカの憲法制定者たちの作品は、いってみれば1689年の共和制版であった。新大陸では、個人を抑圧する身分制秩序への怖れはなかったし、相互に自由な人間同士が形づくる結社の積極的役割を期待することができたのである。

ナショナリズムはネーションがかかる病気

(J=P・シュヴェヌマン)
ネーションとは、何よりまず民主主義の土台をなすものであり、即ナショナリズムに結びつくものではありません。ナショナリズムはネーションがかかる病気です。ネーションとは、まず民主主義的な表現の枠組であります。ナショナリズムとは一線を画しつつ、共和主義的パトリオティズムを主張することができるでしょう。ナショナリズムは常に自国を他国より上に見て、教訓を垂れようとします。教訓を垂れるだけで終わるなら、たいして重大な問題ではありません。しかし、ナショナリズムパトリオティズムの区別はきわめて重要だと思います。ネーションとは、まず「市民の共同体」であり、共に「一般意思」の定義に参加する可能性のことです。したがって民主主義について議論するとき、ネーションを棚上げにすることはできません。

ゲソー法、植民地

(J=P・シュヴェヌマン)
[ホロコースト否定論を罰するゲソー法について]
ゲソー法は無用だったと思います。誰もガス室の存在を否定することはできません。ゲソー法が何の役に立ったでしょうか。(略)自由の原則をそこまでゆがめることが有益だったでしょうか。われわれは革命の際に「自由の敵には、自由を与えず」と言いました。その結果、恐怖政治がしかれ、2000人もの首が切り落とされました。
(略)
 私は「記憶法」には反対です。最近はまた、フランスの植民地化にはプラスの面があったことを認める法律が、与野党一致で採択されました。社会党も賛成しました。三年前〔二〇〇五年二月〕のことです。(略)
私自身アルジェリアに1961年から62年に兵士として行きましたので証言できますが、多くのアルジェリア人の目のなかに、私たちの存在が望まれていないことは賢くなくても読みとれました。したがって私は、記憶の問題を法律で定める「記憶法」には反対です。活発な議論を保障すべきです。

「人」権

樋口陽一
[ジョン=スチュアート・ミルは]政治権力=国家による抑圧からの自由とともに、社会的権力による専制すなわち、個性の形成をさまたげようとする世間の傾向そのものからの自由の重要さを力説した。前者にくらべて後者こそが、刑罰の制裁を伴ってはいないが、はるかに深く生活の細部まで浸透し「精神そのものを奴隷化」するからだ、という指摘の重さを、あらためて十分に受けとめたい。
(略)
[ミルが社会的権力からの自由という課題の重要さを力説したのは]
国家からの自由が憲法論の主題となる19世紀状況(ロック図式)に先行して必要だった17−18世紀状況をあらためて想起すべきことを示唆する意味を持つものでもあった。身分制と教会権力による束縛に対して、国家が個人を解放する役割を担う(ホッブズ図式)ことが必要だったという論理を、読みとることができるからである。いわば、19世紀型自由の体系に18世紀の論理が母斑として残されている、と表現してもよいのではなかろうか。その母斑の記億がないところで国家からの自由が一方的に強調されると、あらゆる規制を悪とする言説がつき走ることになる。新自由主義といわれるものが、それであろう。
(略)
「人」の権利は、公共を託するものとして設定した権力から自由な、権力に対して無関心な個人の立場を保障する。これまで憲法学がそのような国家からの自由を核心に置いてきたとき、多くの場合は、意識してか意識するまでもなくかは別として、ロック・モデルを想定して議論してきた。なお、それに対し、意思にもとづく契約という構成とはそもそも違った自生的な場を想定して自由を語る、という思考方法もある。この立場からすると、「権利」はすでにそれを保護する権力を前提にせざるをえないのである以上、軽々しく自由「権」などという呼び名をみとめることができないことになる。そのようにしてこの立場は、さきに挙げた「共和国」論の第二の論敵、つまり「国家なき市民」論の立場に近づく。
(略)
 「人」の側面の過剰は、公共への無関心とただ乗りを助長し、デモクラシーを掘り崩してゆきかねない。「市民」の側面の強調は、「人」の私的空間が「公共」の名によって収縮されてゆくおそれにつながるだろう。

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